23:シルフィア・マードレイ
「ゲームの自分がどうのとそればかりで、少しは今の自分達について考えたらどうなんだ!」
らしくないライオネルの怒声に、シルフィアまでビクリと肩を震わせてしまう。
まるで自分まで怒られているようではないか。
……いや、ライオネルの言わんとしていることを察するに、きっと彼の怒りの矛先はシルフィアにも向いているのだろう。ヘンリーはもちろん、ミリーにもだ。
シルフィアが恐る恐るライオネルの様子を窺う。怒りを露わにしても彼は相変わらず見目がよく、だからこそ漂う怒気と威圧感に拍車をかけるのか。
「ヘンリー、君はこんなことをするやつじゃなかったはずだ。確かにミリーを太らせようと仕組んでいたのかもしれないが、ミリーの健康には気を使っていた。彼女が大事だからだろう? 昔から君はミリーを一番に考えて、彼女が悲しむようなことは絶対にしなかったじゃないか」
怒声から一転して諭すような声色でライオネルが話しかける。
確かに、ミリーは随分ともっちりとして特注制服を着るような体形をしているが、健康は害していないと言っていた。医師に太鼓判を押されたとまでいうのだから相当だ。
それに対し、ライオネルが「君が見守っていたからだ」と扉の向こうのヘンリーに告げた。
ヘンリーは【勘当エンド】を迎えるため、望むままミリーに食事を与えて太らせた。だがその反面、健康を害さぬようにと気を使っていたのだ。
それをライオネルが告げれば、扉の奥から小さく呻く声が聞こえてきた。ヘンリーの声だ。絞り出すような声に、悲痛なミリーの声がかぶさる。
「ミリー、君だってそうだ。確かに痩せるのは良いかもしれない。だけどそれが『ゲームの自分がそうだったから』なんて馬鹿げてる。親に勘当されるなんて本気で思ってるのか? 今まで何を見てたんだ」
「そうね、お父様とお母様が私を見捨てるなんて有り得ないわ……。私、何を不安に思っていたのかしら……」
ミリーの声に切なげな色が混ざり始めた。
ライオネルに諭され、自分がいかに迷走していたのかを理解したのだろう。
ゲームの記憶に振り回され、「勘当されるかも」と不安に思っていた。それはつまり家族からの愛情を疑っていたということだ。
弱々し気な謝罪の声が聞こえ、ライオネルが小さく溜息を吐いた。次いで彼が視線を向けたのは……。
シルフィアだ。
翡翠色の瞳がじっとシルフィアを見つめてくる。真っすぐで、そして何かを訴えようとしている瞳。
「シルフィア、君がミリーに協力するのはゲームのシルフィアをなぞるためだけなのか? 確かに最初はそれだけかもしれないが、今はそうじゃないだろ。だからここまで来たんだ」
「それは……」
「俺は君達と違ってゲームの記憶はないし、ゲームの中のシルフィアがどんな人物だったかも分からない。だけどそれは今の自分を否定してでも目指すべきものなのか?」
「ライオネル様……」
「俺は今目の前にいるシルフィア・マードレイが誰より素敵だと思う。ゲームの記憶がなくたって、ゲームのシルフィアを知らなくたって、君が世界で一番素敵な女性だと断言できる」
彼の訴えに、シルフィアが胸元を押さえた。
ゲームのことを思い出し、鍛え、それが間違いだと分かった今は鍛えた日々を否定し、令嬢らしくあろうと努める。ゲームにそってミリーを支え、ゲームのミリーを目指して痩せようとしている。
ゲームの自分に振り回されて、今の自分を否定してばかりではないか。
それを指摘されれば言葉に詰まり、通路に再び沈黙が広がる。
そんな中、扉に拳を打ち付けていたライオネルがゆっくりと手を開き、そして力なく扉に額を寄せた。コンと音がし、彼の翡翠色の瞳が切なげに細められる。
「俺にとっては今の君達が大事なんだ。だからどうか俺の大事な人達を否定しないでくれ」
ライオネルの声は怒りをはらんでいたものから諭すような声に変わり、今は悲痛な色さえ見せている。胸の内を絞り出して吐露したような、そんな息苦しさだ。
彼の言う『俺の大事な人達』とは、ゲームとは関係ない、ゲーム通りにいかなかったシルフィア達の事である。
