35 闇色の襲撃者
ガブリエル皇子と食事をし、街を散歩して、様々な場所を紹介された。
悪くない時間だったと思う。
私はそのあとガブリエル皇子と別れ、帰路についた。
街の静けさが一層増している気がした。
ガブリエルと別れると、少し離れた場所で護衛をしていたマッテオが近づいてくる。
「いかがでしたかな。お嬢様」
「……悪くはありませんでしたわ」
「そうですか。それは何よりですな」
マッテオと歩く街と、ガブリエル皇子と歩く街は全然様子が違う気がした。
ガブリエル皇子と二人で歩く街は、華やかで活気に満ちた雰囲気が漂っているように感じた。
マッテオと歩く街は、安らかで落ち着いた雰囲気を感じたのだ。
……一緒にいる人間が違うだけで、心持がこんなにも変わるなんて不思議ですわね。
「そういえばマッテオには家族は……」
と尋ねかけて、私はそこで言葉を止めた。
マッテオは遠くを見るような目をした。
「今は、おりませんなぁ」
それは、かつてはいたということだ。
過去の傷がそこにあるとするなら、触れられて気持ちのいいものではないだろう。
「ごめんなさい、マッテオ」
「構いませんよ。お嬢様。それにしても、お嬢様とこんな話をするのは初めてですな。私にもかつては家族がおりましたが、今はいませんし、必要もありません」
マッテオはそういうが、彼が私を見る目は、まるで実の孫を見るように慈愛に満ちていたような気がした。
だが、マッテオは突如視線を厳しくする。
恐ろしげな雰囲気が、彼の老体から放たれる。
「……マッテオ?」
「次からは、屋敷まで送っていただくことにしましょう」
マッテオが険しい顔で睨みつけている方向を見ると、ひとりの男がいた。
陰鬱な雰囲気の男だ。長い黒髪で細身だ。
人の形をした不幸、というのがふさわしい雰囲気のその男はこちらに歩いてくる。
緊張感が漂った。
彼の眼は闇のように深い黒色だった。
「こんにちは。アデライードさん。オレはフェルナンド・ダークウッドと申します」
「……いったい何の用かしら?」
「申し訳ありませんが、あなたの家門を明け渡してはいただけませんか? 悪いようにはしません」
直球だった。
マッテオは私の斜め前で、いつでも私を守れるように気を張っている。
「……なぜ、そんなことを?」
「ラヴァル家が欲しいからですよ。穏便な手段で一度お願いしたんですがね」
「……マルクはあなたの差し金?」
私が尋ねるとフェルナンドは一切隠そうともせずに認める。
「はい。その通りです」
と彼はいうが、おそらくマルクは彼の命令などなくても、かってに家門を乗っ取りに来ただろうとは思う。
しかしそれは彼がかかわっていないということではない。彼はおそらくマルクを顎で使えるような立場なのだろう。
原作『トワロマ』では、彼の所属する『黒鴉の巣』は帝都の闇社会を一手に掌握するような、恐るべき組織になっていた。マルク如きがかなう相手ではないのだ。
「私の家門を乗っ取ろうとした相手に、どうしてただであげなきゃいけないのよ」
「残念です」
そういって彼はこちらを見た。
彼の瞳は深く闇色に染まっている。
私をどこか深い闇の底へ引きずり込んでいくような錯覚を覚える。
「オレに家門を渡したほうがいいですよ。それこそが、正しい道」
視界がぐるぐると回る。
まるでが深い淵に落ちていくような感覚が広がった。
「貴様! お嬢様に何を!」
マッテオがフェルナンドに向かって鋼糸を放つ。
フェルナンドは黒い手袋をした右手で鋼糸をつかんだ。
フェルナンドはマッテオを気にすることなく、私に話しかけてくる。
「それこそが唯一生き残れる道」
頭が重くなる。
何かが奪われていくような錯覚に襲われた。
フェルナンドの言葉が意識の中に深く刻み込まれていく。
彼の声は優雅で魅力的に聞こえ、その言葉が正しいと思わずにはいられない。
彼の思惑通りに動くことが、ただ当然のように思えてしまう。
私は口の中を噛んだ。
痛みで、一気に意識が覚醒する。
口の中に血の味が広がっていく。
「お生憎様。その程度で譲れる安い家門じゃないの」
フェルナンドは冷たく告げる。
「悪くない意志力ですね。もしかすると、闇魔法の適正があるかもしれませんね」
「とにかく、お断りよ。お帰りになったら?」
「オレが望むなら簡単にお前も、そこの老人も、ああ、弟がいましたね。弟の命すらも奪えるでしょう。だから、譲ってくれませんか? ラヴァル家」
なぜ彼がラヴァル家に興味を示すのか、私にはさっぱりわからない。
フェルナンドほどの人間であれば、侯爵家以上の家門すら手にできるであろうに。
今すぐできるかはわからないが、原作開始地点の四年後には確実にそうなっていた。
「あなたが望むものを用意しましょう。あなたの婚約者のヘンリーがいましたね? 彼と再び婚約させてあげましょうか?」
フェルナンドの言葉で、思い出す。
ヘンリーに金貨をばらまかれた屈辱を、カロリーヌに見下された怒りを。
「そんなのこちらから願い下げよ!」
しかし公爵家であるヘンリーと婚約させるなどと簡単にいうのであるなら、この男は既に貴族に強い影響力を持っているはずだ。
そんな男がラヴァル侯爵家を欲する理由はやはりわからない。
「もしお望みであればオレが婚約しても構いませんが?」
「くだらないことをいいますのね。――マッテオ!」
私が声をかけると、マッテオは鋼糸を引く。
フェルナンドの手袋が多少破け、中から少量の血があふれる。
本来であれば手が落ちてもおかしくないはずなのに。
防刃素材なのかもしれない。
すぐにマッテオは刃の黒く焼かれたナイフを投げた。
フェルナンドはそれらを叩き落す。
「本日戦う気はありませんでしたから、部下は連れてきていないんですよね。その老人と戦って確実に勝てる自信はないもので、今日は引かせていただきます」
「待て!」
マッテオはそう言ってさらに追撃のナイフを投げる。
その一本はフェルナンドの頬をかすめ、赤い血の跡を残す。
フェルナンドもまた私のほうに手を伸ばした。
何かを投げるような動作。
いったい……?
「お嬢様!」
マッテオの慌てる声。
マッテオはこちらに身をひるがえして、ナイフを振るう。
ギン! と音がした。
気が付けば、フェルナンドは姿を消していた。
「いったい、なにが……?」
「針です。あの男がお嬢様に向かって針を投擲したのです」
「そう、なの」
「逃がしてしまって申し訳ありません」
「いいのよ。マッテオ。私を守ってくれてありがとう」
「――は」
私とマッテオはそのあとは何事もなく、屋敷まで帰ることができた。
なぜフェルナンドはラヴァル家に固執するのか。
ラヴァル家に何かあるのだろうか。
考えてみても、マッテオに尋ねてみても、その答えはでなかった。




