明都の遊民
新都市都を舞台に織りなすキャラクターたちの群像劇。いざ、始まり始まり。
時は本初七年。所は新都明都においての物語。本初とは旧都東京から数え新都明都から用いられ、明都とは東海大震災の被害を被って、塵芥と化した都市名古屋の、不死鳥の如く敢然と蘇った姿。元は名都なる筈であったが、元よりの首都遷都計画好都合と相成り、名古屋は名実ともに明都へと転身を遂ぐる。
以来七年間。国内に紛糾あるものの、明都はその新首都として名に恥じず、世界都市の一つとして機能し続けて来たのである。
高き今様の建築物の下、人々はその明るい都の繁栄を酒神の酒だと思い込み、鼻をひくひくさせ、愚かにも舌で舐め、ごくごくと飲み干し、哀れなまでに酩酊し続けていた。
そのような酔っ払い達を、極めて冷めた目で、都心の高層建築のある一室から見下ろす麗人がいる。
かの人物は椅子に座って、一本足で自らを支える小さな銀色の丸テーブルに肘を着いた女である。夜の闇にも似た、濡れ烏の羽の色をした髪を肩の下まで伸ばし、着こなす服は対照的に白い。大地へと舞い降りる新雪の如き長衣を羽織り、その下には襟首まで確りとボタンのつけられたワイシャツが溶け込む。履いている物は再び黒へと立ち返り、膝の辺りまで丈のあるスカートを履いている。
彼の女は右手に持つ一本の煙草を口に咥え、燐寸を擦って火を点けた。硫黄の匂いが鼻を掠める。吹き出した煙は掛ける銀縁の眼鏡の前を昇って行った。
「ふむ、問題だな。闇を怖れる気持ちは理解できるが、その闇から逃げおおせれぬことを何故承知できぬか。この点は極めて首肯しかねる」
誰にともなくそう云って聞かせた。彼女の言葉は誰にも向けられてはおらぬ。然し、誰にも向けられておらぬ事は同時に誰をも指し得る。
彼女の名は猫眼真名。そうして遊民を自称する一市民である。
その遊民を自称するだけあって、仕事という瑣末な事から一切解放されている。にも関わらず、悠々と暮らすことが可能なのは財産があるからであり、その財産のために、大学を出て社会に出た途端、社会にいる必要が無くなった。学友は研究室に残る事をすすめたが、それに対して猫眼は淡々とそれに答えたのだった。
「昔、本業は怠ける事が出来るが、趣味は追求せねばならないと説いた文章家がいる。私は全くその通りだと思うね」
そうして、彼女は暇を持て余し、無事趣味に没頭している。猫眼の趣味は概して哲学と呼ばれるものだが、猫眼の取り扱う領域は単なる哲学書には止まらぬ。古典的な文学、古今東西を問わぬ文書。果ては奇書珍籍と呼ばるるまで、即ち、書物と云う書物が彼女の範疇により取り扱われる。
猫眼を知る者は彼女を奇人、変人の部類と評す。かくして、猫眼自身は自らを遊民と称すのであった。
「遊民と云うは相応しくない。ここまですれば、漱石の云った高等遊民の部類だろう」
猫眼の父は娘の事を斯様に評する人物であった。猫眼が自称する遊民として在る事に差し支える事柄は唯の一片も無い。
煙草を一本吸って、灰皿に押し付けた時、誰かが鍵の掛かった扉を開けて、玄関に上がり込んで来た。
「猫眼さん、今晩は!」
元気溌剌たる一女子の声が猫眼のいる部屋にまで届く。彼女は一寸一刻の時も惜しむようにして、ばたばたと足音を立てて部屋に掛けつけた。
「きゃーッ、猫眼さん、お久しぶりッ」
彼女は椅子に座っている猫眼に後ろからひしと抱き付く。猫眼は猫眼で冷然と、
「久し振りと云っても、昨日も一昨日も、一昨昨日も会っているではないか」
と切り返す。
「駄目ですッ。私は猫眼さんに会わないと寂しくって死んじゃうんですから」
彼女は猫眼にべったりとくっついたままそう云った。
「兎の変種か、お前は」
猫眼は再び煙草に火を点けて吸い始める。
あどけない面立ちで、ショートカットにした髪に、デニムのパンツにフリルのついたシャツを着た、彼女の名は、姫上那古。職業に就くことの厳しい御時世において、御多分に洩れず、アルバイトによって収入を得たるフリーター。然も然も、選ぶアルバイトというアルバイトが彼女の性質に合致せぬのか、はたまた彼女がそういう性質なのか、不思議とどれもこれも長続きした試しは無い。昨日はウェイトレス、今日はレンタルビデオ店の受付、明日は食い物屋の洗い場、とまでは云わぬが、それに近い様相を呈す。
猫眼と姫上の関係は古いものではない。
