VI. 虚ろなる美
黒塗りの二枚扉に手を伸ばす。古びた木版を叩こうとして、淡い光の漏れだす隙間に気づいた。――認証が、解かれている?
そのまま扉に力を込めると、抵抗もなく内側に開いていった。最高峰のセキュリティが施されているべき貴賓室にも関わらず、この部屋では内鍵さえも機能していないことがままある。不要、なのだろう。彼女の前には、先端技術の粋を凝らした生体認証さえ、産業廃棄物に等しい。
大窓からは、変わらず月光が降りそそぎ、正面に座す女を妖艶に照らしだしていた。
似合いもしない『養母』という立場にいるこの女について、過去も現在も、俺の知る情報はほとんどない。けど、……ひとつ、確信していることがある。
おそらく。人ならざる異能を宿す道化たちの女主は、彼女自身もまた、道化のひとり。それも、『気』を読むことに長けた能力者だ――。
黒檀のデスクに両肘をついた柘榴は、いつまでも入室する気配のない俺を、クツリと笑った。
「――おいで、キサヤ」
ゆるりと手招かれれば、条件づけられた犬のように、ふらりと身体が前に出る。逆らうことは、とうに忘れた。……考えたことすら、なかったのかも、しれない。
デスクの正面に立った俺を迎えて、柘榴は満足げに口もとを綻ばせた。
「どうだい? clownの殺しは」
「べつに……」
窓の向こうにつづく闇へと視線を流しながら、生返事する。
「なにも変わらない」
いまさら感じることなどない。さっさと退室してしまいたい。
この女はたしかに美しい。歳を重ねるごとに美しさを増していくようにさえ思える。ただし、花は花でも、好んで視界に入れていたいとは思わない、胸糞が悪くなるような毒花としての美しさだ。
「ほう……お前は【揚羽】と気が合うかもしれないね」
「あげは?」
「飛んで火に入る夏の虫さ」
わずかに目を細めた柘榴が、机上に散った書類の束を指差す。コツ、とつま先で弾かれた写真に映る男には、どこか見覚えがあった。革紐らしきもので括られた人工的な金髪を胸元まで垂らした、若い男。見るからに軽そうな印象を、陰鬱な影を沈めた瞳が裏切る。――狂気の一歩手前、いや、超えた先? どちらにしろ、マトモではない。
「【紅炎】を追いかけてきたんだよ、あの子たちはね。近づくほどに焔を追いつめる氷雪と、我が身をかえりみもせず愚直に飛びこむ蝶――まったく愚かだねぇ」
吐息まじりに、柘榴が語る。
あの子たち、……はじめて二枚目の写真を認識した。セミロングの髪を肩に流した、こちらは若い女。無表情に撮影者を見つめる瞳からは、まったく感情が読めない。――割りきった眼だった。わが身の置かれた環境を受け入れながら、意思の強さは失っていないらしい。
対照的な二人……【揚羽】と【氷帝】の姿を見下ろしていると、鋭いベル音が響いた。
――非常サイレン?
