07:人気者のピギー様
翌日、シルフィアのいるクラスにミリーが転入生としてやってきた。
その姿を最初に見たときこそ皆ぎょっとしたが、愛らしい素振りの公爵令嬢となれば誰もがすぐに好意を抱く。とりわけミリーは孤高の存在であるシルフィアと親しく話しているのだから、より周囲は興味を抱き、そして話しやすいミリーに声を掛ける。
授業が終わり放課後になれば、転校初日だというのに既にミリーの周囲には人集りが出来ていた。
(穏やかに微笑む仕草や、公爵家でありながら気さくな性格。時にはしゃぎ、はたと気付いて照れ臭そうに笑うあどけなさ。皆が惹かれるのも無理はない。やっぱりミリー様はゲームの主人公通り、愛される存在なんだわ……)
遠目からミリーを囲む集団を見つめ、シルフィアが冷静に分析する。
公爵家令嬢でありながら分け隔てなく友好的に接する親しみやすさ。見た目も朗らかで愛らしく、花が咲き誇るような笑顔を見せる。
なるほど、これが令嬢力というものか。
もっとも、時折さりげなくモグリモグリとクッキーを食べているのだが、どうやら周囲はそれを気にしていないようだ。もしくは食いしん坊なところすらも彼女の魅力になっているのだろうか。
「やはりミリー様は令嬢力が高いのね。私も見習わなくちゃ」
「シルフィア、令嬢力ってなんのことだ?」
「ライオネル様!」
横から声を掛けられ、シルフィアが慌ててそちらへと向く。
……と、同時に思わず拳を握った。
「すまない、驚かせたか?」
「い、いえ、こちらこそ声をあげてしまい申し訳ありません。いやだわ、驚いてしまって拳が解けない……」
突然声を掛けられたことで反射的に身構え、堅く握った拳が解けない。
そうシルフィアが話せば、ライオネルが僅かに頬をひきつらせつつ「それはすまない……」と謝罪してきた。声が上擦っている。
だがシルフィアは彼の心境にも気付かず、再びミリーへと視線を向けた。相変わらず彼女はあちこちから声を掛けられ、愛想良く返事をしている。
「ミリー様は魅力的な方ですね。一日にして人気者です」
「そうだな。もともと彼女は明るい性格だし、すぐに打ち解けられると思っていたよ」
「そうですね、この調子なら……。またクッキーを食べてますね」
「あれさえ無ければなぁ」
「今度は二枚重ねで! ミリー様、いえ、ピギー様、二枚重ねはいけません!」
これ以上は食べさせられないと慌ててシルフィアがミリーのもとへと向かった。ドクターストップならぬシルフィアストップである。
それにライオネルまで続けば、孤高の令嬢と公爵家子息の登場に、ミリーを囲んでいた者達がさっと道を譲った。中央にいるのは、二枚重ねのチョコチップクッキーを持つミリー。
「シルフィア、ライオネル、ごきげんよう。どうしたの?」
「ミリー様、クッキーの食べ過ぎです。さすがに二枚重ねは見逃せません」
ミリーの手からさっとクッキーを奪い取り、シルフィアが咎める。
それに対して、ミリーは「そうだったわね……」と頬を染めつつ己の食欲を恥じた。花柄でレースのついたハンカチで手を拭い、止めてくれたシルフィアに感謝を示す。
その仕草や姿はまるで小動物のようだ。ふっくらとした頬を赤くさせて食べ過ぎてしまったと恥じる、これに嫌悪を抱くものはいないだろう。
周囲も微笑まし気に見つめ、ミリーが照れ臭そうに笑うとつられて表情を緩めた。
普段は遠巻きにシルフィアを眺めている者達も、ミリーに関しては積極的なのか今は輪の中にいる。その中の一人が覚悟を決めたように「シルフィア、今度俺と……」と声を掛けてきた。
珍しく名を呼ばれ、シルフィアが答えるために振り返り……、
「シルフィア、ミリーに庭園を案内してやってくれないかな」
と、横から割って入るや目の前に立つライオネルにきょとんと眼を丸くさせた。彼らしくない、割り込むとさえ言える強引さだ。
先程声を掛けてきた方は……とシルフィアが周囲を窺うも、それらしき人物はいない。誰もがふいと視線をそらして乾いた笑いを浮かべるだけだ。
「今、どなたかに名前を呼ばれた気がしたんですが……」
「そうか? それらしき男はいないけどな」
ライオネルもまた周囲を見回す。――その際、周囲の男たちがこぞって俯いたことに生憎とシルフィアは気づかなかった――
