08:もちもち様のお兄様
隙あらばピギるものの、ミリー本人には痩せる気は十分にある。
何をしようかとさっそく尋ねてくる彼女に、シルフィアはしばし考え込んだ。——ちなみにクッキーはライオネルが責任をもって回収した。彼の鞄にしまいこんだのだが、ミリーは時折チラチラとそちらを見ている——
「最初から激しい運動をすると体を傷めてしまう可能性があります。まずは軽い運動から始めて、体を動かすことに慣れていくのが良いでしょう」
「そうね。お手柔らかにお願い」
「えぇ、お任せください。ではまずは学園の周りを三周ほど走りましょう。どこかで丸太を調達して担げればいいんですが」
「ストップ、シルフィア、ストップ!」
待った! とライオネルが声をあげる。
それに対し、シルフィアはいったい何事かと彼を見た。ライオネルがひきつった表情を浮かべている。
「いいかい、シルフィア、まったくもってお手柔らかじゃない」
「ご安心ください。学園の一生徒として、貴族の令嬢として、品のない担ぎ方は致しません。学園の手本となるような担ぎ方を致します」
「それを聞いて安心どころか不安が増すばかりだ。それに、学園の周りを丸太を担いで走ったらさすがに君でも注意されるぞ」
ライオネルが溜息混じりに忠告してくる。
それを聞き、シルフィアはふと考えこんだ。脳裏に浮かぶのは丸太を担ぐ弟ルーファスの姿。逞しさと愛らしを兼ね揃えた笑顔で、軽々と丸太を担いで歩く可愛い弟……。
日に幾度と見かける姿である。むしろ丸太を担ぐ彼を見ない日は逆に心配になってしまうほどだ。
(だけど確かに、逞しさや筋力の必要のない世界なら丸太を担がなくてもいいのかもしれないわ……)
そう考え、シルフィアはチラとライオネルを見上げた。
「つかぬ事をお伺いしますが、ライオネル様は丸太を」
「担いだことはない」
「今後の予定は」
「担ぐ予定もない」
きっぱりとライオネルに断言されれば、さすがにシルフィアも食い下がることはできない。
そういうものなのね……と理解しておく。
それと同時に湧く『なら庭に勝手に小屋を建てたいときはどうするのかしら』という疑問は飲み込んでおいた。もしかしたら、鍛える必要のない世界では家の庭に勝手に自力で小屋を建てたりはしないのかもしれない。これも悲しい勘違いが生んだずれだ。
そんな新たな事実を胸に、シルフィアは改めるように「でしたら」と話を再開させた。
「学園内を散歩するのはいかがでしょうか。幼稚部や小等部の方まで歩けば、結構な距離になりますよ」
「そうね、散歩ぐらいなら私でも無理なく出来そうだわ」
シルフィアの提案に、ミリーが表情を明るくさせる。丸太を担ぐと聞いた時こそ慄いていたが、散歩ならば無理なく出来ると思ったのだろう。
次いで彼女が「それに……」とチラとライオネルに視線を向ければ、彼は翡翠色の瞳を僅かに丸くさせた。
シルフィアが散歩を提案したのには二つ理由がある。
一つは散歩ならば無理せず出来るからだ。お喋りをしながら学園内を案内して回るとなれば、きっと楽しく過ごせるだろう。
そして二つ目は……。
「俺とミリーが散歩をするイベント?」
なんだそれ? と怪訝な表情を浮かべ、ライオネルが首を傾げた。
ミリーとライオネルが学園を散歩する……。それは乙女ゲーム『トキ恋』で発生するイベントの一つだ。
転入したばかりで右も左もわからないミリーに、幼馴染のライオネルが校内の案内を申し出る。その最中にミリーが転んで膝を怪我してしまい、ライオネルがおんぶをして運んでくれるというものだ。
ゲーム開始直後に強制的に行われるイベント、なおかつ綺麗なスチル付きとあり、ここでライオネルに落ちた女は数知れず。
それを説明すれば、ライオネルが「おんぶ…」と呟いた。ゲームだのスチルだのは分からないが、それでも『ミリーが転んで自分が背負う』という流れは理解したのだろう。
次いでミリーへと視線を向ける。彼の表情が次第に険しくなっていくのは、己がミリーを運ぶ姿を想像しているからだろうか。
「だ、大丈夫だ。多分出来ると思う……。でも途中で潰れたらごめん」
「いいのよライオネル。無理はしないで、貴方の腰が心配だわ」
ゲームでのミリーは軽々と背負われていたが、あのミリーは細く小柄だ。もっちりもしていなければ横幅もない。その差はミリー本人が誰より自覚しているだろう。
