22:公爵子息の記憶
屋敷の三階、長い通路を抜けた最奥にある一室。
そこが窓からミリーが覗いていた部屋だ。人払いをしているのか三階にあがると途端に給仕達の姿が無くなり、代わりに扉の前にいたアドセン家夫妻がこちらに駆け寄ってきた。
夫妻の顔色は青ざめており、挨拶もろくにせずにライオネルに事情を話し出した。
「屋敷を経つ前日の夜、ミリーから話があると言われたんだ。そこで……あの子から不思議な話を聞いた」
「それはトキ恋の……前世の記憶ですか?」
ミリーが問えば、アドセン家当主が意外そうな表情をした。
どうして知っているのかと問うような視線に、シルフィアがはっきりと「私も同じです」と答えた。
「娘が何を言っているのか、最初は理解できなかった。正直に言えば今も理解できない。だがミリーに『見捨てないでくれ』と言われた時は、わからないなりに馬鹿なことを言うなと返したよ」
「それは……」
「ミリーを見捨てるわけがない。あの子は亡き親友の忘れ形見。それ以上に、私達の大事な娘だ」
ミリーの記憶について語る当主の口調は随分とあやふやなものだった。対して、ミリーへの思いを語る口調ははっきりとしていて強い意志を感じられる。
ミリーはアドセン家に勘当されるかもしれないと考えていた。ゲーム上には有り得たエンディングだ。
だが実際のミリーにはその可能性はなく、これはまさに取り越し苦労ではないか。それどころか夫妻が口を揃えて「頼まれたって手放さない」と断言している。
シルフィアがほっと安堵の息を吐けば、隣に立つライオネルが肩を竦めて「ほら言っただろ」と小さく告げてきた。
だが次の瞬間に彼の表情が険しくなるのは、当主の口調が再び困惑の色を見せ始めたからだ。彼の口から出る「ヘンリーは……」という声色は随分と暗く、困惑も露わに扉を見つめる。
「てっきりヘンリーも私達と同じ気持ちだと思っていたんだが……」
ミリーの話を聞き、勘当などありえないと確認し、その晩は就寝となった。
アドセン家夫人はミリーの自室まで着いていき、布団にはいった彼女の額に就寝のキスまでしたというではないか。子どもの時の習慣を今になって再び行うのは、前世の記憶を打ち明けてもミリーが変わらず自分達の愛しい子どもだと伝えるためだ。
それを受けるミリーは嬉しそうで、恥ずかしがりながらも夫人の頬にキスを返したという。
そのやりとりだけでも、アドセン家には前世の記憶など割って入る隙のない絆があると分かる。
……なのに。
「ヘンリー、出てきてくれ。ちゃんと話をしよう」
刺激しないよう控えめに扉を叩き、当主が優しく声を掛ける。
だが返事はなく、扉が開く気配もない。
耐えきれずシルフィアが扉に近付いてそっと手を触れた。耳を澄ませば、中から微かに話し声が聞こえてくる。言い争っているのか、内容までは聞こえてこないが、少なくともミリーもヘンリーも室内にいるようだ。
「ここは私達に任せて、少しの間だけ席を外して頂けませんでしょうか」
シルフィアがアドセン家夫妻に頼めば、彼等の困惑が更に強まる。
もとよりシルフィアは彼等とは交流はなく、いくらミリーの友人とはいえ男爵家の令嬢でしかない。緊急事態であるこの場を任せるのは不安があるのだろう。
だがライオネルは別だ。彼が一言後押しすれば、夫妻はそれならと託して去っていった。
もとより人払いをされていた通路に、妙な沈黙が漂う。
だが今はその沈黙を気にかけている場合ではない。
「夫妻には離れて貰ったが、このままじゃ埒があかないな」
「……私、ずっと考えていたんです。どうしてヘンリー様がこのような行動をとったのか。……いえ、そもそもどうしてミリー様に食べ物を与えていたのか」
