五話 ロウシンの日常?
鼓膜を震わす、低い不快な音。
よく聞けば多数の声のような、耳に響くそれが目覚めのきっかけとなった。
「……っ、んーー」
目を開き、のそりと身を起こす。
直後、ロウシンを襲う背中の痛み。顔を顰め、思わず背中に手をやる。
「…………」
鈍痛を堪えるように、目を瞑ること数秒。しかしその僅かな間に、背中の痛みのおかげで思い出すことができた。
己の身に何が起きたのか。己がどのような状況に置かれているのかを。
「……そうか、俺はーー」
ここで漸く、ロウシンは周囲に目をやる。
薄暗い、闇だった。自身の手すら、辛うじて形が見れる程度の、そんな暗さ。
正面、少し距離があるところに、壁にかかりぼうっと灯る松明。松明とロウシンの間には、木製の遮蔽物。
ーーいや、変に取り繕う必要も無い。それは間違いなく、檻だ。若干の粗雑さはあるが、木の檻。
ロウシンは、はぁっと息を吐き、額に手をやった。
当然場所は異なるがーーある意味、見慣れた光景である。それこそ、もはや数えるのをやめた程には、見慣れた。
つまり、自分は、ロウシン・バーンウィッスルはーー牢屋の中にいた。
「……しかしーー」
首を軽く左右に動かすと、ロウシンは立ち上がった。
ーー舐められたものである。
四肢は拘束されておらず、身につけたものも、依頼のため村を出た時そのまま。佩剣もまた然り。
特に何もされずそのまま檻に放り込まれたかのような、そんな感じだ。
更に言えばロウシンを捕らえた檻も、さほど頑丈そうなものでもない。いや、まるで檻として機能していないとまではいかないが、今のロウシンですらなんとかできそうな、そんな雑な造り。
まるで、何をやってもーーそれこそ脱出されようが問題無いと言われているかのよう。
「いや、まあ間違っちゃいないんだけどさ……」
自嘲するように、ロウシンは苦笑する。
逃げられたところで脅威足りえない。
そう判断されているのだとしたら、それはまあ正しい。
ただのオークならまだしも、あのブラッディオークに出てこられたら、剣があろうが瞬殺されるだろう。ただのオークにしても、洞窟内と思しきこの場所で複数で一気に襲われたら厳しいものがある。
その事実は、ロウシンも否定できない。
もっともそれはーー囚われていなければの話、だが。
と、ロウシンがそんなことを考えていた、その時。
騒がしい声のようなものが聞こえてくる方から、ドスドス、と足音。姿を見せたのは、くすんだ緑色の巨体--一匹のオークだった。
「ニンゲン、オキタ」
そのオークは、檻越しにロウシンの姿を認めると、低く唸るような声を上げた。
--あ、さっきから聞こえるあれは、オーク達の声か。
先ほどから時折反響して聞こえてくる、またロウシンの目覚めのきっかけともなった、音。
その正体をようやく理解して、ロウシンは納得したように二、三度頷いた。
そんな牢の中のロウシンの様子を、別段不思議に思うことなく。オークは何やらごそごそしたかと思うと、木製の檻の一部が開く。
「メイレイ、ツレテイク。オマエ、クウ」
どうやら、これからロウシンは餌となるようだった。
そういえばあの時、ブラッディオークもそんなことを言っていたか。
……だが、まあ。
どこか、他人事のように。
檻の中に入ってくるオークを、ロウシンは微動だにせず見据える。
……悪いけど、俺を囚えた時点でーー。
舐められているのか。或いはブラッディオークの存在に、今の状況に、生きることを諦めてしまっているとでも思われているのか。
緩慢に、無警戒に。オークが、ロウシンに近づく。
そうして、そのオークの手がロウシンに向けて伸ばされた、その時。
--お前達の負けだよ。
「それじゃ、まぁ……任せた」
唐突に。
慣れたように、気楽に。当たり前の如く、ロウシンはそう言った。
何も知らぬ第三者から見れば、誰に言ったのかも分からぬであろう、そのロウシンの発言。と同時に、ロウシンの顔が、ガクンと急激に力を失ったように伏せられる。
ほんの一瞬ではあるが、それに反応したかのように、オークは動きを止めた。
が、何も起きないことが分かると、すぐさま再びその腕が、のろのろとロウシンに向かって伸び。
その、人の何倍もある手が。ロウシンの身体に届かんとした、刹那。
「--うん、任された」
伏せられていたロウシンの顔が、上げられ。
その双眸が、オークを射抜いた。
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--ズドォンッ!!
