雪の降る夜に
そんな綺麗に例えてくれたのあなたが初めて。
そう言い君はベッドの上で嬉しそうに笑った。
その儚い程に優しい笑顔を見ていると、僕は無性に寂しくなる。
「どうしたの?」
君は不思議そうに首を傾げる。
「何だか寂しそう」
君こそだろ?
僕はその一言をグッと飲み込み、「別にそんなことないよ」ととぼける。
そんな僕の答えに君は「え~本当に~?」と悪戯っぽく笑いながら、ゴソゴソと僕の隣に潜り込んできた。
鼻先を微かなシャンプーの香りがくすぐる。ベッドが僅かに軋む。
やめよう。
そんな思いとは裏腹に僕の両腕はゆっくりと君を迎え入れてしまう。
もうやめてくれ。
まだ君と一緒にいたいんだ。
そんな祈りも虚しく、君は全てを許すように或いは諦めるようにそっと目を閉じた。
ベッドサイドの灯りが君の唇を仄かに照らし上げる。
あぁ。本当に、君は……。
僕は君の髪に触れる。顔を抱き寄せその薄い唇を撫でるように自身の唇を重ねた。
初めて会った日、確か君はこんな風にキスをされるのが好きだと言っていた。
それを聞いて以来僕はどこの誰とも知らない“君に初めてこんな風にキスをした奴”へ煮えたぎるような嫉妬を感じながらキスをしてしまう。
あぁ、ダメなのに。
伝わってしまう。熱が君に伝わってしまう。
このままだと君は今夜も溶けてしまう————
また一つベッドの軋む音が薄暗い二人だけの部屋にそっと響いた。
君は雪みたいだね。
僕はそんな風に君を例えた。
それは本来、雪のように白い肌の女性を表す時に使う言葉なのかもしれない。遠い昔、冷え性の女性を抱きしめた時に悪気無く揶揄として言ったこともあった気がする。
だけど君に対してはそのどちらも違う。
夜更けに気紛れに降りながら、次の日の朝には陽の光を浴びアスファルトの路面を光らせながら嘘のように消えてしまう、そんな淡雪を僕は君に重ねた。
二年前初めて会ったその日から今日に至るまで、僕らは幾度の夜を超え、幾度の朝は僕だけで迎えた。
君はいつも僕に抱かれた翌日、こっそり気付かれぬように独りでベッドを後にする。君が確かにいたはずの僕の隣にはただ濡れたシーツが残されるだけだった。
初めての時は心底驚いた。正直に言えば「やられた」と思い慌てて財布を確認してしまった。だけど英世も漱石も一人だって欠けてはいなかった。
いったいあれは何だったんだ。そんな事を考えているとまたある日突然「この間はごめん。ねぇ、今度会えないかな?」と君はメッセージを送ってくる。
情けないのは僕だ。
言いたいこと聞きたいことは山ほどあるのに嫌われるのが怖くてついつい「いいよ~」なんて軽いノリで次会う約束をとりつける。会ってしまえば君は前と少しも変わらない笑顔を浮かべながら僕の隣に潜り込んでくる。
僕たちはまた温もりを分かち合ってしまう。
すると、また君は雪のように溶ける。枕やシーツを濡らしながら僕の前から消えてしまう。
そんな夜をずっと繰り返してきた。
「明日君は溶けてしまうのかな?」
笑いながら聞いたのがせめてもの意地だった。
「ん~そうかもね」
君は困ったように笑う。
夜風が窓を叩いた。秋から冬に季節が変わるときこの街は地理的な問題で気圧がいつも不安定になる。そのことを始めて教えてあげた時君は目をまん丸に驚いたあと「えーそうだったんだ。どうりで寂しくなると思った」と呟いた。その時も確か今みたいに困ったような笑顔を浮かべていたように思う。
僕は体を起こし真っ直ぐに君の目を見つめた。
「どうして君はいつも何も言わずにどこかに行ってしまうの? 本当は嫌い? それとも本命に呼ばれでもした?」
敢えて語尾を尖らせ失礼なことを言った。とにかくその困ったような笑顔を剥がしたかったのだ。
泣いてくれればSOSが君の心のどこから出ているのか分かる。怒ってくれれば僕のどこに原因があったのか分かる。
だけど困られると……ただ困る。君すら分からない君のことを僕に分かる訳がない。まして僕は夜の君のことしか知らないのだから。
「……本命なんていないよ」
君は悲しそうに、だけどやはり笑いながら言う。
「じゃあ、僕以外の男とは会ってない訳?」
僕はさっきより顔を君に近付ける。
————君は俯き目を逸らした。