「どうしてって、ミリーのことが好きだからだろう? だから甘やかして望むままに食べさせていたんじゃないか」
今更な話だと言いたげなライオネルの言葉に、シルフィアが小さく首を横に振って返した。
彼の答えは、半分合っていて半分間違えている。
確かにヘンリーはミリーを大事に思っている。いつぞや聞いた「ミリーが嬉しそうに食事をしているのを見ているのが好き」という話は嘘偽りのないヘンリーの本心だろう。
……だが、根底にあるものは違う。
根底にあるものは『ミリーへの愛』
「ヘンリー様はミリー様の事を愛していらっしゃるんですよね? 妹としてではなく、一人の女性として……」
(出来ればもっと落ち着いた場所でお話すべきだった……。いえ、ヘンリー様がこんな行動に出なければ、私が触れていい話じゃなかったわ)
一抹の罪悪感すら抱きつつ、シルフィアが再び扉へと声を掛ける。
「ヘンリー様はミリー様を一人の女性として想い慕っていた。だからミリー様の望むままに食べさせ、食欲を煽り、今の体型にしたんですよね?」
「……シルフィア、何を言ってるんだ? ミリーを太らせてヘンリーに何の得がある?」
「すべては、ミリー様が勘当エンドを迎えるため。ヘンリー様、貴方もゲームの記憶を持っていらっしゃるんですよね」
シルフィアが扉の向こうにいるヘンリーに問う。
その言葉を最後に、通路が沈黙に包まれた。
微かに聞こえてくるのは階下の声か。この異常事態に混乱する屋敷内を、アドセン家夫妻が宥めているのかもしれない。
だがどこか遠くに、まるで分厚い壁を隔てたかのように感じるのは、それほど通路中を包む沈黙が重苦しいからだ。
無音の圧力に呼吸さえ躊躇われ、ゴクリと生唾を飲む音すらも妙に大きく感じられる。
その沈黙を破ったのは、扉の向こうから聞こえてきた声。
「……あぁ、そうだ」
というぶっきらぼうな声は、間違いなくヘンリーのものだ。
だが暗く言いしれぬ重さを感じさせ、薄幸そうな彼が発したとは思えない。
「やはり、前世の記憶が……。いつから、でもヘンリー様はゲームにはいらしゃらないはずではありませんか」
「シルフィア、君も同じ記憶があるのか……」
溜息混じりにヘンリーが告げ、まるで遠い昔を思い出すかのようにポツリポツリと昔のことを話し始めた。
ヘンリー・アドセンが前世の記憶を思い出したのは、彼が幼少時の頃。
ミリーの両親が亡くなり、彼女がアドセン家の養女になると決まった瞬間だった。
その頃すでにヘンリーはミリーを特別な存在だと考え、ゆえに彼女が遠くに引き取られるのを必死で反対していた。
「昔から僕はミリーと結婚したいと思っていた。アドセン家に迎え入れたのも離れたくなかったからだし、兄妹になっても、いずれはミリーに告白し結婚するつもりだった」
兄妹とはいえミリーは養女、血の繋がりは無い。いざとなれば一時的にミリーの籍を他家に移し、結婚をして改めてアドセン家に迎え入れればいい。そう、幼いヘンリーは考えていた。
まるで物のやりとりのような浅さではあるが、幼い少年が想い人と離れるまいと必死に考えた末の手段である。
だが蘇った記憶はそれを良しとしなかった。それどころか、ヘンリーに絶望的な知識を植え付けてきた。
乙女ゲーム『トキ恋』はミリーの様々な恋愛を描く物語。中には幼なじみライオネルとの恋もあり、彼との結末だけでも幾つも種類が用意されていた。
……だが、ヘンリー・アドセンとの結末はない。
そもそもヘンリーは『トキ恋』には存在しないのだ。