一月程前、姫上が路上で、誰にでも噛み付くという奇癖を持つ変人に襲われそうになっていたのを見咎めた猫眼が、すかさず彼の変人の腕を引っ掴み、そのままぶん投げて地面に沈めたのがきっかけとなる。その勇姿を見た姫上はすっかり猫眼に参ってしまい、傍から見たらストーキングとも取れるような行為を執拗に行い、到頭合鍵まで勝手に拵えて、毎日のように会いに来るようになったのだ。
流石の猫眼もこの行為には些か閉口したが、別段、害にはならぬと判断したのか、姫上の行き過ぎた行為を放っておいている。
「私は、レスボス島の詩人の真似事はしないぞ」
これは姫上が勝手に合鍵を作って部屋に上がり込んで来た際に、猫眼が云った言葉だった。それを云われた姫上は自信満万に、きっぱりと答えた。
「大丈夫です。私も詩は作りません!」
猫眼は俄かに頭が痛むのを感じたが、それは煙草を吸うことで誤魔化した。
そのような事を取りとめも無く思い出していると、突然、姫上が猫眼の煙草を持っている腕を掴んだ。
「あ、危なかった・・・・・・」
「ん、どうした?」
猫眼はわけの分からぬままにきょとんとして、姫上を見る。何時の間にか、煙草は姫上の方に向けられていて、危うく彼女に押し付けられる所であった。
「猫眼さん、わざとですか?」
「ああ、悪い悪い。無意識だ」
「本当に?」
「本当だ」
これは猫眼が煙草を吸い始めて、何時の間にか身に付いた悪習である。一人の時は差し障り無いのだが、人といるときに煙草を吸っていると、何故かしら人に煙草を何時の間にか押し付けていると云う、周囲の迷惑極まりない代物である。自身まるで気にしていないため、それが拍車を掛けて今まで被害を甚大なものにしてきた。
姫上も一度だけ押し付けられた経験があり、肌は無事なものの、その際着ていた服に穴が開いて台無しとなってしまった。以来、猫眼が煙草を吸う時はやや距離を置いて、全神経の七割方を動員して煙草に目を向けることにしている。
「そんなに警戒するな。痛いだけで別段、生命に支障があるわけではあるまい」
「痛いのがイヤなんです。猫眼さんに逢うために用意した服もいたんじゃいますし・・・・・・」
道理だと思い、姫上の言葉に頷きつつも、全く反省などしていない。
詰まるところ、猫眼真名と云う女性はそう云う女性なのである。
姫上ももう諦めているので、それ以上は何も云わずにじっと猫眼を見詰めている。
「で、お前は今日は何をしに来たのだ」
「何って、猫眼さんに逢うのに理由はいるんですか? 私は猫眼さんを眺めているだけで幸せ一杯なんです」
双の眼をハートマークにして熱い秋波を送る姫上に猫眼、身震い。
「恐ろしいことを云うな。お前は私の寿命を削る気か」
大袈裟に両の手で自身を押し抱いて震える体。
「そんな、寿命を減らすような真似事猫眼さんには決してしません!」
誰になら寿命を減らすような真似をするのかは、猫眼は存外興味などない様子、吸っていた煙草を消すと椅子から立ち上がって、
「私はこれから本を読むことにするから。お前は適当に帰れ」
「えーッ。猫眼さんのいけずー」
拗ねる姫上を後にして、猫眼はとっとと書斎の方へと引き込んでしまおうとする。姫上は姫上で猫眼を引き止めようとして、書斎まで追い縋りながら急いで話題を拵えようと尽力。
「今日、店長がですねー…・・・・・」
「愚痴るなら壁に向かっていろ」
「そう云えば、店に強盗が・・・・・・」
「それはご苦労」
「ああッ、知ってます? 俳優の・・・・・・」
「どうでもいい」
「猫眼さん、私、新しい物真似が出来るように・・・・・・」
「知らん」
「そう云えば、今から面白いアニメがやりますよ。一緒に見ましょう! ジャイアント・ワキって云うんですが!」
「……」
姫上の努力、瞬く間に塵芥と帰し、猫眼は一向構う事無く歩いて行く。やがて、二人は書斎の前にまで辿り着いた。扉には対姫上用に、「騒いだら、大変なことにする」と、下手な脅迫のような文章が書かれた一枚の紙が、無雑作に貼り付けられている。従って、この書斎に入られれば姫上とて、「大変なこと」と云うのが恐ろしくて、おいそれとは手を出せぬ。
「うむ、扉にもあるが、邪魔をしたら本当に問答無用で凄い事をするからな。後、出て行く時鍵は締めて置くように。ではな」
バタンと扉は勢い良く閉じ、猫眼は一人書斎へと入る。残された姫上は暫く名残惜しそうに扉を見詰めていたが、その内諦めたのか、とぼとぼと力無く奥の部屋へと戻って行った。
