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イロガミノイロハ  作者: 伽耶
一章:Embrace the dark

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第10話:墨染神社の神使②

「……美樹。すまない」


神使は――母の名を、口にした。

理由はわからない。

だが、母のことを知っている。

それだけで、信じるに足る理由になると思った。

少なくとも、

俺が立ち止まる理由にはならなかった。


「……猫さん、怪我はない?」

自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


肩を貸す位置を探りながら、離脱の道を頭の中で描く。


白炎の鹿は、纏う炎を大きく揺らし、威嚇しているように見えた。

だが、そこに動物らしい感情は感じられない。

濁った視線を、ただこちらに向けているだけだ。

そこにあるのは、敵意ですらなかった。


――大きい。

思っていたより、ずっと。


さっきまでなかった熱気が肌を焼く。

喉元に刃を突き立てられたような、逃げ場のない感覚。

それでも――

「小僧、下がれ!」

猫さんと同時に後ろへ跳ぶ。


その声色で、余裕がないことがはっきりわかった。


助けに入ったつもりだった。

だが、助ける側と助けられる側の境界は、もう揺らいでいる。


「やだ」

短く、言い切った。


それ以上の理由はいらなかった。

「今下がったら、あんたが死ぬでしょ」


猫さんは、目を見開いた。

白炎が波打ち、角が振り上げられる。

問答無用で、こちらのすべてを呑み込む気だ。

俺も猫さんも、馬鹿じゃない。

この状況が、敗戦濃厚だということくらい理解している。

――分水嶺はひとつ。

辛うじて、白炎に認識されていない茜を逃がせるかどうか。

猫さんは夜の影を大量に放ち、撹乱を試みる。

だが、それらは次々と白炎に喰われ、消えていった。

たぶん、この神使は――

最初から、自分を生き残る数に入れていない。


せめて足手まといにならないよう、思考を回す。

だが、得物もなく、十分に戦えない俺は――

客観的に見て、足手まといそのものだった。


「猫さん!!」

集中した意識に、声が割り込む。

「何か武器ないの? 武器!」

一瞬の沈黙。

猫さんは、気まずそうに視線を逸らした。

どうやらこの猫さんは嘘がつけないらしい。


――ある。

そう顔に書いてある。


「刀! なんでもいい!貸してくれ!」

必死に叫ぶ。

だが返ってきたのは、苦虫を噛み潰したような表情だった。


「……そんな野蛮なもの、持ち合わせてない」

「……嘘つくなよ、にゃんこ」

ピシッと猫耳が跳ねる。

無言を貫く。


その間にも、白炎は荒れ狂い、周囲の緑も、咲き始めた蒲公英(たんぽぽ)の花も、白く侵食していく。

白炎の角から散った火の粉が神楽殿へ流れ、床板を白く焦がした。

住処である神楽殿が傷つくのを見て、猫さんは逆立った尻尾で地面を叩く。


「……背に腹は代えられん…か…」

何かを諦めたように、俺の正面へ立った。


「いろは、よく聞け」

俺の名を呼び、言い聞かせるように告げる。

聞きたいことは山ほどある。

だが――今はそれどころじゃない。


「今、私が貸せる力は五つあるうちの一つだけだ。

要望通り刃物ではあるが、太刀に満たぬ、矮小な清の刃だ」

「それで十分だ。あいつに届くなら問題ない」


悠長に説明を聞く気はなかった。

「……よく似ている」

猫さんはそう呟くと、俺の右目を右手で覆った。


「目を閉じろ……黒の彩神(いろがみ)の名の元に集え……」

静かに言葉を紡ぐ。

「――もういい」

目を開けると、猫さんの手には、脇差よりも短い懐刀があった。

鍔もなく、刃渡りは二十センチに満たない。

明らかに、短い。

だが――

贅沢を言っている場合じゃない。

「借りる!」

奪い取るように柄を握り、

俺はゆっくりと、その刃を抜いて対峙した。


間合いは、およそ十メートル。

四足獣の脚なら、五秒とかからない距離だ。

懐刀では、長さの優位性は皆無。

白炎の光に鈍く反射する刀身を正面に向け、右手で平に構える。

白の侵食を受ける以上、こちらの勝機は――

急所に確実な先制を入れ、そのまま倒し切ること。


……うん。無理だな。


昔、じいちゃんの友達だったハンターから聞いた話を思い出す。

鹿は、急所を撃ち抜いてもしばらくは動くらしい。


仮に捨て身の一撃が、運よく頭部や胸部に入ったとしても、その後まで防御態勢を維持するのは至難だ。

すり足で、白炎の周囲を旋回するように間合いを詰める。

正面に立たなければ問題ない――そう判断した。

とはいえ、動物の視界は三百度近いと言われている。

後方を取れなければ、意味がない。


それ以上に厄介なのは、距離を詰めるほどに激しくなる白炎の火の粉だった。


近づくほど、絶対防御じみたそれが降り注ぎ、行く手を阻む。


――侵食を受ける前提で、斬り捨てながら進むしかない。

蘇芳流体術『瞬進』。

体重移動で速度を乗せ、地を滑るように踏み込む。

死角――白炎の背後に回り込み、構える。

視界を横切る、大きな火の粉。


借りた「清」と呼ばれた懐刀で、斬り上げる。

ぱらぱらと、

小さな塵になって、消えた。


思わず刃先を見る。

刀身は、ゆらゆらと揺れているだけで――

白の侵食は、ない。


――通る。

そう、確信した。

斬った手応えはない。

薄い布か、紙に触れたような感覚。

散った塵も、周囲を侵食することはなく、

意味を失ったまま、消えていった。


「……猫さん」


思わず視線を向けると、

神使は苦笑いを浮かべているだけだった。


白炎は、背後で起きた出来事に気づいていない。

格下の俺など、最初から眼中にない。


先手必勝。


この僅かな勝機を、逃すわけにはいかなかった。


一度、刀身を鞘に戻す。

抜刀の構え。

瞬進の突進力と、磨き上げてきた抜刀術を叩き込む――奥伝。

蘇芳流剣術最速の技。

懐刀で使うのは初めてだが、

なぜか――できる気がした。


構え、息を止める。

俺の世界から、(いろ)が抜けていく。

音も、熱も、すべてが遠い。

あとはもう――白炎に向かって、走るだけだ。

火の粉も、熱も、関係ない。


『奥伝 緋翼(ひよく)


俺の抜刀は、空間ごと――白炎の首を、叩き斬った。

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