シルフィアもさすがにスチルまで再現するのは無理――ライオネルの腰が危ない――と判断し、「無理はしない方向で」と話を進めた。強引に乙女ゲームのイベントに倣い、それでライオネルが体を傷めたら元も子もない。
だがそれに対して、ライオネルが「大丈夫だ!」と声をあげた。
「ミリーを背負うぐらいどうってことない!」
「そ、そうですか?」
「あぁ、確かに君の弟ルーファスに比べれば俺は細いかもしれない。というか彼と比較されたら世の男は総じて細いだろうが、俺だって鍛えてるからな」
妙に意気込んだライオネルの訴えに、シルフィアが気圧されつつコクコクと頷いて返した。
だが確かに、ライオネルは背丈もあり年相応どころか優れた体つきをしている。——彼の逞しい成長はシルフィアの闘志を募らせ、トレーニングの日々に火をつけていたのだが、この場で言うべきではない——
「でしたら、万が一にミリー様が転んでしまっても大丈夫ですね。ではそろそろ行きましょうか」
何事もやる気のある内に行動すべきだ。
そう考えてシルフィアが立ち上がれば、ライオネルもそれに続き……、
「出発前にちょっとクッキーを一枚……」
とミリーが腹ごしらえをしようと言い出した。
シルフィアが「ピギー様!」と彼女を窘めたのは言うまでもない。
※
学園内は生徒達が行き交い、放課後であっても活気にあふれている。
それでいて貴族の学園らしい格調高さもあり、生徒達も楽しそうにはしゃいではいるが優雅な振る舞いは忘れていない。
「ここの道を真っすぐにいくと小等部があります。右に行くと大きな講堂があり、よく外部の先生をお呼びして講義を開いて頂くんです」
「話には聞いていたけど、実際に見てみるとすごいのね……。私ずっと避暑地に籠っていたから、なんだか別世界に迷い込んだみたい」
シルフィアの話を聞きつつ歩くミリーは随分と楽しそうだ。
曰く、今まで籠っていた避暑地には娯楽は殆どなく、同年代の少年少女もいなかった。唯一と言えるのがたまに遊びにくるライオネルだけ。
おかげでミリーはアドセン家に養女に入ってからというもの、一日の殆どを兄と過ごしていたという。
「ミリー様のお兄様ですか?」
「えぇ、ヘンリーっていうの。本当はお兄様も一緒にこっちに来る予定だったんだけど、もう少し療養が必要ってお医者様が仰っていて……。それでわざわざライオネルに私のことを頼んだのよ。心配性なんだから」
まったく、とミリーが深く息を吐く。兄の過保護さを思い出して唇を尖らせれば、ふっくらとした頬がむにっと山を作る。
だがその表情は不満を訴えてはいるものの、嫌悪感は一切ない。むしろ兄を自慢したいようにも見えてくる。
微笑ましさに、シルフィアが思わず笑みを零した。一喜一憂の分かりやすい彼女は見ているこちらの胸まで弾ませる。これもまた令嬢力なのだろう。
(ヘンリー・アドセンという名前のキャラクターはゲーム内にはいなかったわ。そもそも、ミリー様に兄がいることすら描かれていなかったはず)
つまりヘンリー・アドセンは乙女ゲーム『トキ恋』とは無関係だ。もちろん『シャコロワ』にも該当するキャラクターはいない。
そんなミリーの兄はどんな人物か……とシルフィアが想像してみた。
ミリーはもともとアドセン家の養女だ。ゆえに彼女とヘンリーに血の繋がりはなく、見た目も似ていない。表情がコロコロと変わり朗らかな妹に対して、兄は静かな空気を纏う青年だという。
「となると、ミリー様とはあまり似ていないようですね」
「そうだな。俺もヘンリーとは昔から親しくしているが、ミリーとは真逆とさえ言えるタイプだよ。だけどそれ以上にヘンリーは……」
言いかけ、ライオネルが言葉を止めた。
シルフィアがいったい何事かと彼を見上げれば、翡翠色の瞳をふいとそらしてしまった。不自然に泳ぐ視線と眉間に寄った皺が、言いにくいことがあると声に出さずに語っている。
ヘンリー・アドセンに何か問題でもあるのか。それをシルフィアが問おうとするも、それより先にミリーが「お兄様はね」と話し出した。
鞄から何かを……梱包された一口サイズのチョコレートを取り出しながら。
「お兄様は私にいつもお菓子くださるの。これも今朝届いたのよ。それに紅茶用の砂糖と、パンに塗る蜂蜜も送ってくださったわ」
