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第肆話 タンザニア・コーヒー。或いは、アメジストムースケーキ

「いらっしゃいませ……あっ!」


扉鈴(ドアベル)の音に反応して声をかけた女給は、奈落の方を見てぱっと表情を綻ばせた。その破顔ぶりは、思わず奈落も口元を緩ませる程だった。


「極楽堂さん、でしたよね! またいらして下さってありがとうございます!」


女給はそう言いながら、奈落の方へ駆け寄ってきた。その様がまるで仔犬かなにかのようで、奈落は思わず撫で回したい衝動に駆られた。


「覚えていて下さったのですか、ありがとうございます」

「男物のお着物がお似合いでしたから。さ、お好きなお席にどうぞ」


 女給に促されて店内に入る。以前に来た時から、微妙にオブジェの配置が変わったり増えたりしていた。入口左手側の棚には鮮やかな彩りの蝋燭が並んでいる。その奥の暖炉の上には西洋の宝箱や小さな甲冑が陳列されているし、最奥の席の手前には大きな宝箱が鎮座していて、その中や周辺も不思議なオブジェが増えているように見えた。

 店内を見回すと、カウンタァの中にいた店主と目が合った。なんとなく頭を下げながら、その店主の前のカウンタァ席に陣取る事にした。


「いらっしゃいませ、お久しぶりです!」

「いやぁ、ご無沙汰しまして。尤も、その間に私の縁故が何人かお邪魔したようですが」

「と、言いますと……?」

「覚えてらっしゃいますかね、眼鏡の女医者」

「あー、はい。白衣を着ていた方ですね」

「そうですそうです。あとは……ああ、まず品書きを見せて頂いても?」

「ああ、どうぞどうぞ」


 話しながら品書きを手に取ると、女給が奈落の方にやってくるのがわかった。女給の方に顔を向けると、その手に一枚の写真を持って奈落の方へ向けているのだった。


「実は……是非召し上がって頂きたいものがありまして」


 手渡された写真は色付きで、店内で撮られたものだということがわかる。その真ん中の皿の上に美しい洋菓子が乗っていた。薄紫色の柔らかそうなものの上に乗っているのは、澄んだ濃紫の細かい寒天だろうか。


「もう販売は終了してしまったんですけれども、極楽堂さんのために取っておきました。アメジストをイメージして作ったムースケーキなんです」

「ほう、アメジスト……紫水晶ですね。確かに色合いがまるで紫水晶の群晶のようだ」


 写真を繁々と眺めながら、奈落は口元を指で隠す仕草をした。鉱石は彼女の得意分野であるから、それについて考え込んでいるようでもある。しかし、奈落の思うところは別なところにあった。


「でしょう? この前極楽堂さんから鉱石薬や鉱石茶についてのお話を伺って、着想を得たんです。私が案を出して、当店の【お菓子職人】さんが作りました。とても好評だったんですよ」


 そう言って女給が店の奥に目線を向けると、そこには彼女と同じような前掛を付けた柔らかい物腰の女性がいた。彼女が【お菓子職人】であるらしい。女給の言葉が聞こえたのか、【お菓子職人】は作業の手を止めてこちらの方を向き、にこりと笑って軽く会釈した。


「では、それをお願いします。それと……そうですね。今日は暖かい珈琲がいいかな……」

「はい、承知しました! どんなコーヒーがお好みでしょう?」

「以前別な店で飲んだのですが、【キリマンジャロ】という珈琲が美味しかった記憶がありますね。同じものはありますか?」


 奈落がそう言うと、何やら女給は曖昧な笑顔を見せて店主の方に目線を向けた。はて、と思い奈落も店主のほうを見ると、此方はどうにも、妙な顔をしている。


「【キリマンジャロ】……は、うちでは扱ってないというか……」


 店主の歯切れの悪い言葉に、今度は奈落が眉根を寄せた。


「割と有名な豆だとは聞きましたが」

「ええ、有名ですし、ブランド力のあるコーヒーですね。キリマンジャロと言うのはタンザニアという国にある一部地方で採れる豆なんですけど……うちでは、自分のこだわりでタンザニアの別なところの豆を仕入れているんですよ」


