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06


 ――一体どうしてそんなことに?

 驚いて立ち尽くしていたリシャーナが訊ねる前に、ふとヘルサは思い出したように(ふところ)を探った。

「おや? ユーリスくんに許可証を預けたままだった」

 ユーリスの去った扉を目で追い、ぽつりと呟く。

 許可証とは、この王立魔法学園の敷地に入るために必要な入校パスのことである。

 敷地に入る際の正門などはもちろんだが、図書館や研究棟、寄宿などそれぞれの建物に入るときも、出入り口の魔法具に配布された許可証をかざさねばならない。

 王侯貴族が通うことを考えてのセキュリティなのだろう。

 もちろんリシャーナも自分のものをいつも持ち歩いているし、研究者には常に予備の入校パスも配布されており、好きなときに一人だけ入校させることが出来るのだ。

 研究者のほとんどは自身の研究で話を聞きたい専門家などを招き、研究のために有意義に使っている。

 もちろん研究者を経由せずとも、事前に学園側に申請を行えば、臨時的に許可証の発行は可能だ。

 今回は急だったこともあり、ヘルサは自身の予備許可証を使用したらしい。

「……私が取りに行ってきます」

「リシャーナ嬢?」

 戸惑うヘルサの声を背中に、反射的にリシャーナは研究室を飛び出ていた。

 長い黒髪が、後ろに大きくたなびく。

 リシャーナは必死で、自分が走っている自覚もなかった。

 ちょうど学生たちは講義中で、学園内に人影は少ない。そのことに、幸いだったなとリシャーナは後になって思った。

 研究棟と寄宿舎の往復生活で、休日ぐらいにしか通らない正門へ向かって走った。

(私、どうしてこんなに必死になってるんだろ……)

