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イロガミノイロハ  作者: 伽耶


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3/9

第3話:隻腕の麒麟児

石油ストーブの上で、やかんが小さく白い息を吐いている。


吐く息が白くなるほどではないが、道場の空気はまだ冷たい。


緊張感の糸は張ったまま、足捌きやノーモーションでの打ち込み――特に左手での裏拳を、速度重視で練習する。


体術の仕上げに入ったところで、背中に――気配が落ちた。


砂利を踏む音はなかった。

引き戸が開く気配もなかったはずだ。

日の光を遮る気配があって、ようやく認識できた。

そしてその認識も、あえてのものだろう。

「……軸が高い」

低く、しゃがれた声。

やかんの吐く煙が揺れた。

ゆっくり振り返ると、道場の柱にもたれるように、祖父――鏡鉄が座っていた。


白髪混じりの長髪に、無精髭。

左腕だけで器用に葉巻を咥え、もう一方の袖は、肘から先が空っぽだ。


神主の装束ではなく、くたびれた和服の上に羽織を雑に引っかけ、まるで山に籠もっていた仙人のようだ。


……いや、『野生の獣』のほうが近い。


「下半身の合理は悪くねぇ……ただ、打ち込みに欲が出ちまってる。

当てることを意識した拳ほど、避けやすいものはない。殺す気でやれ」

「……殺す気なんて」

言いかけて、やめた。


先の大戦で片腕を失ってでも生き残ったこの老人に、生死を問う問答は釈迦に説法だ。


鏡鉄は、こちらを見ていない。

眉間に皺を寄せ、視線は床、足運び、呼吸――全部をまとめて“見ている”。


葉巻の先が、赤く灯った。


紫がかった煙が、ゆっくりと天井へ昇っていく。

「曲がりなりにも神主が、それはダメだろ」

思わず口にすると、鏡鉄の肩が、かすかに揺れた。

笑ったのだ。

「神主“だから”だ」

「きららがいるからやめてくれ」

間髪入れずに吐き捨てる。

かっこいい大人のつもりが、最愛の孫娘は無表情で強い視線を向けていた。


「じいじ、臭い」


ボソリと言われ、哀愁漂う顔で葉巻をガラスの灰皿に押し付ける。


まだ半分も燃えていないが、嫌われたくない気持ちが勝ったようだ。


「……まぁ、聞け」

一歩、踏み出す。

たったそれだけで、空気が変わる。

殺気じゃない。

圧でもない。

“この距離に立ったら、死ぬ”

ただそれだけが、身体に染み込んでくる。


「蘇芳はな、剣術じゃねぇ」

鏡鉄は、俺の正面に立った。


「人を殺す『手段』であり、『手順』だ。

情を挟めば遅れる。迷えば、生き残れねぇ」

ないはずの右腕の袖が、わずかに揺れる。


「お前は頭がいい。だから、いろんなもんを考えちまう」

視線が、俺を捉えた。

この視線は狂っていない。

ただ、あまりにも多くの“終わり”を見てきただけだ。

それが分かっているから、俺はこの人と一緒にいられる。


鏡鉄は、踵を返した。

「おまえは、まだまだ強くなるよ」

引き戸は、音もなく閉まった。

残されたのは、葉巻の残り香と、背中を押してくれた言葉だった。

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