第3話:隻腕の麒麟児
石油ストーブの上で、やかんが小さく白い息を吐いている。
吐く息が白くなるほどではないが、道場の空気はまだ冷たい。
緊張感の糸は張ったまま、足捌きやノーモーションでの打ち込み――特に左手での裏拳を、速度重視で練習する。
体術の仕上げに入ったところで、背中に――気配が落ちた。
砂利を踏む音はなかった。
引き戸が開く気配もなかったはずだ。
日の光を遮る気配があって、ようやく認識できた。
そしてその認識も、あえてのものだろう。
「……軸が高い」
低く、しゃがれた声。
やかんの吐く煙が揺れた。
ゆっくり振り返ると、道場の柱にもたれるように、祖父――鏡鉄が座っていた。
白髪混じりの長髪に、無精髭。
左腕だけで器用に葉巻を咥え、もう一方の袖は、肘から先が空っぽだ。
神主の装束ではなく、くたびれた和服の上に羽織を雑に引っかけ、まるで山に籠もっていた仙人のようだ。
……いや、『野生の獣』のほうが近い。
「下半身の合理は悪くねぇ……ただ、打ち込みに欲が出ちまってる。
当てることを意識した拳ほど、避けやすいものはない。殺す気でやれ」
「……殺す気なんて」
言いかけて、やめた。
先の大戦で片腕を失ってでも生き残ったこの老人に、生死を問う問答は釈迦に説法だ。
鏡鉄は、こちらを見ていない。
眉間に皺を寄せ、視線は床、足運び、呼吸――全部をまとめて“見ている”。
葉巻の先が、赤く灯った。
紫がかった煙が、ゆっくりと天井へ昇っていく。
「曲がりなりにも神主が、それはダメだろ」
思わず口にすると、鏡鉄の肩が、かすかに揺れた。
笑ったのだ。
「神主“だから”だ」
「きららがいるからやめてくれ」
間髪入れずに吐き捨てる。
かっこいい大人のつもりが、最愛の孫娘は無表情で強い視線を向けていた。
「じいじ、臭い」
ボソリと言われ、哀愁漂う顔で葉巻をガラスの灰皿に押し付ける。
まだ半分も燃えていないが、嫌われたくない気持ちが勝ったようだ。
「……まぁ、聞け」
一歩、踏み出す。
たったそれだけで、空気が変わる。
殺気じゃない。
圧でもない。
“この距離に立ったら、死ぬ”
ただそれだけが、身体に染み込んでくる。
「蘇芳はな、剣術じゃねぇ」
鏡鉄は、俺の正面に立った。
「人を殺す『手段』であり、『手順』だ。
情を挟めば遅れる。迷えば、生き残れねぇ」
ないはずの右腕の袖が、わずかに揺れる。
「お前は頭がいい。だから、いろんなもんを考えちまう」
視線が、俺を捉えた。
この視線は狂っていない。
ただ、あまりにも多くの“終わり”を見てきただけだ。
それが分かっているから、俺はこの人と一緒にいられる。
鏡鉄は、踵を返した。
「おまえは、まだまだ強くなるよ」
引き戸は、音もなく閉まった。
残されたのは、葉巻の残り香と、背中を押してくれた言葉だった。