翌朝、猫眼が眠そうな目を擦り上げながら書斎を出て、さて、これから惰眠を貪ろうと思いつつ寝室に向かうと、ベッドの上には先客がいた。何時も眠っているベッドで厚かましくも主人の代わりにぐうぐうすやすやと寝息を立てるは、他に誰あろう、姫上那古。
「お前は何をしているのだ…・・・」
時たまむにゃむにゃと、猫眼さーん、などとおぞましいとしか形容の出来ぬ寝言を云いながら、安らかに眠り続けるのを見て、呆れ果てて叩き起こす気も失せる。一つ蒲団に眠るわけにもいかぬので眠る事をきれいキッパリと諦め、煙草を吸うため居間へと歩いて行った。猫眼が寝室の扉を閉めた時に、丁度姫上の携帯電話がモーニングコールを鳴らし始めたが、姫上は余程良い夢を見ているらしく、そのまま眠り続けていた。
睡眠時間は消失したが、そのような瑣末な事は捨て置いて、猫眼は起きた通りの日課を行っていく。まず、寝起きの一服。その後で、シャワーを浴び、浴室から出て衣服を改め、ドライヤーで髪を乾かした後、漸く食事を摂る。猫眼は基本的に肉を食べない。故に、冷蔵庫には野菜以外にはドレッシングぐらいしか入っていない。
猫眼は冷蔵庫の中から適当な野菜を選ぶと、それをざあざあと水で洗って、包丁で切ったり千切ったりして小さくして皿の上に載せ、ドレッシングを適当に掛けると居間に持って行った。そして、テレビをつけて、適当にチャンネルを合わせると、椅子に座って、
「いただきます」
と、手を合わせ、沸かしておいた紅茶を飲みながら、フォークでサラダをつつき始めた。テレビは取り留めの無い、下らない事を延々と放送し続けている。チャンネルを回しながら、いつも見ている番組がやっていないなあ、トちらと疑問を起こしかけたが、根本的に時間帯が異なることに気付き、止めていたフォークを再び動かし始める。
レタス、人参、アスパラ、セロリ、その他諸々の野菜の入ったサラダを食べていると、「変死体が見つかりました」と、緊張すべき台詞が和やかにテレビから流れてきた。猫眼は、はっとしてテレビの方を見る。
「昨夜未明、明都において、首の無い女性の死体が路上で発見されました。財布などの金品が盗難にあっていなかったため、身元が確認されました」
ここで、当今流行の、昔風の結綿を結った女の顔が写される。年齢は十九とある。
「・・・・・・ふむ」
猫眼は一人頷く。
「小川美恵子さん、十九歳。小川さんは一昨日の夜から行方が分からなくなっていました。当局では、金品が盗られていないことから金目当ての犯行では無く、また、殺害の方法などから見ても、怨恨の筋であるとして、小川さんの知人ではないかと捜索を始めていく模様です。なお、切断された首だけは未だに見つかっていません。現場に夥しい血痕が残っていたことから、路上での犯行だと考えられています。凶器は今の所分かっておりません。では、次のニュースです……」
猫眼は最早食べる手も、見る目も止めて、思索を凝らし始めている。
金品が無くなり、首だけが持ち去られた。これは何を意味するか? 結論に到るのは至極簡単。例え、身元を不明にする目的であったのならば、首など落さずに顔を傷め付ければそれで事足りる。それに、指紋で身元の鑑定の容易なこの時勢。身元を隠すなら手首も無くなっていなければおかしい。首を落すほど念入りであるならば、金品の行方を晦ますことを怠ることはまずあるまい。
そうであるならば、怨恨である可能性は無くなる。首を落す必要性が皆無なのだからな。では、犯人の目的は何か。
「・・・・・・首だな。犯人は首に一種のフェティシズムを持ち合わせた、変態性欲を有する者であると見て大体の間違いはあるまい」
誰も聞いていないのに、何やら物凄い事を呟いている。もっとも、誰か聞く人物がいたとしても猫眼は調子も言葉も違えること無く、全く同じ事を云っただろう。独り言は終らぬ。
「そうだとすると、今聞いた限りでは当局の方針は検討違いも甚だしい所だ。恐らく、犯人はこの行為を連続して行う。何せ、この夏は非常の猛暑。冷蔵、冷凍にて保存してもたかが知れている。故に、切断された首は数日の間に強烈な腐臭を放ち始めるだろう。これは中々興味のある事柄だぞ。こうしてはいられない」
食べかけていたサラダにラップを掛けると、冷蔵庫に確りと仕舞い込み、財布などの小物の入った、黒きハンドバッグを手にして駆ける様に家を飛び出して行った。