20:幼馴染
翌日早朝、まだ日も登り切らぬうちにシルフィアは目を覚ました。
といっても心配と不安と混乱が入り交じってろくに眠れなかったのだ。
日々トレーニングを積み、強い肉体は健康な生活あってこそと考えるシルフィアにとって、眠れず過ごす夜というのは初めての事である。布団に入って目を瞑ってもあれこれと考えてしまい、眠れても一時間程度で目を覚ましてしまう。それをずっと繰り返していた。
「……ミリー様、ご無事かしら」
ぼんやりとする頭でマードレイ家の門に立ち、迎えの馬車を待つ。
そんなシルフィアに横から声が掛かった。見れば、年若い青年……ではない、父エリオットだ。相変わらず顔が良いが、今のシルフィアにはそれを関心している余裕はない。
「シルフィア、クレアさんから聞いたよ。友達の為にがんばっているんだね」
「お父様……。でも、もしかしたら、アドセン家の方と騒動を起こしてしまうかもしれないわ。早朝に訪問して失礼だと咎められてしまうかも」
ミリーは友人だ。だが彼女は公爵家令嬢である。そのうえ今からヘンリーに事情を聞きに行こうとしており、いざとなれば彼と対立するかもしれない。
格下の男爵家令嬢でしかないシルフィアにとって、公爵家子息であるヘンリーと対立など大問題だ。へたすると家同士の問題となり、そうなった場合シルフィアどころかマードレイ家に咎がいくかもしれない。
それは分かっている。勝手な行動だ。
だがそれでもミリーを助けに行きたいのだと訴えれば、エリオットが優しく肩をさすってきた。
「大丈夫、お前の信じる事をしなさい」
「お父様……」
「大事な友達のためなんだろう。令嬢力だのなんだのと言っているが、お前が優しくて良い子だというのは皆分かっているからね」
父の手が優しくシルフィアの肩をさする。
穏やかな声色だ。見た目はまったく父親としての貫禄は持ち合わせていないが、こういった時の優しさや包容力はさすがである。
「ありがとう、お父様」
シルフィアが感謝を示し、エリオットに抱きつこうとし……、
「シ、シルフィア! その男は誰だ!?」
という声に、抱きつこうとしていた腕をピタリと止めた。
エリオットも同様、娘からの抱擁を受け止めようと腕を広げたまま制止し、きょとんと目を丸くさせている。ーー父の驚き顔はより年若く見せるーー
そんな二人のもとに駆け寄ってくるのはライオネルだ。馬車が止まるのも待ちきれないと飛び出し、慌ててシルフィアとエリオットの間に割って入ってくる。
「シルフィア、まさか俺の知らない男と逢瀬を! ……エリオット殿」
「これはライオネル様、おはようございます」
「……申し訳ない、勘違いをした。朝日のもと見る貴殿はいつも以上に若く見えて、もはや俺達と同年代、むしろ年下の見知らぬ男に見えたんだ……」
うなだれながらライオネルが事情を説明する。ジリジリと後ろに下がるのは己の勘違いを恥じているからだろうか。
シルフィアが彼の腕に手を添え「仕方ありません」とフォローを入れた。
我が父ながらエリオットは見目がよくて若々しい。それが朝日のもととなればより輝きを増し、二十代どころか十代後半に間違えられてもおかしくないほどなのだ。
「お父様は巷では生娘の生き血を飲んでいると言われているほどの若々しさです。ライオネル様が見間違えるのも仕方ありません」
「そうですよ、ライオネル様。お恥ずかしい話ですが、間違えられるのはいつものことなので……。シルフィア、あの噂は僕なのか? 僕のことなのか?」
「さぁ、参りましょう。ライオネル様!」
シルフィアがライオネルの腕を掴んで促す。
早く経てばそれだけ早くアドセン家の別宅に着く。そう考えれば、噂の真相を知ろうと迫ってくるエリオットに説明などしている余裕はない。
馬車に乗り込み、アドセン家の別荘を目指す。
ライオネルの手元にはミリーの退学届と事情を書き記した便箋が握られており、それに気付いたシルフィアは小さく息を呑んだ。
退学届も便箋も、どちらもヨレや皺が酷い。力のままに丸め潰し、思いとどまって皺を伸ばしたのだろう。くたびれた用紙は葛藤の証だ。
それを見つめるライオネルの表情は険しく、怒りと、不安と、混乱が綯い交ぜになっている。
宝石のような翡翠色の瞳も今は暗く、穏和な彼らしくない張りつめた空気にシルフィアが案じて名前を呼んだ。
「ライオネル様……。大丈夫ですか?」
「あ、あぁ、すまない考え事をしていた」
はたと我に返ってライオネルが顔を上げる。苦笑を浮かべるが、その笑みが誤魔化しなのはシルフィアでも分かる。