 漠然とそう思った。自分でもあまり理解できない感情だ。

 同情心と、一歩間違えば自分もこうなっているかもしれない、という恐怖がない混ぜになってリシャーナの体を突き動かしている気がした。

 息が上がり始めたころ、守衛室も構えた大きな正門が見えてきた。――が、ユーリスの姿はない。

 その頃には冷静になり始めていたので、リシャーナは足をゆるめて息を整えてから職員に声をかけた。

「すみません。フードを被った若い男性が通りませんでしたか?」

 守衛室の警備職員はすぐに頷いた。

「ええ。ついさきほどお通りになりましたが……」

 なにかありましたか? と窺うように言われ、リシャーナは肩を落として首を振った。

「いいえ……あ、彼に預けていた予備の許可証なのですが……」

「ああ。それでしたら私どものほうでお預かりしております。許可証などはこちらで保管後に持ち主に返却いたしますので、取りに来ていただかなくても大丈夫ですよ」

「そうですよね……すみません」

 なにより許可証は悪用されないよう、返却は持ち主本人でなければならないのだ。そんなことに今さら思い至り、リシャーナは自身の失態に恥ずかしくなった。

「ご苦労様です」

 挨拶もそこそこにリシャーナは再び学園へと戻った。そのとき、正門越しに向こうの通りを見たが、ユーリスの姿は微塵も感じられなかった。



 次の休日、リシャーナは研究棟を出て市街へと向かっていた。

 仕事の時には着ない少し明るい色のワンピースに身を包んで、馴染みの花屋へと顔を出した。

「リシャーナ様いらっしゃいませ。今日も出来てますよ」

 恰幅のいい女店主が、親しみのある笑顔で声をかけたあとに奥から花束を一つ抱えてきた。

 白と黄色を基調とした、鮮やかだけれど、主張しすぎない柔らかな雰囲気のブーケだ。ちょうど胸にすっぽり収まる小ぶりなブーケに、ついリシャーナの顔にも笑みがのぼる。

「ありがとうございます。今日もまた素敵な花束ですね」

「リシャーナ様には贔屓にしてもらってますから! こっちも腕によりをかけましたよ!」

 と、急に顔を輝かせた店主が、新しく入荷したものがあるんですよ、と軒先へと誘導する。リシャーナはまだ会計の済ませてないブーケを手に、少し困ったまま後に続いた。

 ネノンや店主のように、自分の好きなものを語る人間を前にすると、こちらまで楽しくなってしまう。

 軒先のバケツに入った花を前に、店主が「これなんですけどね」と口を切ったとき、リシャーナの視界を気になる影が通った。

「あれは……」

 数日前に見た、フードを被った後ろ姿にリシャーナは目を吸い寄せられた。

「リシャーナ様? どうかされましたか?」

「ごめんなさい。あとで必ず取りに来ますので」

 窺う店主にブーケを押しつけ、リシャーナは視線をユーリスから外さぬまま店を出た。

 ここは貴族街から少し離れた、平民向けの小さな個人商店が軒を並べている通りの一つだが、道幅はさほど広くはなく、けれども利用客は意外と多い。

 人の間を縫うように進み、リシャーナは小路に入ったユーリスを追った。

「ユーリス様!」

 人混みを抜けたリシャーナはすぐに彼に追いついた。ユーリスが背後からの足音に気づいて振り返るときには、リシャーナはその手を掴む。

 振り返ったフードの下で、緑の双眼が驚きで見開かれた。

 そして、リシャーナが掴んでいるのが手首のバンドルだと気づいた途端、彼は怯えたように喉を鳴らして咄嗟に振り払った。

「いっ……!」

「あ……す、すまない」

 小さな悲鳴に、ユーリスは「どこか痛めたりしてないだろうか」と、気遣うように声をかけてくる。けれど、彼の手はリシャーナに伸びる直前、怯んだように止まった。

「いえ、私のほうこそ急に声をかけたりして失礼いたしました」

 頭を下げるリシャーナに、ユーリスは居心地悪そうに首を振った。

 長い前髪の下から覗く若緑色が訝しむ。

「それよりも、どうして俺に声を……?」

「それは……」

 どうしてと言われても――。

 姿を見て、つい追いかけてきてしまっただけなのだ。どうしてかなんて、自分でもハッキリと分からない。

(ただ、放っておけない……そんなふうに思うんだけど……)

 それは元婚約者という縁故だろうか。

 言い淀むリシャーナは、ふとユーリスの手首にあるバングルが目についた。

(そうだ。魔法具の話が聞きたかったんだ)

 顔を上げてバングルについて話をしようとしたとき、不意にユーリスの体がゆっくりと傾いた。

 危ない! ――と声が出るよりも早く腕を伸ばしたが、リシャーナの手が彼を受け止めることはなかった。

 ユーリスはふらつきはしたが、どうにか自分の足で持ちこたえたのだ。しかし、真っ直ぐに立てないのか、すぐそばの家の壁に手をつきながら、前屈みに項垂れる。

「ユーリス様!? 大丈夫ですか?」

 慌てて屈んだところで、ユーリスには明らかに様子のおかしい顔で「大丈夫だ」と言われてしまう。

 目眩を抑えるように眉間に指を置く姿に、リシャーナはある可能性に思い至った。

「もしかして魔力欠乏症では……?」

 言うが早く、リシャーナは彼の手にあるバングルへと手を伸ばした。これが必要以上にユーリスの魔力を抑え込んでしまって、体に必要な魔力が供給されていないのだ。

(やっぱり! これをつけて元気でいられるはずがないと思った!)

 バングルに触れて手首から外そうとしたところで、ユーリスが気づく。すると、彼は苦しみの表情の中に蒼白とした恐怖を映し、

「触るな!」

 と、貴族らしからぬ大きな声で叫んだ。

 途端、彼の体から瞬間的に大きな魔力が溢れ、触れていたリシャーナの指先に痺れるような痛みを生み出した。

「……いたっ!」

 触れていた箇所を起点に、稲妻のような小さな電撃がリシャーナを襲ったのだ。攻撃された指先に怪我はないものの、まだじんと痺れた感覚が残り、動きが鈍い。

 魔力とは、本来は本人の意志でのみ体外への放出が可能だ。

 しかし、それが本人の制御を外れるときがある。一部の特殊な病例を除き、それは本人の感情が理性を越えて高まったときだ。

 オルセティカが幼少の頃から魔力制御を義務化しているのも、ここに理由がある。

 ちょうど五歳を超えた辺りは、体の成長に伴って成長する魔力が一際大きくなる時期で、子どものちょっとした感情変化で意図せず魔法を発動してしまう事例がある。

 感情の高ぶりとともに魔力が暴走し、体内のエネルギーが無理矢理放出し続けるために、人間は正常な理性を取り戻すことが出来ない。そうなると、魔力がつきるまで周囲を攻撃してしまう。

 周囲はもちろんだが、暴走した本人にも命の危険が伴うような事態になってしまうのだ。

 そのため、幼少の頃から魔力を扱うことに慣れさせ、まずは暴走させないことを目標とし、万が一魔力が乱れることがあっても、己の力で正常化させることを目的とするのが幼少の義務教育である。

