VIII. 眠れる羊
闇の向こうから荒い呼吸が聞こえてくる。少女と少年のあわいのような、どちらとも判別しがたい高さの呻きを漏らしながら、ぜぇぜぇと喉を鳴らしている。
探らずとも居場所は容易くわかる。
廊下の角を曲がれば、そこにしゃがみ込む少年がいた。
「香月」
ぐったりと壁に寄りかかった、黒い塊が身じろぎする。聞こえてはいるのだろう。フードの奥から、金色の瞳がチラチラと覗いては隠れる。全身で呼吸する少年は、なんとか顔を上げようとして、そのたびに咳き込んでうつむくのだ。
「私が言ったことを覚えているかい?」
少年の唇がふるえて、しかし言葉は漏らさないままに、また一度。咳とともに、わずかな血が飛んだ。身体的にも精神的にも限界だろうに、まだ強情に口を噤んでいる。
「日に一度。それも、ごく軽い使用が限度だよ。お前のそれは、人の身に収まる能力じゃあないからね。器として不十分ないまのお前には、それでも毒になる」
げほ、と一際大きく揺れた少年の身体が、床に倒れる。
「まったく、無茶をするものだ」
ため息をこぼしながら、身体をくの字に曲げて咳き込みつづける少年に手を伸ばした。フードの中に差し入れた手のひらを肌に触れさせれば、異常な発熱に指先が燃えるようだった。
「私の声が聞こえるね? 戻っておいで。そのままでは喰らわれるよ」
ささやきながら、すべらかな頬に指先を密着させる。フードを外せば案の定、金色の髪があらわれた。発動状態を解除するだけで楽になるだろうが、まとめて制御装置を崩壊させた反動で抑えがきかなくなったのだろう。触れた肌に意識をあつめて、荒れ狂う気を鎮めさせるよう働きかけていく。
苦悶の表情がゆるみ、すこしずつ輝きの薄れかけた金眼が、ぼんやりと私の姿を捉える。
「……か、……さ……?」
うわごとのように呟かれた言葉に、喉奥から笑いが漏れた。
「いいや、私はお前の母に似ているかい?」
「……わか、……ない」
「そうだろうね」
ゆっくりと髪が自然な黒に、そして瞳は青灰に染まっていく。人間離れした金の虹彩が消えるだけで、とたんに印象が幼くなる。
「すぐに私を頼ればよかったものを。そうまでしてあの子を避けたかったのかい?」
返答はない。唇を噛んだ、あどけない少年の瞳が、隠しきれない憎悪に揺れた。この子の顔は言葉の数倍素直だ。白い肌に大きな瞳、性別を疑うような可憐さ――面影はよく似ているのに、こういう可愛げは兄や母の持ち得なかったものだ。
「香月唯十」
あらたまって名を呼ぶと、少年はばつが悪そうに目を逸らした。
「光が影を羨むもんじゃないよ……選ばれた者も選ばれなかった者も誰一人救われない、そういうことだってままあるんだ」
なにも知らない幼い光。闇のなかで存在を主張することしかできない、哀れな羊。
「お前には見えないよ。いまのお前には、なにも」
どこまで声が聞こえていたのか。うつぶせた少年の肩から力が抜けて、こくりと頭が落ちる。
いつか、気づくだろう。流れる血を消せないかぎり、必ず運命に囚われる。
そりゃあ似ているだろうさ。鏡を覗きたがらないキサヤは気にしたことはないが、あの中性的に整った美貌は、まるで海影に生き写しなのだから。父親の面影など、ほとんど残っていやしない。この兄弟は、そろって母親に似ている。……まったく、厄介な種を残してくれたものだね。
記憶が紐解かれる日を思い、そっと溜息を吐いた。
床に倒れこんだ少年は、なにも知らぬままこんこんと眠りつづける。いまは、まだ。いずれ己の力で鎖を断ち切る日も訪れよう。そのとき香月は、なにを思うのか。はからずも選ばれた兄を憎むだろうか。
フッと、口の端がゆるむ。
「私は憎んだよ。憎みながら安堵した。どうしようもなくねぇ――」
瞼の奥に隠れた青灰の鏡を思うだけで、胸の底から湧き上がる感情に、じりじりと内側から灼かれるのだ。いまでさえも。
音もなく近づいてくる慣れ親しんだ気配に、頃合いを見計らって、声をかける。
「終わったのかい?」
背を向けたまま投げかけた言葉に、苦笑が返された。
「ええ、まあ。納得はしていないようですが、とくに反抗もされず。ろくな会話もないまま自室に籠られてしまいました」
「そうなると踏んだ上での茶番劇だろう?」
「俺を貴女の悪趣味と一緒にしないでください……【華月】を引き取ります」
気を失ったまま横になる少年に、さっと目線を落とした男――赤木千歳は、脱力した身体を持ち上げた。
こうなることを見越した上で、あえて回避しなかった負い目があるのだろう。香月が目覚めれば憤怒しそうな姿勢で、華奢な少年を丁寧に抱き直して、千歳は踵を返した。
香月は、キサヤの存在に気づくなり、脇目も振らず特別室を飛び出していった。制止を振りきって、ではない。あのとき、千歳は引きとめようともしなかった。無理をしていることはすぐにわかったろうに、――大事に至らないことまで計算していたとしても、過剰なほど身内に甘い男にしてはめずらしい判断をしたものだ。
「それで、望んだ結果は手に入れたのかい?」
「最良かどうかもわからない可能性のために現実を壊す気はありませんよ」
足を止めて律儀に答える男の声には、かすかな自嘲が滲んでいた。
「おかげさまで危機回避が習慣づいてますから、読めないリスクは極力排除しておきたいというだけです」
笑っているのだろう。きっと、底を見せない曖昧な微笑を貼り付けて、なにもかもを遠ざけるように。優等生な模範解答をシャアシャアと口にする詐欺師の背中に、いまひとつ問いを投げかける。
「千歳。お前の眼にあの子はどう映った?」
「……似ていますね」
肩越しに振り返った千歳は、うっすらと笑みを浮かべていた。
「ツキと、それから、昔の貴女にも。とてもよく似ている」
燃え盛る氷のような眼差しを、わずかに細めながら。見てくれだけは穏やかに、奥にひそめた鋭い刃を、ほんのわずかだけ覗かせるような笑い方をするようになって、そろそろ五年が経つ。
「まったく、いい眼だよ」
「お褒めいただき光栄です」
スッと頭を下げて、遠ざかっていく凛とした後ろ姿を、しばらく無言で見送っていた。あれは私の知るなかでも一二を争う詐欺師だが、天性の詐欺師ではなかった。それがどうだ。出会った頃の、人が良く詰めの甘かった少年の面影など、最早どこにもない。
弟のように可愛がっている香月を利用してまで開いた道の先に、なにも見えていないということはないだろう。必要と判断された通過点は【首輪】の破壊か、【揚羽】の挑発か、あるいは香月を追い込むことそれ自体か――。
「時の流れは人を変える……良くも悪くも、不変にいられるものなどない……そうだろう? 姐さん」
約束の果たされるべき時は、そう遠くないのかもしれないね。