第17話:迦陵頻伽とは③
「お嬢、坊ちゃん、すみません!」
門下生が駆け込んできて何事かを耳打ちすると、石火矢さんは血相を変え、そのまま部屋を出ていった。
俺が蘇芳家を訪れると、茜の母――朱里さんが張り切って手料理を始めてしまう。
子供が友達を連れてくると、妙にテンションが上がる親の話を聞いたことがあるが、まさにそれだろう。
……忘れてた。
早いところ、ズラかろう。
何もかも理解できない独創的な料理は、口にしないに越したことはない。
「いろは、これとこれを写真に撮れ」
石火矢さんがいた手前、猫を被っていた夜が、肉球で丁寧に指示をする。
写真なんて知ってるのか……。
「わかったけど、何かあるの?」
写っていたのは、さっきの記事よりも新しいものだった。
因幡会館に関する不正入札と、三蓼の庭園についての記事。
今回の事件との関連性は、今のところ見出せない。
「いや、念のためだ」
腑に落ちないまま見返すと、いつの間にか夜の瞳はアイスブルーに戻っていた。
⸻
石火矢さんには申し訳ないが、挨拶もそこそこにズラかる準備を始める。
スマホで父さんに連絡を入れたが、既読はつかない。
筋金入りのワーカーホリックだ。
褒められたものじゃないが、それでも――仕事をしている父さんが、俺は好きだった。
「どう? 連絡ついた?」
スマホと睨めっこしていた俺に、茜が聞いてくる。
「たぶん、だめだ……昨日泊まりだったはずだから。着替えを取りに行くついでに聞いてみるよ」
「え……私を置いてく気?」
声のトーンが、ほんの少しだけ下がる。
ズラかる準備は、囮を置くのが一番有効だ。
正午の鐘がタイムリミットだとするなら、もう十五分を切っている。
「置いてく、っていうか――」
言いかけたところで、夜が茜の腕の中から身を起こした。
「連れていけ」
短く、それだけ。
「えー! やっぱり夜ちゃん! 離れたくないよね?」
テンションの上がった茜にもみくちゃにされている黒猫に、思わず憐れみを覚える。
「とりあえず、わかったから早く出るぞ」
用意されていたメモ用紙に、石火矢さんへの謝罪と感謝を書きつける。
書類を少しだけ整理し、客間を後にした。
母屋の方から、日本家屋には似つかわしくないエスニック料理のような独特の匂いが漂ってくるが――
気のせい、ということにしておこう。
鼻のいい夜は悶絶している。
――あとは任せた、緋紅さん、石火矢さん。
茜と並んで、足早に蘇芳家を後にした。
⸻
日が顔を出し、柔らかな暖かさを感じられる時間帯だ。
ぬいぐるみのように茜に抱えられた夜は、うとうとと睡魔と戦っている。
一度、父さんの着替えを取りに戻ろうとしたが、本人から返信が入った。
今日は帰る、とのことだ。
昨日に引き続き、因幡会館に詰めているらしい。
そのまま、そちらへ向かうことにした。
因幡会館は、明治時代に因幡家によって建てられた洋館だ。
因幡家は江戸時代、この辺りを治めていた藩主で、学問に非常に秀でていたと聞く。
この建物も、私財を投げ打って西洋列強に対抗する人材を育てる学舎としての側面が大きかった。
現在は改築され、植物園や昆虫園が大半を占めている。
それでも、建物や残された資料の文化的価値は計り知れない。
墨染や蘇芳とは違うベクトルで、市民の生活を支えてきた場所――
そう言っても過言ではないだろう。
徒歩で三十分ほど。
新市街地側に位置するため少し遠いが、帰り道には白化事件の現場がある。
ついでに、寄っていくことにした。
歩きながら夜の見解を確認する。
「やっぱり今回の白化現象は、赤の彩神が原因なのか?」
「ふむ。原因の一端ではあるだろうが、すべてではないな」
俺の疑問に、夜は片目を開けて答える。
「ずいぶん、遠回しな言い方だな」
「そもそも赤の彩が関わる現象は、基本的に奴の仕業だ」
「……ほぼ黒じゃないか、それ」
今回は、火――あるいは炎の具現化に、彩が抜け落ちている。
単純な話だ。
「何かが起こらない限り、それを失うことは考えられない。
特に、象徴性の高い火の具現化だ。……よくない兆候なのは間違いない」
深く眉間に皺を寄せる夜を見ていると、まだ考えが整理しきれていないように感じた。
「そもそも、赤の彩神……緋縅って、どんな神様なの?」
茜が話を割って入る。
確かに、人格的な部分は気になるところだ。
世界中の神話を見ても、性格のいい神ばかりとは限らない。
「派手好きで、阿呆な鳥だ」
夜は、嫌そうに端的な言葉を吐き捨てる。
「派手好きなのは文字通りだ。奴を見たことがある者は、極彩色で煌びやかだと答えるだろう。
私は視界に入れたくない」
一拍置いて、続けた。
「阿呆というのは……よく人間に騙されていた。
勝負に負けて、対価を渡していたな」
「それは……なんだろうね……」
茜は言葉を濁す。
「まるで茜じゃないか」と言いかけて、俺は口をつぐむ。
俺は大人だ。
少し睨まれたが、無視を決め込む。
「実際、会ってみないとわからないのね」
元も子もない話だが――つまり、そういう状況だ。