 説明を聞いていた奈落は、また口元を指で隠す仕草をして少し考え込んだ様だった。


「……成る程」

「タンザニアでしたら、そうですね。今はこの、タンザニア スノートップというものをお出しできます。もちろん、自信を持ってお出しできる豆ですよ」

「では、それをお願いします」

「かしこまりました」


 店主の返事に、奈落は笑顔を返した。そして、口の中で「成る程、やはりそうか」と独りごちた。


 午前中しか見つけられない店。

 チヨコレヱトのアイスクリン。

 炎が燃えているように見えるが触れても熱くない暖炉。

 横書きの文字を左から読む品書き。

 【タンザニア】という豆を置く純喫茶。


 そして、何より。


「平成」


 奈落は、ぽつりとそう呟いた。慌ただしく動いていた女給が、奈落の言葉に手を止めて此方のほうを向いたのがわかった。奈落は女給と目が合うと、薄く微笑んでみせた。


「先日、姦しい女学生がお邪魔したかと思います。私の妹でしてね。平成のレスカなるものを頼んだと、そう聞いたのですよ」


女給は暫く考え込んだが、心当たりがあったらしい。目をぱっと開いて応えた。


「ああ、あの可愛らしいお嬢さん! 極楽堂さんの妹さんだったんですね!」

「ええ。で、【平成】とは何ぞや? という話題になりましてね」


 女給の表情が、一瞬強張ったように見える。だが、奈落は気付かなかった振りをして言葉を続けた。


「私が思うになんですが。平成とは、年号の事では?」


 奈落の問い掛けに、女給はすぐに答えなかった。店内に流れる音楽が妙に耳に残る。思えば、これも妙だったのだ。蓄音機にしては、異様なまでに音の質が良い。


「それも、大正のずっと後でしょう。貴女がたは、その【平成】から来たのでは?」

「何故、そう思いました?」


奈落の言葉に耳を傾けていたらしい店主が、口を挟んだ。しかし、奈落はその言葉に苦笑いを溢した。


「むしろ、隠す気はあったんですか?」


店主は頭を掻くような真似をして、曖昧な笑いを見せる。奈落は小さく溜息を溢した。


「奇妙だと思うところは沢山ありました。でも、決め手になったのは先程の【タンザニア】ですかね。私の祖父はその手の話が大好きな雑学家なのですが、その祖父から聞き齧った事があるのですよ。タンザニアという国で採れる豆は、全て【キリマンジャロ】と呼ばれていると」


奈落の祖父——恭助曰く。キリマンジャロとは、タンザニアにある山のことだそうだ。その麓で採れる豆が狭義では【キリマンジャロ】であるらしい。そこまでは先程の店主の説明と一致している。

 しかし、その名が知れ渡り【キリマンジャロ】が持て囃されるようになったため、今はタンザニアで採れる豆の殆どが【キリマンジャロ】として流通している。玉石混交のこの状態が良いわけはないので、いずれはそれを分ける動きが出てくるかもしれない、と恭助は言っていたのだが。


