第1話:始まりの朝
あたりはまだ薄暗く、鳥の囀りに起こされるように目が覚めた。
春と呼ぶにはまだ肌寒く、布団の外に出るのは正直億劫だ。それでも朝の日課をこなすため、無理やり身体を起こす。
窓の外に広がるのは、東雲にすら届かない夜空。世界はまだ、眠ったままのようだった。
去年導入した床暖房のおかげで末端が冷えることはなく、そのままクローゼットへ向かい、トレーニング用のジャージに袖を通す。
少しの空腹と、少しの喉の渇き。家族を起こさないよう足音を殺して階段を降りると、古い建物特有の軋みが耳についた。
昨日買っておいた飲むプロテインとゼリー飲料を手に取り、離れにある道場へ向かう。
砂利が敷かれた道は、鶯張りの床みたいに侵入者を察知するためのものだと、祖父の鏡鉄が話していたのを思い出す。
「どこの戦国時代の話だ」と、そのときは笑い飛ばしたが。
まだ太陽も寝覚めていない時間に墨染神社の境内を横断するのは、正直言って怖いと感じる人も多いだろう。
だがこの神社の神使は夜行性の猫で、魔のものは夜には決して入れない――これもまた、祖父の話だった。
冗談みたいな話だ。
それでも俺は、その猫の神使に会ったことがある。
あれは、まだ俺が小学校に上がる前のことだ。
夜中に喉が渇いて、ひとりで居間へ向かった。廊下は暗く、足音がやけに大きく聞こえたのを覚えている。
ふと、縁側の向こうに気配を感じた。
そこにいたのは、猫だった。
墨を流したような毛並みで、月明かりを吸い込んでいるみたいに黒い。けれど不思議と輪郭だけは、やけにはっきりして見えた。
目が合った瞬間、逃げると思った。
だが猫は逃げなかった。
ただ、俺を見ていた。
じっと。
人を見る、というより――値踏みするような目だった。
「……起きていたのか」
猫が、確かにそう言った。
声は低く、落ち着いていて、腹の奥に響くようだった。
驚くより先に、なぜか納得してしまった自分がいる。
ああ、そうか。
この家には、こういうものがいるのか、と。
俺が何も言えずにいると、猫は一度だけ瞬きをした。
「相変わらず目がいいな」
それだけ言い残して、猫は闇に溶けるように消えた。
あとに残ったのは、夜の静けさと、何かに守られている安心感だった。
聖域や神域と呼ばれる場所は、きっと世の中にいくらでもある。
けれど自分の家がそういう類の場所なのだと、その時になってようやく腑に落ちた。
ここには、害をなすものは入ってこない。
なぜだか、そんな確信があった。
おぼろげながら母にその話をしたが何故かゲラゲラ笑い出して
「たぶん、うっかりしてたのね……そのボケた神使も、いろはみたいな子供に姿を見られて恥ずかしかったはずよ。だから、誰にも話しちゃだめ」
と笑い涙を拭きながら教えてくれた。
どんなに暗い道でも怖くないのはそんなことがあったためで
子供特有のおばけや妖怪の話は怖さを感じたことはなかった。
そんなことを思い出しながら、境内を抜ける。
少し離れた道場に着き、大きな引き戸を引いて中に入る
ここはまだまだ寒さには無頓着で歩く床は氷のように冷たかった。
早めに古びた石油ストーブに火をつけ暖をとる。
少し明るくなった空を見て鍛錬の準備を始めた。




