聖櫃
娘が、大学進学を機に一人暮らしを始めた。
就職も視野に入れて県外へ出ていったのだろうし、もう戻る気も無いだろうと、私が部屋を書斎にしたいというと妻は、
「やれるものなら、どうぞ」
と、含ませて言っていた。
聞いたときこそ、なんのことやらと思っていた。
しかし。
「そりゃあ、なあ……」
小学校に入る時、キャラクターの折りたたみテーブルからこの学習机に替えた。
星だったりハートのマークだったり、無骨なフォルムの机を無理くりに可愛くデコレーションした、メーカーの努力の結晶。
それが見事に我女にもハマったのだから、メーカーの大人たちはすごいと感心したものだ。私なんか、気まぐれに買って帰ったお土産を喜んで"いただいた"ことしかないというのに。
こんな少女趣味っぽいデザインも、中学生になる頃には飽きてしまうだろうと予想していたが。
結局あの子は特に文句を言うでもなく、これを十年以上も使い続けたのだ。
天板の隅に彫られたくまの絵を撫でて気がつく。
たしか、買ったばかりのときには傷防止のデスクマットが敷かれていた。
デフォルメされた動物たちが仲良さげにしている、当時あの子がお気に入りだったキャラクターのものだった。
あれは、どこへやったのだろう。
見回した目線が、そこかしこにあの子の跡を見つける。
机の脇に掛かっているものが、ランドセルじゃなくなっている。机の上に据えられた本立てには、参考書とおそらく高校のであろう教科書やノートがランダムに置かれている。
ランドセルに代わって机の脇を陣取っているショッピングバッグを覗いてみると、中にジャージが入ったままだ。
私には窮屈だろうが、妻ならきっと間に合うサイズ。もうあの、私のパンツと変わらない小さな体育着ではない。
なんだかよくわからないデザインのポスター、色がはみ出してめちゃくちゃに塗り潰された人らしきものの絵は、昔の妻とあの子だろう。英語の検定の合格書、中学か高校のかわからないA4版の時間割。
壁紙は変わっていないが、カーテンが蓄光のあれではなくなっている。
この空間には、あの子の最近と過去がめちゃくちゃに混在していた。
引き出しの中は……、
「…………」
忘れられたプライバシーが眠っているかもしれないので、開けるのはやめておく。
少しでも他人の手が加われば一瞬にして崩壊してしまいそうな、繊細で無造作な空間。
私が聖域化していたこの場所は、主がいなくなってもなお、触れられない場所のままだった。
書斎は諦めよう。
キザったらしく頬が笑むのを感じながら、部屋を後にしようとした時だった。
――…………っ。
何かが聴こえた。
振り返って部屋を眺めてみるが、カーテンで弱められた外光でぼんやりと赤らんで染まるあの子の痕跡たちが静かに佇んでいるだけだ。
「気のせいか」
くるりと踵を返すと、また、
――…………っ。
やはり、何か鳴っている。
どこで何が鳴っているのかまるでわからず、六帖の室内を彷徨っていると。
「ここか……」
ボソボソと机の中で音がしている。
およそ反射的に触れた引き出しは、天板から垂れた袖の最下段だった。
そこを引き出すのに、不思議と躊躇はなかった。
ゴロゴロ、と唸る重苦しい音に紛れ顔を連ねるのは、図鑑やら辞書やらの重量物の背表紙と、その隙間を埋めるように差し込まれたノートやプリントの類だ。
一旦取手から手を離し、音の様子を伺う。
――…………っ。
近くに音源があるのは間違いないと感じるものの、肝心の物音はというと、引き出しを開放してもクリアに聴こえない。
よく見てみると、一際大判の分厚い生きもの図鑑の奥にまだ先が残されているようだ。
ボソボソとした音はどうやらそこから聴こえる。私は、その闇に紛れた部分を引っ張り出した。
「なんだ、これ……」
そこには"缶"が収められていた。
今はどうだかわからないが、私が若い頃にはそれなりの手土産として有名だったお菓子の缶だ。