 それらを鑑みるに、【タンザニア】という豆は存在しない筈なのだ。少なくとも【キリマンジャロ】を有り難がる今の日ノ本國においては。


 はあ、という店主の溜息が聞こえた。


「……ひとつだけ、間違ってるところがあります」


 店主の言葉に、奈落は眉を顰める。しかし、その後の店主の言葉は、奈落の予想もしないものだった。


「私達がいる時代は、平成ではありません。更にその先の、【令和】という時代から来ています」


 奈落は、呆気に取られた顔をした。平成も聞いた事がない年号だったが、なんとその更に先であったとは。


「と言っても、令和になってまだ四年ぐらいしか経ってませんけどね! だから、メニューではまだ【平成】のままなんです。既にその名前で馴染んでしまっていますしね」

「……成る程、成る程。これは一本取られました」


 ははは、と奈落は声を出して笑った。まるで釣られたように、ははは、と店主も同じような調子で笑った。


「先程見せて頂いた写真も、色付きだったでしょう? あんなに美しい色付き写真は、そうそう見掛けません。そりゃあ気付きますよ」

「はははは」


 まるで、他愛ない雑談のように店主と笑い合っていると、女給が奈落の横にやってきていた。


「お待たせしました。お先にアメジストムースケーキです」


 目の前に置かれた皿は、まるで調色板(パレット)のような形をしている。調色をするための溝のような部分には乾燥させた薔薇の花びらが散らされていて、皿の中央には先程見た写真のような、紫水晶に似たケヱキが乗っていた。


「ほう」

「コーヒーはもう少々お待ち下さいね」


 そう言って、女給は笑顔で会釈をすると、カウンタァの奥へ戻っていった。

 奈落は添えられた突き匙(フォーク)を手に取り、紫水晶(ケヱキ)の端を切り離して口に運んだ。結晶を模した濃紫色のものは寒天かと思ったが、さほどの弾力はなく口の中で甘酸っぱく解けていく。淡色の柔らかい部分 (これがムウスなのだろう)は不思議な食感で、こちらは今まで口にしたことがない類の甘味だった。一番下の黒くて固いものは焼き菓子のようなものだろうか? やや苦味が感じられる大人の甘さで、ムウスの甘味と絡まるとそれが程良く調和した。

 奈落は幼い頃まだ祖父が店主をしていた頃の店で、鉱石の見目の美しさに誘われ、思わず手にした原石を口に含んだ事を思い出した。強烈な薬香に反し、それは無味で舌にも固く、慌てた祖父の手ですぐに口の中から取り出されたものだ。そもそも薬として扱っているものなので、調合前の石をそのまま口にするのは下手をすれば命に関わる。しかし、幼い奈落の心を捉えた石の輝きは、子供心に甘い氷菓子のようだと思ったのだ。まるでこのケヱキは、あの頃の奈落の期待を具現化したような存在だった。

 成る程、これは珈琲が欲しくなる。店主が敢えて選んでいるという【タンザニア】が、奈落は楽しみになってきた。


「実は、【こちら】での営業はそろそろ終わりにしようと思っているんです」


 カウンタァの奥から、女給がそう呟いた。奈落はケヱキから目を離し、女給の方に目線を向けた。


「そろそろ、気付かれるお客様も増えてきましたしね。私たちの世界と【こちら】では少々世界線が違うようですけれども、それでもあまり過去に介入することはよくないとされていますし」

「それは……」

「あ、別に極楽堂さんが気付いたからという訳ではないんです。元々、【こちら】での営業はちょっとだけのつもりだったんですけど、思いのほか楽しかったもので」


 そう言って笑う女給の笑顔を見て、奈落は言葉に詰まった。別に店を閉める訳でもなく、元の世界での営業だけに戻すというだけの話なのだろう。だが、居心地の良い珈琲屋を失くすのは、奈落にとってやや胸が痛んだ。


「そうですか。寂しくなります」

「そう言っていただけるのは有り難いです」


 その声は、奈落の隣からだった。気付けば店主が珈琲を持って、奈落の隣に立っていた。


「お待たせしました。【タンザニア】です」


 香ばしい香りをさせた杯が、ケヱキの皿の隣に置かれた。


「状況次第では、また【こちら】にお伺いするかもしれません。その時は、是非また」


 そう言って笑う店主に、奈落は薄く微笑み返した。珈琲を口に運ぶと、口の中に残っていたケヱキの甘さが芳醇な香りで濯がれていく。中深焙煎の【タンザニア】は苦味が上品で飲み易く、珈琲の酸味がやや苦手な奈落でも美味しいと感じた。



美味しい珈琲。幻想の世界へ訪れたような店内。気さくな店主。訪れるたびに増えてゆく謎の武器たち。

ここはまるで得物屋のような純喫茶。リュミヌー珈琲へようこそ。



リュミヌー珈琲編、これにて完結となります。

お読みいただいた方、ありがとうございました。

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