10 婚約破棄2
「は、はい。お久しぶりでございますわ」
「壮健そうで何よりだ。早速本題に入りたい」
「は、はい」
「手紙で通達してもよかったが、顔を合わせてやるのは最低限の義理だ」
まるで感謝しろというように言い捨てた。
「と、いいますと、なんですの……?」
私は嫌な予感を覚えながら尋ねる。
「婚約破棄だ」
え。
冷静な私は予想していた。
しかし夢見がちな私の思考が頭の中でぐるぐると回る。
気持ちが悪い。
顔から血の気引いていくのが自分でもわかる。
「アデライード、残念だが君との婚約はここに終わりだ。君が力を失った今、僕にはもっとふさわしい女性がいると気付いたんだ」
いうとヘンリーの腕に絡みついていた女が、さらにヘンリーに密着する。
「そ、そんな。ヘンリー様……」
「そもそも、僕らは政略結婚だったんだ。愛情に期待するほど愚かなのか?」
「で、でも」
「君は自分の立場をよく考えて、落ち着いて生活することをお勧めするよ」
「こちらの女性はカロリーヌ。カロリーヌ・ド・ボージュー。とても魅力的な女性だよ」
君よりもね。そんな声が聞こえるようだった。
「ごきげんよう。アデライードさんでしたか? カロリーヌ・ド・ボージュー。ボージュー男爵家の娘です」
彼女は勝ち誇ったような声で言った。
「そういうことだからアデライード。もちろんわかってくれるね」
そんな……。
涙があふれそうになる。
「僕と君の婚約はもう意味がない。君が弱ってしまった今、僕と君は共にいても何もできないんだ。だから僕は、自分自身を幸せにするために進むことに決めたんだ」
そういってカロリーヌを見る。カロリーヌは嫌だわ、と頬に手をあてた。
「もう、僕と君は関係ないんだ。もうおしまいだよ。これで君は自由になれる」
「ヘンリー様……」
カロリーヌが嫌な笑みを浮かべながら言う。
「アデライードさんには、もっとあなたにふさわしい男性がいますよ」
「っ……」
「あまり未練たらしくしてはみっともないですよ?」
「そうだな。あまりすがりつかれても困ってしまう。そうだな。これでいいかな」
ヘンリーが手を鳴らすと、使用人が部屋に入ってくる。
使用人の手には袋が握られていた。
ヘンリーは袋の中から一枚の金貨をとりだして、アデライードに見せた。
「これでいいかな?」
ああ、金さえ渡せば、黙らせられると思ってるんですのね。
あまりの見下され具合に、私の頭が冷たく冷えていく。
「ヘンリー。私が渡しますね」
カロリーヌは甘い声を出してその金貨入りの袋を受け取った。
「アデライードさん、よかったですね。たくさんお金がもらえますよ」
そういってカロリーヌは微笑んで、私のほうへ一歩近づいてきた。
そして私の近くで、あっ! と言って袋をぶちまけた。
音を立てて黄金色の金貨が散らばる。
「ひ、ひどい。手をたたくなんて」
カロリーヌはそういった。
誓って、決して触れていない。
「わ、私はそんなことをしていませんわ」
「アデライード。年下だからといって、カロリーヌにそんなことを。許さんぞ」
険しい顔でヘンリーは言った。
カロリーヌがいう。
「いいんです。ヘンリー。彼女にだって怒る権利くらいはあります。私が悪いんです」
「ああ。なんと優しいんだカロリーヌは」
そういって甘い空気を出す。
ああ、なに、なんなんですの。
この人たちは――。
こんな、こんな金貨なんて――!
その金貨はかなりの量がある。だけど、こんなに馬鹿にされて、受け取れませんわ――!
「もしかして、侯爵家の方ですから、いらないんですか? こんなのはした金ですよね?」
カロリーヌはそういった。
「ねぇん、ヘンリー。もし彼女がいらないなら、私が――」
そんな声が聞こえる。
私は感情のままにいらないと叫びたかった。
それができれば一瞬心は晴れるかもしれない。
でも。
「もらい、ますわ」
一言発するのに、臓腑から血が流れでるような錯覚がする。
「え? 侯爵家の方なのに? 婚約破棄でお金もらってうれしいんですか?」
カロリーヌはそんなことを言った。
「もらいますわ」
私がそういうと、カロリーヌが悔しそうな顔になる。
金目当ての馬鹿女が。
ヘンリーがいう。
「ならば使用人に拾わせよう」
「遠慮しますわ。これは私一人で集めます」
これ以上彼の手は借りない。
私は悔しい気持ちを押し殺し、金貨を拾う。
みじめさに怒り狂いそうになる。
それを理性で押しとどめる。
金貨を一枚、また一枚と拾う。
拾うたびに、屈辱と怒りが刻まれる。
その感情が、私の心の奥深くへとえぐるように刻まれていく。
――絶対に、忘れませんわ。
私に金貨を渡したことを後悔させてやりますわ。
これを元手に、家門を守って、目にものをみせやりますわ。
この金貨を元に、力を蓄える。
――誰にも、助けなんて求めませんわ。
弱れば殴られる。
泣けば蹴りとばされる。
立ち上がれなければ踏みつけられる。
期待は裏切られる。
希望は握りつぶされ。
そして悪意だけが、退けられることなく、降りかかる。
――それが、それこそがきっと真理ですわ。
私はその後マッテオと一緒に馬車で屋敷を後にした。
そして、降りしきる雨の中、薄汚れた街に傘もささずに降りた。
多少雨脚は弱まっているが、それでも人気は少ない。
それは今抱えている気持ちを忘れないために、心に刻むためだ。
ここは昔帝都で栄えていた場所ではあったが、現在はさびれてしまい、スラム街一歩手前の街となっている場所だ。
そんな場所にどこか親近感を覚える。
雨にかきけされながら、喧噪の音が聞こえた。
「マッテオ。何か音がするわ」
「もめごとでしょうな。関わらないほうがよろしいかと」
「……そうね」
私はそう返事をしながらも喧噪のほうへと近づいて行った。
そこでは、数人の男に囲まれた一人の少年がいた。
少年は数人がかりで叩きのめされていた。
「あんまり調子乗ってるから、こうなんだよガキ」
少年は、殴られ、蹴り飛ばされ、濡れた床に転がる。
でもすぐに立ち上がり、男に殴りかかった。
「うるせえ! なんで俺がてめえらなんかのいう通りにしなきゃならねーんだ!」
「ここで生きていくなら大人しく俺らに金を払えってんだよ」
「金なんかねぇよ!」
そういって少年は殴りかかった。
「なきゃ盗めよ。殺して奪えよ。ガキなら油断させられるだろ、頭使えよ」
「うるせえ!」
そしてまた蹴り飛ばされる。
私はそんな状況を見て――