第15話:夜と円清
風が、山桜の香りを乗せて神楽殿を抜けていく。
遠くで、春告鳥の声が聞こえた。
そろそろ、きららが起きてくる時間だ。
「一旦行動するにしても……朝飯、食べてからにするか」
「そうしましょうか」
自然な流れで、墨染家の朝食にありつく気満々らしい茜に、釘を刺す。
「……家、帰れよ」
「えー。だって、ウチ来るんでしょ? 二度手間じゃん」
いや、俺が蘇芳家に行くだけだ。
まったく二度手間じゃない。
確かに――
蘇芳家の食卓は、茜の母親である朱里さんの料理が、まず……かなり個性的な味をしている。
劇物を“朝”から口にするのは、正直、覚悟がいる。
俺は御免被りたい。
夜は、こちらに耳を向けたまま、煙管の灰を白い器に落としていた。
どこかの傾奇者が煙管を叩くシーンを想像してたためか丁寧に手入れをする姿は少し面白かった。
こうして普通に会話しているが、
この姿の夜を、果たして世間に出していいのか――ふと、そんな疑問が湧く。
「……それよりさ、夜」
真っすぐに立ち上がった尻尾に視線をやりながら言った。
「その姿のままで、大丈夫なのか?」
一拍置いて、続ける。
「……そもそも、神社の外に出られるのか?」
夜は少し考えるように間を置き、答えた。
「神域の外では、この姿は疲れる」
尻尾が静かに揺れる。
「外に出て実体化するなら……猫の姿になるが。よいか?」
「ん? いいんじゃないか」
初めて会ったときの黒猫の姿を思い出し適当に答えた。
尻尾が左右に揺れている。
あまり気が進まない様子だが――理由までは、わからない。
「食べたら戻ってくるから!」
たぶん、このままきららに直談判するつもりなのだろう。
俺は茜を伴い、母屋へと戻った。
言い合いをしながら母屋の台所に着いたが――
そこには、誰もいなかった。
……珍しい。
いつもなら、とっくにきららが起きていて、味噌汁の匂いが漂っている時間だ。
昨日、昼寝をしていたせいか、それとも夜遅くまで起きていたのか。
兄としては、理由がどうあれ選択肢は一つしかない。
――起こさない。
俺は静かに冷蔵庫を開け、中身とにらめっこを始めた。
たまごと鮭の切り身があるのでオーソドックスな朝食にはできそうだ。
その背後で、やけに布の擦れる音がする。
振り返ると、茜がいつの間にか、きららのエプロンを身につけていた。
「……何してる」
「え? 朝ごはん、手伝おっかなって」
満面の笑み。
嫌な予感しかしない。
「……一切、食材に触れないでくれ」
「えー、なんでよ」
俺はため息をひとつつく。
蘇芳朱里という存在を、俺はよく知っている。
料理という分野において、あの人のDNAは――あまりにも、強力に娘の茜に引き継いである。
「えー、大丈夫だって。簡単なのにするから」 「そう言って、お前消しゴムみたいなゆで卵出してきただろ……」
「大丈夫! いくらなんでも上達したんだから!」
茜がエプロンの紐を結び直し、冷蔵庫に手を伸ばした瞬間だった。
――こつん。
背後から、かすかな足音。
振り返るより早く、眠たげな声が台所に落ちる。
「……お兄ちゃん」
台所の入り口に、きららが立っていた。
寝癖のついた髪に、かわいいピンクのパジャマ。
半分、夢の中にいるような目で、こちらを見ている。
「……それ、だめ」
視線の先は、エプロン姿の茜。
茜は、完全に固まった。
「え、えっと……おはようございます、きららさん?」
「……おはよう」
ぺこりと茜に頭を下げてから、きららは俺のほうを見る。
「やめさせて」
短い言葉だったが、十分だった。
俺が何か言う前に、茜がしゅんと肩を落とす。
きららは一歩近づき、俺の袖を軽く掴んだ。
「わたし、やる」
「もう少し寝てていいよ」
「もう……起きちゃった」
そう言って、小さくあくびをする。
きららの視線が、再び茜を刺した。
茜はゆっくりと両手を上げる。
「……はい。撤退します」
「賢明な判断だな」
俺が言うと、茜は恨めしそうに睨んできた。
「なによぅ、せっかく手伝おうとしたのに!」 「……朝ごはん、いらない?」
ぴしり、と空気が凍る。
「……食べます」
――完全敗北である。
「たまには、一緒に作るか」
そう言って、俺はフライパンを取り出した。
「……わかった」
観念したように、少し恥ずかしそうにうなずくきららを見て、俺はにやけそうになる顔を必死で隠した。
いじけた茜を宥めながら、きららは味噌汁を作っている。
湯気と一緒に、出汁の匂いが台所に広がっていく。
途中で起きてきたじいちゃんは、部屋の隅で小さくなっている茜を、興味なさそうに一瞥しただけで、そのまま新聞を広げた。
特に何も言わない。
それが、この家の日常だ。
――こうして墨染家に、平和が訪れた。