 痛がるリシャーナを前に、ユーリスは自分のしたことが信じられないように真っ青な顔で喘いでいた。

「リ、リシャーナ伯爵令嬢……俺は、なんてことを……」

 あまりの狼狽えように、わざとではないことはすぐに理解できた。なにより、欠乏状態の人間が、自分の意志で魔法を発動できるはずがない。

 完全に感情が昂ったが故の一瞬の暴走だ。

(それだけバングルを外すのが嫌だったってことだよね……)

 なんだか申し訳ないことをした気分になる。だが、このままではユーリスの体が危険だ。

 現に、魔法を使ったせいで余計に顔色は悪くなり、彼は今にも崩れそうな体を懸命に支えている。

「ユーリス様、バングルをとるのは嫌かもしれませんが、このままではあなたの命に関わります」

 リシャーナが訴えても、ユーリスは守るように腕を胸に抱き、ゆるゆると首を振った。

(命に関わるのになに言ってるの!?)

 意固地な彼にリシャーナが痺れを切らし、無理矢理腕を掴もうとしたとき。

 緊迫した現場に似つかわしくない、可愛らしい音がユーリスの薄い腹から聞こえてきたのだ。

「……え」

 拍子抜けした声を出したリシャーナだったが、恥じるように顔を赤くしたユーリスに遅れて状況を理解した。

「お腹が空いてるのですか?」

 つい訊いてしまった。

 ユーリスはいっそ可哀想になるほど赤くなったり青くなったりを繰り返したが、渋りながらもようやく答えた。

「……食事をすれば、回復します」

 だからあなたは気にせず――と、そこまで続いた言葉だったが、緑色の輝きが瞼でしまいこまれると同時に言葉も途切れた。

 そのまま傾いた体をリシャーナは胸で抱き留め、助けを求めるべく誰もいない小路を見渡した。




 簡素な寝台で横になったユーリスの瞳がゆっくりと開いた。

「眼が覚めましたか?」

 リシャーナは椅子から身を乗り出して顔を覗き込んだ。

「ここは……?」

「さっきの路地の隣の宿場です。店主の方のご厚意でベッドを貸していただきました。ちゃんと金銭はお渡ししてますのでご心配なく」

「……それは、随分とご迷惑を、うっ」

 ふらりと目眩を起こしたように頭を支え、ユーリスが体を起こした。それを見たリシャーナは、扉のそばにあったベルを鳴らす。

「俺のマントは……?」

「こちらに。寝るときに邪魔になると思いましたので」

「ありがとう」

 不安そうに部屋を見渡したユーリスに、すかさずマントを差し出すと、ほっとしてすぐにフードを被ってしまった。

 リシャーナの視線から逃げるように裾を引っ張って目深にするので、あの透き通った若緑色が見えなくなる。そのことが、なんとなく惜しいような気持ちになった。

 しばらくの間、お互いに探るような気まずい沈黙が横たわっていたが、不意にノック音とともに快活な女性の声が響いた。

「ほーら、できたてだよ! お、あんた眼が覚めたのかい? 腹が減って気を失っちまうなんてよっぽど腹空かせてたんだねえ」

 急にやってきた女性にユーリスが混乱している間、中年の女性は部屋に置かれたダイニングテーブルにどんどん料理を運び込んだ。

 その量の多さに、リシャーナも眼を丸くした。

「もしかして私の分までご用意してくださったんですか?」

「一人で食べるのは味気ないだろ? もうすぐお昼だし、もしよかったら食べてっておくれよ」

「それはありがたいですが……」

「お金のことならさっきもらった分で余るぐらいだからさ! 気にせず食べな!」

 恐縮したリシャーナの背中を一度叩くと、彼女は大きく笑って部屋を後にする。嵐のような勢いの彼女がいなくなったあとの部屋は、なんだか随分と静かに感じた。

「ユーリス様。宿の方にあらかじめ食事をお願いしておきました。もし、起きれるようでしたらこちらへどうぞ」

 向かいの椅子を引いてから、リシャーナは反対側に腰掛けた。ユーリスはしばらくしてから、戸惑いがちにゆっくりと近寄ってきては呆けたように言った。

「なぜ食事を?」

「初めはお医者様を呼ぼうかとも思いましたが、あなたが食事をすればと仰ってましたから……とりあえず様子を見ようかと」

 どうぞ、と促して、ようやくユーリスは席につく。

 温かいスープやサラダ。それにパンと串についた大きなお肉。少しスパイシーな香りが鼻につくと、途端にリシャーナの胃も空腹を覚えた。

(このままじゃ食べられないわね……)