何かの破壊音のような物音が、洞窟内に反響した。
その特徴ある低い唸るような声で騒がしくしていたのが、一転。屯していたオーク達は何事かと、その音が響いてきた方向を見やる。
それはこの洞窟の主にして、ここにいるオーク達のボスーーブラッディオークも例外ではなかった。
「何ダ……モシカシテ、檻ヲ開ケズニブッ壊シタンジャネエダロウナ?」
洞窟の奥にある、牢。
恐らく音の発生源であろうそこへと続く通路を睨み、不機嫌そうに吐き捨てる。
昼間に捕らえた、人間の男。
そいつを連れてくるようにオークに命令したのは、他でもない、このブラッディオークであった。
大きな物音から、数秒。
しかし、それ以降状況に進展は無く、まるで正反対に無音。
人間を手に、戻ってくるはずのオークが、戻ってこない。
「……オイ、ドイツカ適当二行ッテ、様子ヲ見テコイ」
苛ついた声で、ブラッディオークがオーク達に指示を出す。
慌てたように立ち上がるのは、牢への通路に最も近い所に座っていた数匹。
しかし、そのオーク達の足が進むことはなかった。
「モドッタ」
「モドッテキタ、モドッテキタ」
通路の奥から、件のオークが姿を見せたのである。
ようやく、命令したオークが戻ってきた。様子を見に行こうとしていたオーク達は、安堵の声を上げ、再び座りなおす。
--しかし。
確かに、オークは戻ってきた。が、それだけだった。
その手に人間の姿は無く、またオーク自体も何も言わず、何の反応もせず。ただ、立ち尽くしているだけ。
苛々が最上限に達したブラッディオークが、怒鳴り声を上げようと息を吸い込んだ、正にその時だった。
緑の巨躯がぐらりと傾きーーどうっ、と音を立てて前のめりに倒れる。
洞窟内のオーク達がざわめく。
倒れたオークのすぐ後ろに、捕らえた人間の男ーーロウシンがいた。
「チッ……サッサト大人シクサセロ」
されど、ブラッディオークは動揺することなく。
舌打ちを一つ、ぞんざいにオーク達に命令する。
実力は既に見切っている。否、その必要もなかった。
昼に、己を相手に全く何もーー抵抗一つすらできなかった、弱いゴミのような人間の男。
仮にその情報が無かったとしても。そも、強者特有の気配もなければ、外見的にも全く脅威足りえない。
故に、自分が動くまでもない。
オークの一匹程度であれば倒せる程度の力はあるようだが、数匹でも一気に向かわせればそれで終わりだろう。
「ニンゲン、ツブス!!」
三匹のオークが拳を振り上げて同時に襲い掛かるのを横目に、フンと鼻を鳴らす。
次の瞬間には、ロウシンが無様に地に伏している姿を確信して。
ーーが、ブラッディオークのその余裕も、そこまでだった。
崩れ落ちた影は、三つ。三匹のオークの巨体が倒れ、一斉に地面を揺らす。
対し、現れるロウシンはーー無傷。
「ナニ……?」
想定していた光景と、全くの真逆。
しかも、苦戦すらなく、瞬殺。
ここでようやく、ブラッディオークはまともにロウシンを見た。
だが、人が変わっているわけもない。昼に遭遇した時同様、ただの雑魚ーー。
--イヤ、違ウ。何ダ、コノ妙ナ違和感ハ。
一見すれば、恐らくその外見は変わっていないはずだ。
大したことのない、防具、武器。凡庸な見た目、体付き。とてもではないが、このブラッディオークに敵うはずもない、弱い人間。
だが、何かが違った。はっきりとはしないが、何かが、確実に。
「何ヲシテイルッ! トットトソノゴミを黙ラセロッ!!」
しかし、やはり出るまでもない。
この己が、上位の存在であるブラッディオークが。その程度の奴の相手になっていいはずがない。
その、驕りは。
「ギャアアッ!!」
その、余裕は。
「ボ、ボス……タスケッ……」
--…………。
やがて静かになる、洞窟。
つい先ほどまで、オーク達の悲鳴が、その肉が切り裂かれる音が絶えなかったのがまるで嘘のよう。
だが、地に沈む物言わぬオーク達の、その多量の骸が。それが現実であったことを証明していた。
洞窟内に数十といた、オーク。ブラッディオークの配下。
その全てが、全滅。
それが、ブラッディオークが動かずにいた結果であった。
「……使エナイ奴等メ」
その死屍累々たる光景を見て、ブラッディオークは唾を吐いた。
その胸中を占めるのは、怒り。
不甲斐ない配下への、怒り。この状況の元凶であり餌としてしか見ていなかった人間の男への、怒り。
そして、その程度に自分が動かなければならないことへの、怒り。
配下のオーク達の死に、一切の感慨など無かった。
「……オイ、ニンゲン。オレ様ハ寛大ダカラ、チャンスをヤロウ」
グツグツと煮えたぎる内心を、しかし最後まで抑えていたのはブラッディオークのプライドだった。
苛立ちを隠さず、しかし座したまま、ロウシンに向かって声をかける。
「今スグ、死ネ。ソウスレバ、惨タラシク死ナナイデ済ム」
何故、直々に動かねばならんと。
このブラッディオークを恐れ、生を諦め。歯向かうという無謀を恥じて自ら命を絶つのであれば、許してやると。
この時、ブラッディオークはロウシンが己の言うことに従うと、そう信じて疑わなかった。
彼我の力量差は明白。オーク相手に無双できたとしても、それだけだ。この身には到底敵うまいと。
だが、しかし。
動かない。手にした剣は勿論のこと、その腕も足も、何も。
恐怖に動きもできんか、とブラッディオークはそう考えた。
仕方ない、結局ゴミ掃除をするハメになったかと、その巨体を立ち上がらせる。
プライドがあったとはいえ、事ここに至っては仕方がないと。
宣告した通り、痛めつけて、このブラッディオークの前に立った身の程知らずさを嫌というほど後悔させてから殺す。
--ドレ、セメテソノ間抜ケナ顔デモ見テヤロウ。
その恐怖に固まった顔を見れば、多少なりとも留飲が下がるか、と。
ふとした思い付きでブラッディオークが目を向けた、その顔はーー。
--笑っていた。
引き攣った笑みではない。恐怖に気が狂っておかしくなった笑みでもない。
晴れやかで、これ以上ない満面の笑顔。
「……ゴミガァッ!!」
ブチリと音を立て、いよいよブラッディオークの怒りが、プライドを振り切った。
憤怒の唸りを上げ、一足を以てロウシンへと接近。
その剛腕を振り下ろす。
凄まじい衝撃が、洞窟中を揺らした。