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イロガミノイロハ  作者: 伽耶


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1/8

第1話:始まりの朝

あたりはまだ薄暗く、鳥の囀りに起こされるように目が覚めた。


春と呼ぶにはまだ肌寒く、布団の外に出るのは正直億劫だ。それでも朝の日課をこなすため、無理やり身体を起こす。


窓の外に広がるのは、東雲しののめにすら届かない夜空。世界はまだ、眠ったままのようだった。


去年導入した床暖房のおかげで末端が冷えることはなく、そのままクローゼットへ向かい、トレーニング用のジャージに袖を通す。


少しの空腹と、少しの喉の渇き。家族を起こさないよう足音を殺して階段を降りると、古い建物特有の軋みが耳についた。


昨日買っておいた飲むプロテインとゼリー飲料を手に取り、離れにある道場へ向かう。


砂利が敷かれた道は、鶯張りの床みたいに侵入者を察知するためのものだと、祖父の鏡鉄が話していたのを思い出す。

「どこの戦国時代の話だ」と、そのときは笑い飛ばしたが。


まだ太陽も寝覚めていない時間に墨染神社すみぞめじんじゃの境内を横断するのは、正直言って怖いと感じる人も多いだろう。


だがこの神社の神使しんしは夜行性の猫で、魔のものは夜には決して入れない――これもまた、祖父の話だった。


冗談みたいな話だ。


それでも俺は、その猫の神使に会ったことがある。


あれは、まだ俺が小学校に上がる前のことだ。


夜中に喉が渇いて、ひとりで居間へ向かった。廊下は暗く、足音がやけに大きく聞こえたのを覚えている。


ふと、縁側の向こうに気配を感じた。


そこにいたのは、猫だった。


墨を流したような毛並みで、月明かりを吸い込んでいるみたいに黒い。けれど不思議と輪郭だけは、やけにはっきりして見えた。


目が合った瞬間、逃げると思った。


だが猫は逃げなかった。


ただ、俺を見ていた。


じっと。


人を見る、というより――値踏みするような目だった。


「……起きていたのか」


猫が、確かにそう言った。


声は低く、落ち着いていて、腹の奥に響くようだった。


驚くより先に、なぜか納得してしまった自分がいる。


ああ、そうか。


この家には、こういうものがいるのか、と。


俺が何も言えずにいると、猫は一度だけ瞬きをした。


「相変わらず目がいいな」


それだけ言い残して、猫は闇に溶けるように消えた。


あとに残ったのは、夜の静けさと、何かに守られている安心感だった。


聖域や神域と呼ばれる場所は、きっと世の中にいくらでもある。

けれど自分の家がそういう類の場所なのだと、その時になってようやく腑に落ちた。

ここには、害をなすものは入ってこない。

なぜだか、そんな確信があった。


おぼろげながら母にその話をしたが何故かゲラゲラ笑い出して

「たぶん、うっかりしてたのね……そのボケた神使も、いろはみたいな子供に姿を見られて恥ずかしかったはずよ。だから、誰にも話しちゃだめ」

と笑い涙を拭きながら教えてくれた。


どんなに暗い道でも怖くないのはそんなことがあったためで

子供特有のおばけや妖怪の話は怖さを感じたことはなかった。


そんなことを思い出しながら、境内を抜ける。


少し離れた道場に着き、大きな引き戸を引いて中に入る

ここはまだまだ寒さには無頓着で歩く床は氷のように冷たかった。


早めに古びた石油ストーブに火をつけ暖をとる。

少し明るくなった空を見て鍛錬の準備を始めた。




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