彼の胸中はシルフィアよりも複雑なはずだ。
なにせ、ライオネルは元々アドセン家と親しくしていた。彼にとってとってミリーは大事な幼馴染であり、それと同じくらいヘンリーとも関係を築いてきたのだ。
「ヘンリーはミリーの事を大事にしていたはずだ。それは間違いない。なのにどうしてこんな事をしたんだ。何を考えているのか分からないが、せめて一言相談してくれれば……」
ライオネルの声は思い詰めたような深みがある。
シルフィアが彼の腕をさすり、その手から退学届と便箋をそっと抜き取った。見ているだけでこちらの気持ちまで鬱々としてしまう。
それを手早く折り畳むと、上着の胸ポケットにしまいこんだ。
「書類に問いかけてもヘンリー様からの返事は聞こえませんよ。直接聞くのが一番です!」
「……そうだな、ありがとうシルフィア。直接ヘンリーに事情を聞いて、納得いかない理由だったら一発殴ってやればいい」
それで解決だとライオネルが冗談まじりに笑い、日頃のシルフィアを真似るように拳を握った。
※
アドセン家の療養地に到着したのは日が落ちしばらくした頃。
周囲はすでに暗く、とりわけ自然に囲まれた土地は真夜中のように静まっている。
日中ならば自然を感じさせる清涼の地と思えるだろう。この地で静かに過ごせば確かに療養になる。
だが夜に訪れればその印象はがらりと一転し、薄気味悪さすら感じてしまう。一日馬車を走らせただけでこうも景色が変わるのかと、シルフィアは流れゆく景色を眺めつつ思った。
アドセン家の屋敷まであと少しというが、木々が生い茂って屋敷の屋根すら見えない。
「明るい時に来ると綺麗な場所なんだ。俺も小さい頃から何度も遊びに来ている。当時からヘンリーはミリーを溺愛していて、俺とミリーだけで遊ぶと機嫌が悪くなって大変だったんだ」
「まぁ、その頃から?」
「自分の不調で遊べなかったのに、『どうしてライオネルだけミリーと遊ぶんだ』っていつも文句を言っていたよ。ミリーも優しいからヘンリーを気遣って、彼が具合が悪くて遊びに出られない時は窓辺で三人で話すようになったんだ」
当時を語るライオネルの表情は明るく、子ども時代の楽しさが胸によみがえったかのようだ。
シルフィアもつられて表情を緩める。
きっとその光景は長閑で暖かいものだったのだろう。
だがふとライオネルの表情に陰がかかった。
「ミリーは元々この近くに住んでいたんだ。彼女の両親は貴族ではなかったが、アドセン家の夫妻とは昔から懇意にしていたらしい。俺も遊びに来るたびに世話になっていたが、優しく明るい夫妻だったよ……」
だけど……とライオネルが言葉を止める。
優しく明るい夫妻。二人は不慮の事故に遭い、幼いミリーを残してこの世を去ってしまう。それはあまりに唐突で、防ぎようのないものだったらしい。
一人残されたミリーは遠縁の会ったこともない親戚に引き取られることになったが、そこに待ったを掛けたのがアドセン家夫妻だ。
友人夫妻の忘れ形見。公爵家ならば何不自由なく育てられる。ヘンリーの必死な懇願もあり、ミリーはアドセン家の養女になったという。
「ミリーもしばらくは落ち込んで笑わなくなったんだ。だけどヘンリーが常にそばにいて、ミリーを慰めてやっていた。俺も両親もミリーが心配でこまめに遊びに来ていたが、くるたびにミリーが明るさを取り戻していて、ヘンリーには感謝してるんだ」
ライオネルの話に、シルフィアがほっと安堵した。
過去の事とはいえ、不慮の事故で親を失った少女が塞ぎ込んでいる話は聞いていて胸が痛くなる。だがそれも迎え入れてくれた家族によって心の傷が癒されたと聞けば、我が事のように安堵が胸に湧く。
……そして同時に湧くのが、なぜヘンリーが今回のような行動に出たのかという疑問。
昔からミリーを大事にし、彼女を妹として迎えてからはより溺愛が増す一方。その溺愛ぶりは出会って数ヶ月のシルフィアだって分かるほどだ。
なのにどうして、ミリーの勘当を企てたのか。
分からない、と小さく呟いたシルフィアの声に被さるように、ガタと馬車が揺れた。
別荘に到着したのだ。窓から覗けば、さすが公爵家と言える立派な屋敷が建っている。木々に囲まれたその屋敷は、さながら物語に出てくるお城のような佇まいだ。
「シルフィアの言うとおりだ。何も聞かないことには始まらない……。ミリーの気持ちはもちろん、ヘンリーの気持ちも。すべて聞き出そう」
ライオネルが馬車の扉に手を掛ける。
いよいよだとシルフィアも意気込み、彼に続いて馬車を降りた。