ゲームの主人公ミリーとは違い、食欲に負けてしまう食いしん坊なミリー。
ゲームには存在しない、ミリーを溺愛する幼馴染のヘンリー。
そして……ゲームを勘違いし鍛え上げ、令嬢力の欠片もないシルフィア。
どうにかゲームに沿うようにと躍起になっている三人を、ライオネルは『大事な人』と言ってくれた。
大事だからこそ、ゲームに沿うために自分を否定するなと……。
彼の言葉に、シルフィアが拳を握った。
「確かにライオネル様のおっしゃる通りです。ゲームも前世の記憶も関係なく、私は『シルフィア・マードレイ』として向き合うべきでした」
「シルフィア、分かってくれたんだな」
「えぇ、お恥ずかしい話ですが、ライオネル様に諭していただきようやく目がさめました。私はゲームの登場人物ではない、ただのシルフィア・マードレイ。……ならば私がすべきことは、マードレイ家の者としてこの扉を押し通るのみ!」
堅く握った拳を構え、シルフィアが扉へと向き直る。
ライオネルが数歩下がりつつ「扉を開けられるならそういう事にしようか」と呟いた気がするが、今はそれよりも扉を開けることが先だ。
ゲームのシルフィアとしてではなく、今ここに立つシルフィアとして。
鍛え上げてしまった……いや、『鍛え上げてしまった』ではなく『鍛え上げた』肉体を持つ者として。
「私が大事にすべきは、ゲームのシルフィアでもゲームのミリーでもない。私と、私の親友のミリー様。そして今の私を大事にしてくれる人」
シルフィアが拳に力を込める。
チラと横目でライオネルを見れば、彼はシルフィアの視線に気付くとぱっと瞳を明るくさせた。何かを期待するかのような翡翠色の瞳。
「あ、あぁ、そうだ。俺はずっと君の事を」
ライオネルが何かを言い掛ける。
だがそれを聞き終わることなく、シルフィアは堅く握った拳を一度己の腰元へと引き、力をため……。
「そしてなにより信じるべきは、共に生きてきたこの肉体!!」
満身の力で、握りしめた拳を扉に叩きつけた。
その瞬間の轟音。扉だけでは済まない衝撃。
振動を受け、扉に飾られていたリースが崩れて花びらが舞った。
……真っ赤な、薔薇の花びら。
視界ではらはらと散りゆく様は、社交界ロワイヤルで必殺技を決めた瞬間の演出そのものだ。
十年間鍛え上げ、それでも取得しきれなかった必殺技。
(それを今この瞬間に取得するなんて皮肉なものね……。でも、もう私はシャコロワのシルフィアの事も追いかけないわ)
決意を新たに、拳を叩きつけた扉に手を掛ける。ギィ……と扉が軋み、次いでゆっくりと扉が開かれた。
「さよなら、社交界ロワイヤルのシルフィア……」と小さく呟くのは、トキ恋のシルフィアを追わないと決めたと同時に、社交界ロワイヤルのシルフィアとも別れると決めたからだ。
そう考えれば、先程の真っ赤な花びらはまるで別れの演出のようではないか。目の前の扉も、新たな旅立ちを感じさせる。
これは単なる別れではない。自分らしく歩むための別れだ。
なんて感動的なのだろう!
……この際なので、若干おののきつつあるライオネルは無視しておく。
そうしてギシギシとやたらと軋む扉を開けば、質の良い広い部屋の中、ヘンリーが驚愕の表情で座り込んでいた。
扉が壊された衝撃に立っていられなかったのか尻もちをついた状態で、まるで信じられないと言いたげにシルフィアとライオネルを見つめている。
その隣に立つのはミリーだ。
彼女も驚愕の表情こそ浮かべてはいるものの、ヘンリーと違い立っているあたり衝撃には耐えられたようだ。というより重さで耐えたに違いない。
だがふとヘンリーが座り込んでいる事に気付くと、さも自分も衝撃に耐えきれなかったと言いたげに座り込んだ。よいしょともっちりとしたお尻で床に座り、よろりと片手を着く。
その姿だけを見れば、ミリーも衝撃に耐えきれなかったようではないか。
だが目の前で取り繕われれば騙されるわけが無く、相変わらずな彼女の様子にシルフィアが目元を拭い、
「そういうところですよ、ピギー……ミリー様」
と、いつもの口調で彼女を咎めた。