 大衆食堂では、こういう串焼きにかぶりつく人を見るけれど、さすがにそんなことを貴族の子女がするわけにはいかない。

 この世界で見慣れた銀のカトラリーではなく、用意されていた竹製の安物の箸を使って一つずつ串から取り外していく。

 とりあえず一本崩してそれをユーリスに渡すと、彼はきょとりと眼をしばたたかせていた。

「……随分と手慣れているんだな」

 ギクリとして、慌ててリシャーナは取り繕う。

「学生時代、友人とよく市内に来てはいろいろと見て回っていましたから。市井の人々の生活を見るのは、我々貴族の務めですし」

 言ってから、ユーリスが貴族籍から排斥されていることを思い出して慌てたが、彼は淋しそうに眼を伏せただけで、大きく顔色を変えたりはしなかった。

「冷めてしまいますから、早く食べてください」

「ありがとう。その、今は手持ちがなくて……今度工面したらきみに届けると約束しよう」

「お金のことは気にしなくていいですよ。私も部屋で休ませてもらってますし、こうして食事もいただいています」

 なにより勝手に宿に運んだのはリシャーナなのだから。

 ちらりと正面のユーリスを見て、リシャーナは密かにほっとした。

(怠そうではあるけど、今のところさっきみたいな急激な悪化はないかな……)

 顔色は相変わらず悪いが、食事をしているうちに血色が戻っている気もする。

 食事で治るなんて言われたときはそんな馬鹿な、と思ったものだが、あながち間違ってもいなかったらしい。

 きっと食事を怠ったが故に、魔力が消費されるばかりで生産されないせいで欠乏症状に陥ったのだろう。

(それに、あの口ぶりからして何度か同じような事態を起こしてそうだし……)

 しかもさっきの「手持ちがない」という発言だ。

 いくら家から勘当され、貴族籍を抜いたとしても、無一文で元嫡男を追い出すようなことをするだろうか?

 ハルゼライン家に婚約破棄の連絡が来た時期を考えれば、ユーリスが勘当されて平民に落ちたのは二年ほど前のはず。その間こうして生きているのだから、少額ならば手切れ金をもらえたのだろうか。

 それが尽きかけてきて、こうして空腹で魔力が足りなくなった――?

(そもそも、どうしてユーリス様が勘当されるような事態になったのかが不思議……)

 優しく穏やか、しかし芯のある気高い強さも持つ青年。リシャーナには、いつだって余裕のある凜とした立ち姿に、本当の貴族とはこういうものなのかと、悔しいような感心したような心持ちにさせられていた苦い思い出があった。

(結局ヘルサ教授も理由までは教えてくれなかったしな)