僕の胸の内はざわめくなんて生易しい表現じゃまるで足りないほどの劣情に支配された。胸を掻きむしりそのまま肉や皮を剥ぎ取ってしまいたい。体の中の全てをどぶ川に捨て去ってしまいたい。
「じゃあ君は色んな人と、その……会ったり何かした後泣いて、消えて、そんなことをずっと繰り返してるんだ」
意地悪な口調で言った。そうでもなきゃ、せめて悪役を演じるような気持ちでなければもう何も言えなかった。
だけど君はとどめを刺すような言葉だけをぼそぼそと呟く。
「……他の人の時は2.3日とか一週間とかダラダラいたりすることもあるよ。追い出されるまでいたりするときもあるし……」
もう僕は卒倒してしまいそうだった。
「……じゃあなんで俺の時だけ朝になったら溶けてしまうの?」
どうしても入り混じってしまう怒りを必死で抑えながら聞いた時、君は初めて僕の目を真っ直ぐに見つめ返してきた。
「……心底愛されているなって感じるし、そしてそれが幸せだからだと思う」
「幸せ?」
思わぬ言葉に僕は呆気に取られる。
「うん。あなたって今会ってる他の誰よりも優しいよ。だからこうやっているとすごく幸せ」
「……ちょっと待ってよ」
意味が分からなかった。一緒にいることが嫌どころか幸せ? だから何も言わずに帰る?
「多分きっと、優しいあなたは色んな人に優しくされてきたからこんな気持ち分からないよね」
君はまた困り顔で笑う。
「私ね、幸せなことがあると不安になるの。こんな最低の私が幸せになんてなっちゃいけないって考えちゃうの」
君は震える手でそっと僕の頬を撫でた。
「私ね、私ね、幸せになるとその幸せを失うのが怖いの。だったら最初から幸せになんてなりたくないの」
そう言う君の瞳は窓から漏れる月明かりを映していた。揺れる、零れる、僕は気付く、君はいつもこんな風に溶けていたんだ。
ベッドの中で君は自分の事を話してくれた。
君には両親が居ない。生まれてすぐに児童養護施設に入れられるもそこで性的虐待をずっと受けていたのだという、高校を卒業し施設を出るまでずっと。
施設を出た後、身寄りの居ない君はずっと独りで生きてきた。寂しさに付け入るような男は何人もいたのでその頃から、かりそめの温もりに身をやつした。
君は職を転々とした。自分の本当にしたいことを大人の顔色を窺い、子供の頃からひた隠しにしてきた君は、大人になって自分が本当は何がしたかったのか忘れてしまった。内容が肌に合わず辞めた仕事もある。上司との不倫がばれ追い出された職場もあった。
居場所を失った君は、いつからか心のバランスを崩し、そして雪になった。
雪になった自分を君はまるで犯罪でも犯しているかのように責め続ける。
だけど僕は言いたい。
誰だって雪になるよ。
寧ろ君はここまでよく頑張って来たよ、と。
君は間違ってない。ここまで頑張って来た君と今まさに頑張っている君を君は認めてあげるべきなんだ。
だが、きっとどんな言葉かけだって、君を傷付けてしまうことになる。『認めてあげるべき』という言い方は今の君にはあまりにもキツ過ぎる。
どうしたらいいか分からなくなった僕はまた君を抱きしめた。
貧弱な語彙を心底に恨む。この世界には今の君にぴったりの言葉がきっとあったはずなのに。
代り映えのしないお決まりの温もり。だけど君は満足そうに笑ってくれた。
「またね」
僕と君、どちらから言ったかはもう忘れてしまった。
翌朝、iPhoneのアラームで僕は目を覚ました。
月曜日。ダルダルな一週間の始まりだ。仕事になんか行きたくない。
そんなことを考えながら僕は体を起こす。
冷たい感触が左手に触れた。
僕は欠伸を噛み殺しながらベッド脇に既に折り畳まれていたパジャマを洗面所の洗濯機に突っ込んだ。
歯を磨いた後、部屋に戻りスーツに着替える。
独り残された部屋の中でネクタイを締めていると、暖房の稼働音がガタガタと歪な音に変わっていることに気付いた。引っ越してきた時から備え付けになっていた物だからもう寿命なのかもしれない。
僕はふと思った。
再来週に出る冬のボーナスで買い替えようか。
いつかまた戻ってくる君が凍えないように。
そしてここが、今年も君が雪になれる唯一の場所であるために。