そうして彼が「気のせいじゃないか?」と結論付ければ、シルフィアも頷くしかない。念のために誰にともなく「どなたか呼びました?」と尋ねても返事もないのだ。
ならばと気持ちを切り替え、ミリーへと向き直った。いったいどういうわけか彼女はライオネルを肘で小突いている。
「ミリー様、ぜひ学園の庭園を案内させてください。とても素敵なところなんですよ」
「えぇ、お願いするわ」
上品にシルフィアが微笑んで誘えば、ライオネルを小突いていたミリーも穏やかに笑って返す。
そうしてシルフィアはスカートの裾を摘まんで深く頭を下げ、「では失礼いたします」と告げてその場を後にした。麗しく品良く、そして仰々しい挨拶だ。
※
あれほど仰々しく別れの挨拶をされれば、残された者達は黙って見送るしかない。
麗しい見た目にあった完璧な挨拶。だが高等部の一角では重苦しく、深い溝を感じさせる。
所作が完璧だからこそ『別れ』を意識させ、追いかけることを許さないのだ。シルフィアの「失礼いたします」という淡々とした口調は、周りには「追いかけてこないでください」という無言の訴えに聞こえる。
誰もがシルフィアとミリーが去っていった先を見つめ、盛大な溜息を吐いた。ミリーという仲介を得たと期待したが、相変わらず彼女は孤高の存在なのだ。
……もっとも、
「飲み物でも持っていこうかな」
と誰にでもなく呟き歩きだすライオネルだけは例外だ。
ゆったりとした足取りは余裕を感じさせる。向かう先はもちろんシルフィアとミリーと同じ方向。
ライオネルを見送る視線に羨望と嫉妬の色が混ざり始める。だが誰一人として「自分も一緒に」と声を掛けられずにいるのは、ライオネルが他でもない公爵家子息だからだ。
いかに普段は気さくな好青年であっても、この一件だけは彼はけして譲らないと誰もが知っている。……知らないのはシルフィアだけか。
そんな嫉妬の視線を背に、ライオネルは見られないよう口角を上げた。
「親しい者同士で、ゆっくりと、庭園を眺めながら雑談としゃれこもうか」
さらなる追い打ちをかければ、小さく唸る声まで聞こえてくる。
羨望と嫉妬。それをひしひしと感じつつ、ライオネルは誰にも見られていないのを良いことに、牽制成功と小さく舌を出した。
※
庭園には等間隔にテーブルセットが設けられている。
お喋りに花を咲かせて友情を深めるも良し、恋人同士並んで座り将来を語り合うも良し、中には一人で物思いに耽る者もいる。用途は様々だが、いつだって手入れのされた美しい景観が生徒を受け入れてくれる。
そんな庭園の一角に、シルフィアはミリーと向かい合って座っていた。
「ミリー様に折り入ってお願いしたいことがございます」
改めて告げるシルフィアの口調は重く、頼まれたミリーが問うように視線を向けてくる。
彼女の視線を受け、シルフィアは昨夜の母とのやりとりをーー父が傾国の美青年であったことは伏せてーー説明した。
自分はあまりにも年頃の令嬢らしさを欠いた生活をしていた。
このままでは、ドム・バトソンと婚約させられてしまう。
それを回避するために必要なのが……。
「令嬢力……?」
ミリーがオウム返しで呟く。
彼女の頭上にはこれでもかと疑問符が飛び交っているが、突拍子もない話を聞かされ、そのうえ未知の単語で締められたのだから当然だ。
おまけにその未知の力を教授してくれと乞われれば、疑問に疑問が重なり、返答など出来るわけがない。
「令嬢力とは、社交界で生き抜くのに必要な力。勉学やマナーとは違った、慎みや恥じらい、愛嬌といったものです。すなわち愛される秘術」
「それが必要なのね。でもシルフィアは素敵な女性だもの、令嬢力を鍛える必要なんて無いじゃない」
「いえ、それが……。ミリー様、『社交界ロワイヤル』を覚えていらっしゃいますか?」
シルフィアが深刻な声色で尋ねれば、ミリーが僅かに間を空けた後……。
「えぇ、少しだけど覚えているわ。あのとんでもないゲームよね」
と、コロコロと笑った。
おまけに、しばらく笑った後まさかと言いたげに「あのゲームをやっていたの?」と尋ねてくるではないか。ぐぅの音もでない。
シルフィアが返答できずに黙り込んでいると、次第に彼女も表情を強ばらせていった。
「シルフィア……あなた……」
