7. 手加減と本気と
静寂に包まれたギルド内。
それまで愉快に馬鹿騒ぎしていた人も、雑談に興じていた人も、忙しなく動いていた職員も、全てが動きを止めていた。
「あ、悪りぃ悪りぃ。手が滑っちまったぁ」
そんな静寂を切り裂いたのは、全身を赤くした上半身裸の男だ。
足元は覚束無く、目は焦点があっていない。
昼間から酒を飲んでいる冒険者は珍しく無いが、ここまで泥酔している阿呆は、あまり見ない。
「まさか、適当に石を投げたところに剣鬼様が居るなんてなぁ……ま、わざとじゃ無いんだから許してくれや」
男はゆったりとした動作で私の肩に手を置き、悪びれもなく、そう口にした。
「……そう。わざとじゃ無いのなら、仕方ないわね。次はちゃんと人の居ないところに投げなさい」
肩に置かれた手を払い、忠告だけで終わらせる。
ちょっかいを掛けてくるような輩に構っている暇は無い。
こんな小物よりも、転生者優先だ。
「それじゃ、遊びもほどほどにね」
「──待てよ」
その場を去ろうとした私の肩が、ガシッと掴まれた。
私は、はぁ……と溜め息を一つ。
案の定、面倒な奴に絡まれてしまった。
初めて訪れたギルドでは尚更こうなるとは思っていたけれど、やはり冒険者というのは物騒な連中だ。
「手を、退かしてくださる?」
「剣鬼様なら、この程度力づくでどうにかしてみろよ。それとも? そんな力はありませ〜んってかぁ?」
男は周囲に聞こえるように笑い、戯けてみせた。
でも、それに反応して笑う者は居ない。
誰もが顔を真っ青にして、そこから動けないでいる。
……ふむ、馬鹿はこいつだけで、他の者は区別程度なら弁えているか。
「なぁ剣鬼よぉ〜、俺さぁずっと前からお前のことが気に食わなかったんだわ。女のくせに目立って、あっという間に翡翠になりやがってよぉ……どんな手を使ったんだ? その体でも売ったかぁ?」
酒に酔っているから不問にしてあげようと思ったけれど、流石にうるさい。
私としては何を言われようと、何と噂されようと別に構わない。
翡翠になったのは転生者の情報を集めやすくするためだし、ちょっとした荒事も強引に揉み消せて、動きやすくなるからというのが主な理由だ。
実力は上の者が知っていればいいし、必要以上に他の冒険者と慣れ合うつもりはない。
最高ランクの『翡翠』というだけで目立つのは……まぁ仕方ないと諦めても、余計に目立つことは好まない。
だというのに────
「おい黙ってんじゃねぇよ。怖いのかぁ?」
こちらが大人しくしていれば、反論できないのだと勘違いして調子に乗り始める酔っ払いの男。
「なんか言えよ。その仮面の下に口付いてんだろぉ?」
にやけた面で顔を覗かせてくる。近い。
何日も体を洗っていないのか、体臭が酷い。
酒の臭いも合わさって最悪だ。
今すぐにその首を落としたい気持ちをぐっと堪え、私は口を開く。
「…………肩の手を、退かしてくださる?」
「嫌だね」
「もう一度だけ言うわ。手を退かしてくださる?」
「自分で払えばいいじゃねぇか。できるならなぁ?」
「そう。──なら、仕方ないわね」
私は歩き出す。
すでに男の手は──
「ヅァアアアアアアア!!?!!?!!!」
手首から綺麗に斬り落とされて、地面に転がっていた。
「デ、メェ……! 何をしやがった!?」
手首から大量の血を吹き出しながら、男は喚く。
それを冷静に見つめた私は一言。
「邪魔だったから退けたのよ」
やったのは簡単。
肩に置かれた男の手を、手刀で斬っただけだ。
ちょっと剣術を極めれば、手刀でも岩を斬り裂くことはできる。
ただの人間を斬る程度、剣が無くても容易だ。
「ほら、私って女だし……力が無いじゃない? だから少し強引になったけど、この程度なら許してもらえるわよね? だって貴方が『できるものならやってみろ』って許可したんだもの」
「っ、ざけんな!」
「ふざけてなんかいないわよ。……あら、少しは酔いも覚めた? 感謝してくれてもいいのよ?」
「このっ、こんなことして……! 翡翠だからって許されると思ってんじゃねぇぞ!」
男の言葉に、私は首を傾げる。
「おかしなことを言うわね。先に手を出したのは貴方でしょう? それに冒険者同士の喧嘩は自己責任と規約にあるでしょう。……私と貴方。二人の喧嘩を誰が許すというの?」
ハッと気付いた男は、助けを求めるように周囲を見回した……が、誰もが目を逸らして男を見ようとしない。
冒険者同士のいざこざは絶えない。それをいちいちギルドが処理するのは無理がある。
だから『やるなら全部勝手にやってくれ』という、ギルド公認で放任主義が定められた。
この場合、他の第三者が飛び出してくることはない。
それは面倒事に自分から首を突っ込むような行為だからだ。
誰も翡翠の私と喧嘩をしたい奴は居ない。
──目の前で苦渋に顔を歪めている馬鹿以外は、誰も。
「テメェ……!」
「これ以上やるのなら、私も容赦はしないわよ?」
翡翠の階級に到達しているのは、私の他に二人居る。
片方は私と同じく正体を隠している魔王なのだけれど……もう片方は歴とした人間側の者だ。
ここで下手に出続ければ、舐められるのは私だけじゃない。
だから、ある程度行き過ぎた者に制裁を与えることも、翡翠として必要なことだと思っている。
「死ねやぁ!」
「……清々しいほど話を聞いていないわね」
ゆっくりと迫り来る残り一つの拳に、私は考える。
ここで殺すのは、流石にやりすぎだろう。
だからと言って適当に潰しても、恨みを持たれてまたどこかで邪魔が入る。
どちらにしても面倒だ。
──だったら二度と再起できないよう、四肢を切り落とすか。
現場は凄惨なことになるけど、最悪なことにはならない。
冒険者の中には回復魔法を扱える者が居るだろうし、もし居なかったとしても、この街の教会に行くか、傷が癒せるポーションを飲めばどうにかなるはずだ。
──よし、そうしよう。
結論を出した時には、男は一歩を踏み出せば私に届く距離まで来ていた。
大雑把な拳を最小限で避けて、すれ違いざまに全てを切断する。
脳内でそのような未来を描き、その通りの動こうと手に力を入れた。
──その時だ。
「やめるんだ!」
視界を遮るように、真横から第三者の手が割り込んできた。