「たかが記憶と切り捨てようともした。だけどミリーの両親はゲーム通りに亡くなり、アドセン家の養女になった。それも僕の後押しもあって。皮肉な話だろ。一時は自分のせいでゲームのシナリオに沿いだしたのかと悩みもしたよ」
「それで、ミリー様を……?」
「転入すればミリーはゲーム通りに男達に囲まれて、僕以外の男と恋をする。だからそれを阻止しようと考えたんだ」
ミリーが誰とも結ばれず、そのうえ公爵家からも追放される【勘当エンド】は、ヘンリーにとってこれ以上ないほど都合の良いものだった。
邪魔な男達もいなければ、兄妹という柵も無くなり結婚は容易になる。
そのためにミリーに不摂生な生活を強いた。幸い、彼女はヘンリーを疑う事無く今に至る。
……今の体型に至る。
「僕だって、本当はミリーを不安にさせる事無く進めるつもりだった。勘当なんて手段を使わずに、ミリーと結婚しようと考えていたんだ……」
「もしかして、ミリー様が前世の記憶のことを話したから」
「ミリーが痩せようとしていたのは知っていた。だけどまさか、僕と同じ前世の記憶を持っていたなんてね……」
ミリーの話を聞き、彼女を傷つけまいとしていたヘンリーの計画が狂った。
彼女も記憶を持ち、自分が不摂生の末に家を追い出される可能性があることを知っている。それどころか、その結末を避けるために動いていると言うではないか。
ミリーが痩せ、勘当エンドを回避した先にあるのは何か……。
自分以外の男と結ばれる結末だ。
「それでミリー様を退学させようと……」
「……退学? ヘンリーお兄様、どうしてそんなことを……!」
「ミリー様!」
扉の向こうから聞こえてきたミリーの声に、シルフィアが声を荒らげて名前を呼ぶ。
どんと音がして扉が揺れるのはミリーが扉を開けようとしているからだろうか。だがドアノブは回りこそするが扉が開けられる様子はない。
「シルフィア、こんな事に巻き込んでしまってごめんなさい。私がちゃんとお兄様の考えに気付いて、ゲーム通りに痩せていればこんな事にならなかったのに……」
「そんな、ミリー様のせいではありません。ゲームの中の私はちゃんとミリー様をサポートしていたのに、実際の私は今日まで事態に気付かず、ミリー様を危険な目にあわせてしまって……」
「ミリー、大丈夫だよ。ゲームの通りに公爵家を出ても、すぐに僕と結婚すればいいんだ。ゲームには僕は居なかったけど、勘当された後に僕との未来があるんだ」
堅く閉ざされた扉を挟み、三人が口々にゲームと己の差を嘆く。
ミリーは兄の策略に気付かず与えられるままに食べ太ってしまった己を、シルフィアはそんなミリーを支えられなかった己を。ゲームと違い、なんて不甲斐ないのだろうか。
そんな二人のやりとりにヘンリーが勘当エンドの先を話す。ミリーが恐れ、ヘンリーが望むゲームの結末だ
(『トキ恋』は苦難もなく楽しく明るいゲームだったのに、なんでこんな事に……。私がゲーム通りにミリー様を支えきれなかったから……!)
自責の念に胸が痛む。まるで扉が開かないのは自分のせいのように思えてきた。
ゲームのシルフィアならきっと冷静に対処し、ミリーを助け出しただろう。それを考えればより胸が痛む。押しつぶされそうな痛みだ。
だが次の瞬間、ドンッ!と大きな音と共に、男らしい手が扉を叩いた。
驚いてシルフィアが顔を上げれば、ライオネルが扉を睨みつけている。翡翠色の瞳は鋭く、彼らしくない怒りを隠し切れぬ表情だ。
「ライオネル様……」
シルフィアが声を掛ける。だがそれより先に、ライオネルが険しい表情で口を開いた。
「さっきから、ゲームがどうのと馬鹿な事を言うな!」
その声は人払いをした通路に響き、扉を挟んだ室内さえも黙らせた。




