1 はじまり
高校からの帰り道、私は進路をどうするか決めかねていた。
カウンセラーを目指して心理学を学ぶか、図書館司書を目指して文学科のある大学に行くか。
人の心の支援をしたいという気持ちはあった。同時に、本という静かに世界で働きたい気持ちもある。
『読書セラピー』というのもあるので、心理学の道を目指しつつ、『本』で人を癒すという方向もアリなのかもしれない……などと考えていたら、私の耳に子供の叫び声が飛び込んで来る。
「たすけて……!!!!」
声のした方を見れば、土手の下の川で子供が溺れていた。子供の近くに、黄色いボールが浮いている。ボールを取ろうとと思って桟橋か落ちてしまったのだろう。
私は持っていた鞄を投げ出して、一目散に子供の元に走った。
そして何も考えずに飛び込んだ。
ジャボンと入った川の中で、制服の紺色のスカートが広がる。まとわりつく服を引っ張りながら、私は子供の元に泳いでいった。泳ぎはあまり得意ではなかった。けれど、今はそんな事、関係なかった。
子供の元にたどり着くと、子供が私の体に縋りついて来る。一人浮いているだけでも大変なのに、溺れた子供は私に必死にしがみついて来た。私は一緒に沈みそうになりながら、死に物狂いで掴まる子供を引っ張って桟橋を目指した。
「ぜぇ、ぜぁ、はぁ!!」
何度も水を飲みながら、髪を乱して桟橋の足元にたどり着き、桟橋の足にしがみつきながら、子供を桟橋の上に戻した。子供は桟橋の上に手を伸ばして、私の肩を踏んで上に登った。子供が桟橋の上にあがったのを見て、私はホッとした。同時に私の全身はずっしりと重くなり、両足が動かなくなった。足がつってしまったようだった。私は桟橋に手を伸ばす。指先をかけて、そこに上がろうとする。けれど、手にうまく力が入らない。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
頭の中を、コレまでの人生と、コレから先夢想した人生が流れいく。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
母に抱かれてコスモスを見た事、父と縁側でスイカを食べた事、友人達ともみじを拾った事、淡い恋をした事。
カウンセリングで人の話を聞く事、良い本を探し、それを人に勧める事。そして、それで患者さんが元気になってくれる事。
一瞬で頭の中を駆け巡っていく思い出と想像達を見た後に、力の入らなくなった指先は桟橋から手を離した。
体は水の中に落ち沈んでいく。
もがいてみたが、手だけでは上にうまく浮上する事はできず。私は泣きたい気持ちで、口から空気を吐き出した。そうして、暗い水の底で水を飲み込んだ。
***
私は私の葬式に参加していた。
喪服を着た親戚達が、泣きながら私の棺桶を覗き込んでいく。
『これからもっと楽しい事があっただろうに……』
残念がる声と、
『がんばってね、がんばってね、偉かったね……』
私を褒める声。
その言葉達を聞きながら、私は棺桶の横で俯いていた。
自分で選んだ事ではあるが、死んでしまった事が申し訳なかった。
小さな子供を連れた若い夫婦が棺桶の前に立つ。
『ありがとうございます、ありがとうございます……おかげでウチの子供は助かりました……本当にありがとうございます……』
夫婦は、私の両親にも頭を下げる。
私の父と母はそれを静かに見ていた。
『……どうか、ウチの子の分まで長く生きてください。幸せに生きてください……』
母は悲しそうな顔で、けれども全てを受け入れた様子で、小さな声でそう言った。
子供は困った様子で私を見た。
私は、小さく笑みを返した。
私が死んだ後、母は気が狂うように泣いた。
泣いても戻って来ないとわかっていながら、母は泣き続けた。
『どうして死んだの……どうしてあなたが、死ななければいけなかったの……!!』
母の慟哭を聞いて私は胸が張り裂けるような気持ちになった。そんな母を父は隣に座って慰めた。
葬式を終えて、四十九日を迎えるまでの間、母は何度も泣いた。けれどそれも次第に収まっていき、母は私の位牌に笑みを浮かべるようになった。
『がんばったのよね……そうね、偉かったね……』
母は幸福そうにそう言った。
『ごめんねお母さんが引き留めて……次はもっと長く生きれるように生まれて来てね……私の娘に生まれて来てくれてありがとう……』
母のつぶやきを聞いて、私は重かった全身がふわりと軽くなるのを感じた。
そうして上を見ると、暗かった天井に光が差している。
その光の梯子を上って行くと、私は空の上にやって来ていた。
黄金色に輝く空には、私と同じ光達がいくつも集まって来ている。そして、大きな光の中に入って行っていた。
私もその光の中に入って行こうとした時に、『助けて』と誰かが呼ぶ声がした。
切実な哀願の声に引き寄せられて、私は光の輪から抜けて飛び出した。
つづく