「お前が気に留めることじゃないよ。すこしばかり道化が戯れているだけのこと」
「緩んでんじゃないの」
「それでいいんだよ、道化は――いつまで顔を隠しているつもりだい?」
被りっぱなしのフードに伸ばされた手を見て、とっさに身を引き、――直後に舌打ちした。
目立った反応を見せるな。この女の前では、なにひとつ感じていないように振舞っていなければ、手玉に取られるだけだとわかっているだろう。
言葉なく催促する強いまなざしを受け、あらためて前に出ると、柘榴は席を立って隣に回り込んできた。ひとつひとつの所作が艶かしい。彼女ほど、硝煙と血糊と――そして月の似合う女は他に知らない。
ハイヒールが絨毯に沈むたびに、匂い立つような色香が漂う。毒蛇が這いずるような語り口が、執拗に耳を侵してくる。
「お前は、いまだに鏡を見ないそうだね。彼女の面影は、それほどに憎いかい?」
「……」
「生き写しだものねぇ、お前も、【華月】も」
「……うるさい」
なにも、心に浮かべるな。手にすれば奪われるだけ。離すまいと抱えこめるほどの執着など、俺にはないのだから――。
深くフードを被りなおそうとした手を掴まれる。振りほどく前に、力が抜けた。
「お前が殺した、海影に」
ミカゲ。雪。銃口。震え。赤い雪。赤い静寂。赤い。赤い。赤い。終わりを照らした、月明かり――。
フラッシュバックした情景に音はない。
一面の雪景色。うつぶせに埋れた女の身体。散らばった長い黒髪。刻一刻と広がっていく、赤。
反動の還らなかった拳銃。
凍てついた大気を震わせた銃声。
女は笑った。風に踊った髪が顔を隠す。その合間から、ブルーグレイの瞳が鮮やかに輝いていた。美しい女だった。柘榴とおなじ、毒々しくも華やかな女だった。
赤い口紅に彩られた唇が、ゆっくりと開かれ――。
「あの子はお前を憎んでいるよ」
幻が崩れて、その奥から毒蛇のような女が現れる。
「それが、……なに」
「いいや」
身動きが取れずにいるあいだに、フードは外されていた。さらけ出された銀髪を柘榴の手が掬う。まちがっても瞳のブルーグレイを見たくなくて、間近に迫った黒珠から視線をそらした。
「お前は美しいね」
『海影の旧友』を名乗る歳には思えない滑らかな指先が、するりと頬を撫でていく。嫌悪感を殺し、逆らわずに身を委ねた。拒絶にも意味はない。なにもかも、無意味。受け入れることもなく、ただ受け流してしまえばいい。
無表情をつらぬく俺に、柘榴はフゥ――と息を吹きかけて、また身を離していった。あまりにも芳しい、毒花の香りに吐き気がする。
「完全なる美とはなにか、わかるかい?」
答える気にもなれず、黙り込んだまま柘榴の背を睨む。
最奥の大窓へ手を滑らせた柘榴が、ガラス越しに表情を消したのが見えた。
「――『無』だ」
それは、あまりにも淡々とした声だった。ほんとうに彼女の言葉だろうかと目をみはらずにはいられないような。
「無……?」
「いかなる人の造形も届かない至高の美。心を持たない人形ほど美しく見えるものはないよ。親愛、友情、恋慕――『生』など、完全性を損ねるまがいものにすぎない」
月光を受けて伸びる柘榴の影に、足元から全身を絡めとられるような心地がする。
なにを考えている? なにを見ている? 俺を通して、いったい、あんたは誰を――。
「捨て去ろうとしても捨て去れない人の醜さを、はなから持ちあわせていない虚ろな鏡……お前は、私の知るなによりも美しいよ、キサヤ」
哀愁すらも感じさせるような声に重なって、制御装置の起動を告げる業務連絡が、扉ひとつ隔てた廊下に響いた。
なにを。
腰に携えた【SCAR】が、不意に重さを増したように思えた。――スクイヲ。斬り捨てた男の声が蘇る。すべての執着を捨て去った境地のような声を、最期の一瞬に響かせた男。
やめろ、俺はなにものでもない。
くだらない悪魔信仰につきあわせてくれるな。この身は、ただの殺戮人形だ。言われるがまま、機械的に標的を屠りつづける生物兵器だ。俺に意思は無い。俺の意思を握りつづけたお前が、なにを。
「話は終わってないよ」
断りなく退室しようとした気配を読まれたのか、――あるいは心を読まれたのか。動かしかけた足を止めると、普段どおりに妖艶な笑みを貼りつけた柘榴が、脇をすり抜けて戸口に向かっていった。
「これでは、迎えがいつになるかわからないからねぇ。こちらから行こう」
「……あんたは【紅炎】に甘すぎる」
「あの子には甘すぎるくらいでちょうどいいのさ――ついておいで。お前の仲間に会わせてやろう」
ナカマ。ついぞ耳慣れない軽々しい言葉に顔を歪めながら、飼い慣らされた身体は、おとなしく柘榴に従っていた。