01:男爵家令嬢シルフィア
その名前を聞いた瞬間、シルフィア・マードレイは思い出した。
この世界は前世でプレイした乙女ゲームであり、自分はそのゲームの中で主人公を支えるサポート役の友人だと。
そして思い出すと同時に理解した。
この世界は、貴族が戦うバトルアクションではないということを……。
※
話はシルフィアの記憶がよみがえる数分前にさかのぼる。
シルフィアが学園の通路を歩いていたところ背後から足音が聞こえ、ほぼ同時に声を掛けられた。「シルフィア、少し良いかな?」という控えめな言葉に振り返れば、そこに居たのは一人の青年。
銀の髪に翡翠色の瞳。まるで物語の王子様といった整った顔つきの青年に、シルフィアはスカートの裾を摘まんで腰を落として挨拶をした。
「ごきげんよう、ライオネル様。どうなさいました?」
恭しいシルフィアの挨拶は社交界ならば当然の対応だ。誰もが見事だと褒めただろう。
だが高等部の通路では些か仰々しすぎる。とりわけ二人ともドレスやスーツではなく一生徒として制服を纏っているのだ。
ライオネルが苦笑を浮かべ、シルフィアの挨拶を「大袈裟だな」と笑う。同じ学友なのだからもっと気楽にと告げてくる彼の言葉に、それでもシルフィアは首を横に振って返した。黒髪がふわりと揺れる。
「公爵家のライオネル様に適当な挨拶などできません」
「だけど、俺達は普段から話をしている方だとは思わないか? 確かに互いの家のこともあるが、ここでは俺も君もたんなる生徒なんだし、友人として気兼ねない挨拶を交わしても問題はないだろ」
「ライオネル様を友人だなんてとんでもない!」
彼の話に、シルフィアが思わず声をあげた。
確かにライオネルとシルフィアは同じ学園に通う身、それも同じ学年のクラスメイトだ。互いの了承さえあれば、家柄の差があろうとも気楽に接しても問題はない。家柄に囚われず友情を築く、素晴らしい話ではないか。
だけど……とシルフィアはチラと周囲に視線をやった。
数人の男子生徒が遠巻きにこちらの様子を窺っている。彼等はシルフィアに話しかけてくることなく、距離を取って見つめてくるだけだ。ひそひそと囁きあう声は聞こえてくるが、あいにくと内容までは分からない。
(いつもこうだわ……。遠巻きに見てきて、こっちから挨拶をしても生返事しかしないのよね)
近寄るでもなく、かといって離れるわけでもない。
そんな周囲からの視線を感じつつ、シルフィアはライオネルに向き直った。彼だけは別だ。
「ライオネル様は孤立している私を気遣い、こうやって声を掛けてくださっているんですよね。私、きちんと理解しております」
「いや、そんなことはない。君のことを大事な友人だと思ってる」
「友人だなんてそんな。ご安心ください、ライオネル様を友人だなどと烏滸がましい勘違いは致しません!」
「力強く断言しないでくれ……!」
うぐぅ……と呻きつつ、ライオネルが胸元を押さえる。
それを見てシルフィアは首を傾げ、「どうなさいました?」と尋ねた。いったいどうしてライオネルがここまで苦しんでいるのか分からない。
そもそもなぜ声を掛けてきたのか。それを問えば、胸を押さえて俯いていたライオネルがぱっと顔を上げた。
「そうだ。君に頼みごとがあったんだ。聞いてくれるかな」
「頼み事……。もちろん、ライオネル様の頼み事でしたら。何でもおっしゃってください」
「俺の頼み事なら……。そうか、ありがとうシルフィア。やはり持つべきものは友だな」
「まぁ、友だなんて煽てなくて大丈夫ですよ。公爵家であるライオネル様の頼みごとを断ったとあれば、お母様に叱られてしまいますもの。誓って友人だなどと勘違いは致しません」
「ここにきて追加の一撃……!」
再びライオネルが胸元を押さえて呻く。今すぐに倒れてもおかしくないほどの苦しみようだ。
だがシルフィアにはさっぱりである。むしろこうも具合が悪いのなら自分に声をかけずに医者にでも掛かるべきではなかろうか。
そう思えどもひとまず彼の話を聞こうと考え、話を促すようにライオネルを見上げた。
銀の髪によく映える翡翠色の瞳。見目の良さと合わさってなんて眩いのだろうか。
