第10話:墨染神社の神使①
帳が完全に下り、夜を告げる鵺鳥が不気味に鳴いている。
光も、匂いも、空気さえも――
この場所を支配するものに伺いを立てるように、沈黙した。
その中に存在する異物――白炎の鹿だけが、
神楽殿を仰ぎ見たまま、動かない。
次の瞬間――
ぎぃ、と。
古い床板が軋む音がした。
神楽殿の奥。
閉ざされていたはずの扉が、風もないのに、わずかに開く。
そこから流れ込んできたのは、冷たい“夜”だった。
闇が濃くなるのではない。
大気に拡散していたものが、正しい位置へ戻っていく。
そんな感覚。
石段の上に、影が落ちる。
黒い。
ただ、ひたすらに黒い。
だが、それは闇とは違う。
存在するものと、それ以外を切り分ける境界線が、
そこに引かれたかのような空間だった。
宵の明星の光は遮られ、
僅かな星の瞬きも、ここには届かない。
更待月は、しばらく顔を出さないだろう。
墨をそのまま切り取ったような色。
ぼやけていた輪郭は意思を持ち、
長めの黒髪と、黒く鈍く反射する狩衣を形作る。
人かと思いきや、
それに似つかわしくない、ふさふさの獣耳。
逆立った尻尾が、静かに揺れている。
すらりと伸びた背丈に、威圧感はない。
だが、揺れる尾の先には、淡く滲むような色彩が走り、
その“色の名残”は境界を失ったまま、大気へと溶けていた。
金色の瞳が、ゆっくりと開かれる。
「――やれやれ。面倒だな……」
低く、落ち着いた声。
それだけで、空気が一段、沈んだ。
「堕ちた畜生風情が、私に何の用だ?」
白炎の鹿が、初めて後退る。
蹄が苔を踏みしめ、白い痕を残す。
パタン、パタンと、逆立った尻尾が床を叩いた。
それでも――逃げない。
いや、逃げられないのだ。
「夜分に騒がしいと思えば……
私の庭に、また厄介なものが迷い込んだな」
俺は、その姿を、
幼い頃に見た黒猫の神使と、重ねていた。
その一挙手一投足に呼応して、
神楽殿の境界が“閉じていく”のがわかった。
見えないはずの線が、確かに――引かれる。
俺たちは、あくまで観客――傍観者。
結界の内側にいるはずなのに、
そう“定義されてしまった”感覚が押し付けられる。
茜は、呼吸の仕方を忘れたみたいに立ち尽くしていた。
「墨染の陣に触れた以上、見過ごすわけにはいかないな」
神使は、白炎の鹿を見据えたまま、低く告げる。
「さぞ名ある神格だったのだろう。名も忘れ、理も失った獣よ――今宵は、ここまでだ」
尾が、ゆるやかに揺れた。
夜が、締まる。
闇が、編まれる。
神楽殿を中心に、完全な“夜の結界”が降りた。
その瞬間――
白炎が、激しく脈打った。
結界が触れた箇所から、夜が“剥がれ落ちて”いく。
色を失い、意味を失い、
存在理由をなくしたものが、音もなく崩れていく。
それはまるで――
長い時間をかけて侵食され、内部から風化した老木のようだった。
「――っ!」
神使が片腕を引くより早く、
白炎が、脈動する。
音はない。
衝撃もない。
ただ、色が消えた。
神使の袖口――狩衣の一部が、白く抜け落ちる。
裂けたのではない。
最初から、そこに存在しなかったかのように。
「……っ」
膝が、わずかに沈む。
確実にダメージが入った。
誰の目にも明らかだった。
もはや、最初の余裕はない。
ひび割れた結界が、遅れて軋む音を立てる。
構築された“夜”そのものが、
神使の体力を示す目安であるかのようだった。
「やばいぞ、あれは!」
気づけば、思考はひとつに絞られていた。
――あの神使を、助ける。
「あっ、待ちなさい! いろは!!」
茜が決死に腕を伸ばす。
だが、俺の踏み込みのほうが早かった。
白炎と神使の間へ、
警棒を回転させながら投げ込む。
大きな振動。
鈍い音を立てて、地面に突き刺さる。
牽制としては、十分だった。
白炎も、神使も、
一瞬だけ距離を取る。
俺の姿を見て、
神使はどこか残念そうな顔をし、片膝をついた。
白炎の感情は、読み取れない。
白炎は鹿の大きな角を振り上げ、
地面へと叩きつける。
重い踏み込みの音。
神楽殿の石段が、白く染まる。
夜の結界が、またひとつ、ひび割れた。
「相性が最悪だな……」
神使が低く吐き捨てる。
「私の結界は――こいつには、餌でしかない」
「何言ってんの? 猫さん! 逃げるぞ!」
完全に丸腰の俺には、防御の手段すらない。
そのとき――
「……美樹。すまない」
小さな声だった。
だが確かに、
神使は――母の名を、口にした。