チョコレートを口に放り込み、そのうえ更に二つ取り出してシルフィアとライオネルに渡してくる。
豪華な包み紙、剥がせばコロンとチョコレートが転がり出てきた。砕いたナッツを埋めたなんともおいしそうなチョコレートではないか。
避暑地のミリーの部屋には豪華なリボンに飾られた大きな箱があり、そこにはこのチョコレートが大量に入っていたという。一日中食べても尽きないほどで、そろそろ底が見える……となると、ヘンリーがどこからともなく調達してまた箱をいっぱいにしてくれていた。
それもチョコレートだけではない。キャンディも、クッキーも、マフィンも。それどころか珍しい異国のお菓子でさえ、ヘンリーはミリーのためにと尽きることなく用意していたらしい。
嬉しそうに語りまた一つチョコレートを口に入れるミリーに、シルフィアが眉間に皺を寄せた。
それに気づいたライオネルが、はは……と乾いた笑いを浮かべる。雑に頭を掻くのは、シルフィアから冷ややかな空気を感じ取り誤魔化すためか。
「ヘンリーはちょっと……いや、かなりミリーを甘やかしてるんだ。特に食事の時なんて、自分の食事よりミリーを眺めるのを優先して、よく注意されてたよ」
「それほどに……。なるほど、ピギー様を生んだのはヘンリー様というわけですね」
兄仕込みの食いしん坊となれば、これは予想していたよりも根深いのかもしれない。
現にミリーは家にある食べ物のことを考えてうっとりとしている。帰ったら早速マフィンを食べよう、蜂蜜もたっぷりかけて……と、聞いているだけで胸やけしかねない。
そのうえ何かを見つけるとふらふらと歩いていってしまう。小動物のような愛らしさは、同時にちょこまかと動く小動物の危なっかしさでもある。となれば、小動物を餌付けしたいと考えるのも自然な流れなのか。
なるほどこれは過保護になるのも仕方ない、とシルフィアはひとりごちて頷いた。
もっとも、過保護になるのは理解できても、あれこれと食べさせるのは見過ごせない。
どうにかしなくてはと考え、隣を歩くライオネルを見上げた。
「ライオネル様からヘンリー様に連絡をして、お菓子を送るのを止めて頂くことは出来ませんでしょうか?」
「一応やってみるが、たぶん無理だと思うな。俺にミリーを託す時でさえ、二時間みっちり話し込んだくらいだ」
当時を思い出したのか、ライオネルがうんざりだと言いたげに肩を落とす。
元々ヘンリーもミリーと共にこちらに越してくるつもりだったが、直前で医者にストップをかけられたという。結果、ミリーは父と共にこちらの屋敷に移り、ヘンリーは母と療養に別荘で……と、兄妹は離れ離れになってしまった。
その際にヘンリーがミリーを託したのが、昔から親しくしていた幼馴染のライオネルだ。同い年で同じ学校に通う、勝手知ったる仲、これ以上の適任はいない。
だが普通ならば「妹を頼む」の一言で済みそうなところを、ヘンリーはライオネルを相手に「ミリーに邪な気持ちはないよな?」と二時間にわたり問い詰めたという。
「ミリーの事は友人としか想っていない、託されるのも友人だから、邪な気持ちなんて一切ない。……と、何度も繰り返させられたよ」
「それは大変でしたね」
「ヘンリーは妹可愛さのあまり、俺がミリーに恋心を抱いているんじゃないかと懸念しているんだ。だから……」
ふと言葉を止め、ライオネルがコホンと咳払いをした。
次いでシルフィアへと向き直ってくる。翡翠色の瞳にじっと見つめられ、シルフィアは問うように彼の瞳を見つめて返した。
自分の黒髪黒目と違い、銀の髪に翡翠色の瞳を持つライオネルのなんと麗しいことか。爽やかで凛々しく、太陽のように眩い。
「ライオネル様?」
「だから、俺はちゃんと好きな人がいるとはっきり話して、納得してもらったんだ」
少し上擦った声でライオネルが断言する。
見れば彼の頬はわずかに赤くなっており、耐えきれなくなったのかパッと他所をむいてしまった。
「その……俺が好きなのは……」
「なるほど、ライオネル様はお慕いしている方がいらっしゃるのですね。私、てっきりミリー様と深い仲なのかと思っておりました」
「ヘンリーに刺されるような誤解はよしてくれ。それに俺は、ずっと……ずっと君のことが……!」
勢いづけるようにライオネルが口を開き……、
うわぁぁあん!
と聞こえてきた子どもの泣きわめく声に、続く言葉を掻き消された。