黒髪に同色の瞳と、黒一色のシルフィアに比べて、彼はまるで輝く宝石のようだ。
性格や家柄も、片や友好的で社交界の中心にいる公爵家と、片や常に一人で学園生活を送る男爵家……。なにからなにまで真逆といえる。
そんなライオネルをじっと見つめていると、自然とシルフィアの拳に力が入った。
「そ、それで話なんだが……。シルフィア、どうして君は俺と話をするときに拳を握るんだ?」
「まぁ、失礼いたしました。これは……性です」
「性」
「もしくは私の中に流れる血のせいでしょうか……。とにかく、ライオネル様の要件を伺ってもよろしいでしょうか」
今はまだ拳を握るときではない。
そう自分に言い聞かせ、シルフィアが話の先を促す。
「そうだ、頼みごとなんだが。じつは明日、転入生が来るんだ。どうやらシルフィアに頼みがあるらしくて、少し話を聞いてやってくれないかな」
「転入生ですか?」
予想もしないライオネルの話に、シルフィアは首をかしげながら尋ね返した。
曰く、その転入生とやらは昔からライオネルと懇意にしている公爵家の令嬢らしい。今までは病弱な兄のためにと療養の地で生活していたが、明日この学園に転入してくる……と。
「転入が決まった時は楽しみだと話していたんだが、先日会ったら妙に気落ちしていて、詳しく話を聞いたらシルフィアに相談事があると言われたんだ」
「私に……。もちろん構いませんが、なぜ私なんでしょうか」
社交界に生きる令嬢として、そしてこれから起こる日々のため、貴族の顔と名前は殆ど記憶している。それが公爵家ならばなおさらだ。
だがライオネルが話す公爵令嬢については思い当たる節がなく、そのうえどうして単なる男爵家令嬢でしかない自分に相談となるのか、皆目見当もつかない。
だがそれはライオネルも同じなのか、シルフィアが問うように見つめると困ったと言いたげに頭を掻いた。銀の髪が揺れる。公爵家嫡男らしくなく、それでいて年頃の青年らしい仕草だ。
「実を言うと俺も詳しくは分からないんだ。なんだか変な話をしたかと思えば、どうにかシルフィアとの仲を取り持ってほしいと頼み込んできて」
「まぁ、そうだったんですね」
「あやふやな話で申し訳ない。どうか相談にのってくれないだろうか」
本来、公爵家嫡男から男爵家令嬢への頼みとなれば居丈高に命じてもいいぐらいだ。それでもわざわざ低姿勢で頼んでくるライオネルに、シルフィアはもちろんだと頷いて返した。
困惑を見せていたライオネルの表情が、シルフィアの了承を得て一瞬にして明るくなる。
その笑顔のあどけなさ。社交界では年頃の令嬢達が揃って骨抜きにされると言われている。なるほどこれは手強そう……とシルフィアが内心で呟き、握った拳を背中に隠した。
「ありがとう。それなら今日の午後にミリーを連れて君の家にお邪魔させてもらうよ」
「お待ちしております。……ミリー?」
聞き覚えのない名前に、シルフィアがオウム返しのように口にした。
初めて聞いた名前だ。記憶をひっくり返しても『ミリー』という名前の知人はいない。
(だけどなぜかしら、妙な胸騒ぎがするわ……)
自分の記憶の奥底で何かがよみがえろうとしている違和感。幼少の頃の……いや、これは幼少よりも更に昔の記憶……。
そんな言い知れぬざわつきを胸の内に覚えるシルフィアに対し、ライオネルが穏やかに笑って話を続けた。
「彼女の名前を教えてなかったな。俺の幼馴染、ミリー・アドセンだ」
「ミリー……アドセン……」
その名前を口にした瞬間、シルフィアの脳内に掛かっていた靄が一瞬にして消え去っていった。
それと同時に流れ込む様々な記憶……。
今の自分ではない自分が操る、恋の物語……。
そして思い出した。
この世界は前世でプレイした乙女ゲームであり、自分はそのゲームの中で主人公を支えるサポート役の友人だと。
そして思い出すと同時に理解した。
この世界は、貴族が戦うバトルアクションではないということを……。
「どうしましょう、私、勘違いしていたわ……」
弱々しい声でシルフィアが呟けば、ライオネルが不思議そうに顔を覗き込んできた。
それに対しても咄嗟に拳を握りしめてしまう。
この握った拳こそ、まさに勘違いの証である。