「ミリー様、お手をお借りしてよろしいでしょうか……」
シルフィアが尋ねれば、ミリーがそっと手をさしのべてきた。
白い肌のもっちりとした手だ。白パン……と出かけた言葉を飲み込んで、シルフィアはミリーの手を取るとそっと己の腹部に添えた。
「シルフィア! あなた何を……か、硬い!」
「ミリー様、私はミリー様に出会うまで勘違いをしておりました。それはそれは、悲劇的な勘違いです……」
「まさかこの硬さは筋肉なの!? シルフィア、あなたもしかして……!」
シルフィアの言わんとしていることを察し始め、ミリーの声が震える。
それどころか彼女のもっちりとした手まで震え始め、それがシルフィアの腹部に……腹筋に伝わってくる。
それとほぼ同時に「何をやってるんだ!?」と声が割って入ってきた。
ライオネルだ。彼は三人分の紅茶を手に足早にこちらに歩み寄ってくる。困惑した表情をしているのは『シルフィアがミリーに腹部を触らせている』という状況に理解が追いついていないからだろう
だがミリーもシルフィアも彼の驚愕を気にしている場合ではない。むしろ……。
「私、この世界が『社交界ロワイヤル』だと勘違いしておりました。そしていずれライオネル様をこの拳で殴り倒すため、日々鍛えていたんです……」
トレーニングに明け暮れ、令嬢らしさなど欠片もない。
そうシルフィアが拳を握りしめながら告げる。足早に歩み寄ってくるライオネルを見ると、どうしても拳を握ってしまうのだ。
「そうだったのね、シルフィア。割れてる……腹筋が割れてるわ……」
凄い……とミリーが制服の上からシルフィアの腹筋を撫でる。
それに対してライオネルがあわあわと慌てたのち「校内でそういう行為は!」と止めに入ってきた。随分と顔が真っ赤で、銀色の髪がよけいに赤を濃くさせている。
「大丈夫ですよ、ライオネル様。これはミリー様にお伝えしていただけです」
「伝える? いったい何を伝えたんだ?」
「今までの私の辛く険しい日々。そしてそれが儚く散った事実。胸に湧く悲壮感。そして私が立たされている窮地。ミリー様は私の腹筋に触れることで理解してくださいました」
「君の腹筋にいったいどれだけの伝達能力があるんだ」
わけが分からないとライオネルが唸る。
それでも会話に加わる気はあるのか自分もと席についた。三人分の紅茶をテーブルに並べ、改めるように「それで」と話し出した。
「シルフィアの腹筋は置いておくとして、ミリーを痩せさせるにはどうすれば良いかだよな。ミリー、そろそろシルフィアの腹筋から手を放そうか」
「そ、そうね。ライオネルの言うとおりだわ。でも最後にひと撫で……硬い……」
「俺はゲームの記憶とやらはさっぱりだが、痩せるのは急いだほうがいいんだろう。ところでシルフィア、その強く握った拳を解いて、お茶でも飲もうじゃないか」
「そですね。まぁ、手のひらに爪が食い込んであとが……」
いやだわ、と己の手のひらを揉みながらシルフィアが上品に誤魔化す。
そんな中、ミリーは気分を改めたのか「頑張りましょう!」と気合いを入れてシルフィアの手を握ってきた。
自分だけではなくシルフィアも危機的状況にあると分かり、闘志が燃え上がったのか。そのうえ危機的状況を脱するには互いの協力が必要となれば、これはいわば運命共同体。
熱意を語るミリーの瞳には気合いが満ちている。
シルフィアもまた、もちもちの白パン……もとい、彼女の手をぎゅっと握り返した。すごい弾力だ。
「ミリー様、お互いの未来のため頑張りましょう」
「えぇ、頑張りましょうシルフィア!」
互いに鼓舞し、最後に一度かたく握りあうとそっと手を離した。
気合いも十分。シルフィアは心機一転するように深く息を吐くと紅茶へと手を伸ばし……、
そしてミリーはサクリとクッキーを食べた。
相変わらず流れるような所作である。
思わず一枚目を見逃してしまい、彼女が二枚目にいそいそと手を伸ばしたところでようやく気付いた。
「まぁ、ピギー様ってば、さっそくピギッていらっしゃる」
「すまない、シルフィア。今回はお茶請けを用意した俺の責任だ。だからどうかピギーの活用だけは許してやってくれ……」
前途多難ですねぇ、とシルフィアが上品に笑えば、ライオネルが幼なじみの食欲を嘆いた。