そんなものが図鑑や辞書の並びに混じっているのは、少し場違いなようにも思える。
――…………っ。
音は、この中で鳴っているようだ。
縦に差し込まれた四角い缶を引き抜くと、中でガラガラと音がした。
「なるほど、宝箱かな」
一瞬、蓋を開けてよいものかと悩んだが。いいだろう。
缶の古さからいって、おそらくあの子が小学生の頃のものだ。奥の方に仕舞って、そのまま忘れていたのだろう。中身はどうせガラクタに決まっている。
蓋の縁に指先を引っ掛け、ぐっと力を込める。
ボコ。
鈍い音がして、スチールの蓋が跳ねて抵抗が軽くなった。
――…………っ。
物音、に形がみえた。
割れた髪留めや何かの服のボタンと混じって、あのシルバーのポケットラジオがある。
ところどころ塗装が剥げ、へこんだり欠けたりしてずいぶん傷んでいるようだ。
「これ……」
あの子が、なぜこんなものを持っているのか。覚えがない。
愕然とする耳に、ザラザラ、と電波の藻掻く音が聴こえていた。
電源の小さなランプが赤く点灯している。
止めようとラジオ本体をつまみ上げたその時、
――……ぇ
雑音が声のようなものに聴こえた。思わず耳を傾け、
「ひえっ」
情けない声が喉から漏れ、息が止まった。
刹那に心臓が、バクン、と跳ね。そこから一回一回が気を失いそうなほど強く鼓動し始める。
ウワンウワン、と風が揉み潰される音。キャアキャア、と錆びた金属が表皮を削り合う音。ネチャネチャ、と液体の捻れる音。
漂う腐臭、むわりと立ち込める生臭い鉄の臭気。そんなありもしないものまでもが、今の一瞬に感じられた。
赤黒く染まった景色の中には歪にくだけた瓦礫、残骸が散らばり、荒廃した空間にも関わらずそこかしこに何かの気配が蠢いている。
そんなものは想像だ。単なる想像でしかない。
わかっているのに、こみ上げる吐き気で額に脂汗が滲み、自ずと呼吸が苦しくなってくる。
俯瞰で悍ましい風景を見つめる妄想の視界。
瓦礫に紛れた肉の主たちが、何ともつかない恐怖の権化から逃れようと這いずり回っている。
皆、私の方を目指して、その痩せこけた細い腕を助けを乞うように突き出していた。
妄想を振り払うように現実の室内を見回すと、ふと、手に取って救い上げることはできないのか、と焦燥の中にぷくりと後悔のような感情が膨らんだ。
――ねえ
不意に肩を掴まれ、体がびくりと反応する。
「大丈夫?」
振り返ると、妻が不思議そうに私を見ていた。
「……あ、ああ。大丈夫だよ」
「すごい汗だけど、具合悪いの?」
「いや、部屋が暑くてさ」
「そう?」
怪訝そうに首を傾げる妻を横目に、私はいつの間にか床に転がっていたラジオを拾い上げる。
音は止んでいた。電源のランプも付いてはいない。
「お昼、そうめんだけど食べられる?」
「…………」
「ねえ、聴いてる?」
「……ん。うん、食べるよ」
まるで食欲はない。それに、若干胸にむかつきは残っている。けれど、きっとすぐに良くなるだろう。
先に部屋を出た妻の気配を感じながら、ラジオを引き出しに戻すべきか、と考えが過った。
これは、あの子の宝物だ。だから、捨ててはいけない。
しかしそれでも、私はこれをこの家から吐き出したいと感じていた。
じっとりと湿った手のひらの中で、ラジオは妙に生温かかった。
◇
あれは。あのラジオは、亡くなった前妻が愛用していたものだ。
その時私は彼女の死亡に関する手続きやら葬儀の準備のことで頭が一杯で、遺品のことなんて考えている暇はなかった。
だから、ラジオがなくなっていたことに気づきもしなかった。
あの子は、それを大事に守っていたのだろう。
だが。
なぜ、私にはあのような悍ましい風景が視えたのだろうか。
あの声がなぜ、どうして許しを請うように聴こえたのか。聞き覚えのある声に思えたのか。
私はもう何も知ることができない。
あれ以降二度と、あのラジオに電源が入ることはなかった。