 今の彼の状況については答えてくれたが、なぜ勘当されたかという点に関しては、ヘルサも硬く口を閉ざした。

 それがユーリスのためを思ってというのが理解できたのですぐに引き下がりはしたが、やはり眼の前にするとどうしても気になってしまう。

 黙々と食事を勧める最中、リシャーナはユーリスがフードの裾を気にしていることに気づいた。

「ユーリス様、もし他人の気配が気になるようでしたら私は下の食堂のほうへ移りますよ。フードをつけたままじゃ食べづらいでしょうし」

 言うと、ユーリスは焦ったように口の中のものを飲み込んで、リシャーナが立ち上がるのを止めた。

「待ってくれ。そこまでしなくていい……それに他人の気配というか、これは……」

 躊躇うように唇を噛みしめ、やがてユーリスは呟く。

「他人の視線がダメなんだ……」

「視線、ですか?」

 人に見られるのが気になるということか。

「それなら、私は向かい側ではなくてこちらに座りましょう」

 リシャーナは椅子ごと移動して、二人の視線が交わらないようにテーブルの側面に移動した。

 これで大丈夫だろうと一安心して食事に戻ると、ユーリスは驚くように息を飲んだ後、じっとリシャーナの横顔を見つめた。

 ほかにも懸念事項があるのかと居心地悪く思っていると、そのうち彼はおもむろにフードを外して食事を始めた。

 長い茶髪が白い肌の上をなめらかに滑っていき、伏し目がちの瞳で睫毛の影が頬に落ちる姿は、息を飲んで見惚れてしまいそうだ。

 ハッとしたリシャーナは慌てて視線を逸らして食事に集中する。

 食事も終わりを迎えたころ、不意にユーリスが呟いた。

「俺が家から排斥されたことは知っているだろう?」

「ええ……ヘルサ様から伺いました」

 頷けば、ユーリスの表情に不可解さが浮かんだ。

「それなのに、どうしてリシャーナ伯爵令嬢は、俺と食事をするんだ? さっきも箸で肉を解してくれていたが、随分と手慣れていたし……失礼だが、」

 ――貴族なのに珍しいと思った。

 ドッと、心臓が嫌な音を立て始めた。

 バクバクと冷たい恐怖が体にしみわたっていく。

(そうだよね……貴族の家を勘当された人だなんて、最も貴族が嫌うタイプの人間だ)

 つまり、家を追い出されるほどに、その人は貴族としてあるまじき行いをしたということなのだから。

 だから、本物の貴族であればこんなふうに一緒に食事をしたりはしない。

 幼少の頃のリシャーナが母から向けられたような、ああいう冷えた眼差しを向けるはずなのだ。

 本当は頭の隅では分かっていた。でも、リシャーナには出来なかった。

 どう言い訳を立てようかと考え、しきりに深い碧眼を揺らす。そのとき眼についたユーリスの眼差しに、リシャーナは恐怖で強張っていた体からストンと力が抜けた。

 色のせいだろうか。陽に当たった森を眺めているような、そんな爽やかで温かみを感じる。

 貴族なのに珍しい、と訝るような言葉ではあったが、どこか安心したようなそんな目だった。

 だからリシャーナは、ついスルリと本音が出た。

「私は、ただ眼の前で困っている方を助けただけです。それが貴族であれ、平民であれ、排斥された人間であれ、誰にでも同じことをします」

 それはきっと、貴族であらねばならないこの世界にいても譲れない、リシャーナの境界線だった。

 ユーリスの瞳がふと光りを携えるように揺れ、微笑んだ。多分、初めて見る彼の心からの笑みだと思う。

「そうか……」

 ありがとう、と独りごちるような囁きに、リシャーナの胸がじんと震えた。

 貴族でいなければならないと気を張り続けたこの十年以上。どれだけ親の期待に応え、社交界で褒められたときだってこんなに心が震えたことはなかった。

(どうして、この人は家を追い出されたんだろう……)

 ユーリスが不祥事を起こすような人には見えない。一体彼に、なにがあったんだろう。

 リシャーナは、初めてユーリスのことを知りたいと思った。

「ユーリス様、もしよければなのですが、私の助手をしませんか?」

「俺が、きみの?」

「不快にさせたら申し訳ありません。ですが、恥ずかしながらその魔法具は試作品で不完成な代物です。あなたの体のためにも近くで経過を見させていただきたいのです」

 嘘、というほどでもないが、それでも建前に近い。本当は、もう少しユーリスという人と接してみたくなったのだ。

 研究者には、人手が必要なときに臨時的に人を雇ったり、長期的に助手を雇うことが可能である。

 助手であれば研究者と同じように個人の許可証が発行され、自由に校内を行き来することが出来るのだ。

「もちろんそれなりの報酬は出ますし、改良品が出来ましたらユーリス様にも提供します。許可証があれば、図書館などの学園内の施設を自由に利用することも出来ます」

「報酬……図書館……」

 悩むように、ユーリスは顎に手を置いた。

 リシャーナの憶測では、ユーリスは金銭に困っているはず。今まで貴族として生きてきた彼に、突然平民と同じように労働をするのは難しいだろう。しかし、研究であればまだハードルも低いだろう。

 なによりユーリスも魔法学園の高等部に進学していたはずなのだ。専攻が違ったので姿を見る機会はほとんどなかったが、聡明なのはお墨付きである。

 彼が考えている時間が、随分と長く感じた。ドキドキと緊張しながら返答を待っていると、不意にユーリスが言う。

「俺を雇うことで、きみの不利益になりはしないだろうか」

「そんなことはあり得ません」

 キッパリと否定するリシャーナの答えに、ユーリスは腹を決めたようだ。

「よろしく頼む。精一杯リシャーナ伯爵令嬢の力になれるよう尽力するよ」

 躊躇いがちに、けれど真っ直ぐに手を差し出され、リシャーナは微笑んで応じた。

「リシャーナとお呼びください。これからは研究を共にする同僚ですから」

「それでは俺のことはユーリスと呼んで欲しい」

「分かりました。ユーリス」

 

 

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