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私の恋は、流夜くんとの一つだけでいい。
十五歳の春、婚約者が出来ました。
相手は学校の先生でした。
まあ、あれですよ。政略婚約。みたいな。
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「華取さん。またやりましたね」
「うっ……」
テスト返し。教科ではないが咲桜の苦手な教科第一位だ。返ってきたテストには、紅い字で『名前を書きましょう』の文字。……何度目だろう、これ……。
「自分の名前千回書いてくる宿題でもいりますか?」
「……自主的にやってきます」
「頑張って下さい」
にっこり、副担任で歴史科の教師に言われて、咲桜は頭を抱えた。
咲桜を見て苦笑するクラスメイトたちに、やはり苦笑いを返して席につく。
「咲桜、また名前書き忘れ?」
前の座席の笑満に言われ、咲桜はしょんぼり肯いた。
「うん……」
「神宮先生だからいいけど、他の先生だったらキレてるよ?」
「……うん」
実は。
もう神宮先生はキレています。
咲桜はそれがわかっているから、らしくもなくおっかなびっくりな態度です。
「咲桜」
眼鏡のない声に呼ばれ、咲桜はびくりと肩を震わせた。
「りゅ、うやくん……」
「お前、テスト期間中はここに来るなって言ったけど、来ないと自分の名前も忘れんのか?」
「……申し訳ありません」
本当に申し訳がないし申し開きも出来ないので、謝る。流哉は軽く息を吐いて、咲桜の顔をあげさせた。怒りなんかなくて、むしろ呆れしかないといった感じだ。
「お前が俺の心配して飯作りに来てくれるのはありがたいし助かっているけど、そういうことに時間を取られてお前の成績に関わっては俺が在義さんに申し訳が立たない。……やっぱり早目に切り上げておくか?」
流哉の思案気な提案に、咲桜はがばりと顔をあげた。
「いやっ! 私が流哉くんのご飯作るのと婚約は関係ないので、そのままでお願いします!」
――と言うか、断ったらまた別の縁談を持ってこられそうなので、お互い利害が一致しているこのままの状態が一番安全だと思う。面倒くさいから。
「……咲桜がそう言ってくれるなら、俺も面倒が増えなくていいんだけど……」
呟き、まあ座れよ、と咲桜を促した。
場所はアパートの一室、神宮流哉の居住だ。
咲桜の家は歩いて十五分ほどのところなので、咲桜は出来るだけご飯を用意しに来ていた。さすがにテスト期間は出入り禁止とされていて、今日全教科のテストが却って来たので咲桜もここへ復活したわけだが。
「お前、よく藤城入れたよなって思っちゃうんだよ。悪いけど」
「私もそう思う。笑満や頼に置いて行かれたくなくて必死だったから、あんときは」
流夜に勧められて、自分で淹れた紅茶を飲む。流哉がコーヒー派でそれしか置いていなかったのだが、いつの間に気づいたのかキッチンに紅茶が置かれるようになっていた。流哉は、「それ咲桜用だからすきに使え」と言ってくれる。せっかくなので使わせてもらっている。さすがに咲桜も、建前上は婚約者と言っても、他人のキッチンに自分しか使わないものは置けない。華取の家でよく飲んでいるのでも見たのだろうか。
「日義と松生に感謝か。……微妙なとこだけどな」
「うん? 何か?」
「いや、なんでもない。それより咲桜、今回点数あがっただろ。勉強したか?」
「したよ!」
咲桜は、ここぞとばかりに言い募った。
「だって赤点取ったら流夜くんがここ出禁にするとか言うから、小説休んで笑満と頼と図書館づけになって頭がほうわげんかい」
――しているのはよくわかった。テストが終わったことで覚えた単語が全部吐き出されないことを祈るばかりだ。
「小説、休んだのか」
少し意外そうな声で流夜が言った。
「うん。今回はやばかったからね。笑満も頼の写真も、みんなお休みにした」
「まー、テスト前の学生の正しい臨み方だよな」
「いや、ほら《満桜》って基本一人って体でやってるから、ぶれがあるのもおかしいかなってことで」
「素直に勉強しろよ。……なら、もう再開するのか?」
「うん。帰ったら作戦会議するんだ」
「それでまた勉強を忘れていくと」
「うっ……忘れないように頑張ります……」
咲桜はまた小さくなった。かなり反省しているときの顔だ。それを眺め、流哉は満足する。
一生徒が教師の部屋に通い食事の用意をして、更には咲桜用のマグカップや嗜好品まで置いてある現状――二人は婚約者という立場にあった。ただし、お互いの利害一致による偽婚約だった。