IV. 青灰の墓標※
反射的に刀を振り抜いていた。頸動脈から噴きだす返り血に視界を紅く染められながら、なお治まらずに左右の肺を突き破る。右の肺をつらぬいた刀の柄に額を預ければ、白銀の毛先から鮮血が滴り落ちた。
「なにが……救いだって……?」
薄い銀製のプレートが、コートの襟元からこぼれ落ちて揺れている。そこにまで散っていた血痕を、乱雑に指の腹でぬぐった。
ゼィゼィと虫の息で喘ぐ声が聞こえる。ひどい雑音だ。なにもかも雑音。俺の知ったことではない。救いなど、……与える? 俺が? まさか、俺に許されたのは奪うこと、ただそれだけだ。
ゆっくりと上体を起こせば、ほとんど死人のような顔色をして、叫ぶ機能さえ失われた喉を震わせている、哀れな男の姿が目に入る。
思いだしたように刃を引きぬくと、まだ足りないのかとあきれるほどに血が溢れでてきた。さすがにもう、はじめの頃のような勢いはない。しかし、まだしぶとく心臓は血液を送りだしつづけているらしい。
失われていく男の体温と比例するように、頭のなかは冷えていった。
これは、黒蝶に一度は繋がれてしまったがゆえに、生来そなわっていたショック死すらも得られない、哀れな道化の末路だ。
この世にあるものはみな道化。
なかでも、最期の最期までみっともなく踊りつづけることを義務づけられた滑稽な道化が、この男や、そして俺のような無法者なのだろう。
出血多量か、窒息か。遠からず命を落とすだろう男は、まだなにかを求めるように、節くれだった指を震わせていた。無性に腹立たしくて、その骨を踏み砕く。反応はない。ただ、唇がわずかに震えて、死にぞこないの目が俺を映した。
救いを求める声も、希望をつかむ手も失って、なぜ濁った目でまだ俺を見る?
なぜ、悪魔に救いを求める?
断罪ならばくれてやろう。この森に喰らわれて朽ち果てろ。
いますぐ命を狩りとってやりはしない――。
放っておいても、脳は酸素を失い、命の火は消え失せる。俺を見つめる瞳は白濁して、自身の血にまみれた身体は腐敗していくだろう。異様な死臭の染みついたこの森には獣すら寄りつかないが、分解者ならば好んで住みついている。遺るのは白骨だけ……それも、どこまで原型を留めているか、知れたものではない。
「Find hapiness in hell, at best.」
人の死に際、最期まで残るのは聴覚だという。この侮蔑は届いただろうか。
男の名前を思いだせないことに気づいた。一度は呼びかけたはずだけど。もう記憶しておく必要もない。ついでとばかりに容姿も忘れさって、愛刀にこびりついた血を振り払い、鞘に収めながら踵をかえす。
「くだらない……」
見上げた梢の向こうに浮かぶ月が、返り血に濡れた俺を嗤っていた。まるでいつかの、彼女のようだと――。
◆
まもなく森を抜けようかという地点に、そいつは立っていた。
木々の合間に伸びたシルエットは、嫌気が差すほどに見慣れた、黒一色のロングコート。俺よりも小柄な背丈は、成長途中の餓鬼のものか。フードに覆われて、顔は判別がつかなかったが、どうせ興味もない。
「ずいぶん酷い殺し方をするんだね」
予想通り、少年特有の高い声が、どうでもいいことのように口にする。どことなくねばついた語り口が、あの女に似ていて、不快感が湧きあがる。
かまう気にもなれず、わきをすり抜ける。
「ねぇ、どこいくの? ――キサヤ」
かさり、と、足の下で木の葉が音を立てた。交錯したままの場所で、つかの間、立ちつくした。
――なぜ、その名を知っている?
首元にかかる鎖が、急に重みを増したように感じる。ただの錯覚だ。それでも無意識に手は伸びて、衣の上から金属製の薄いドッグタグをなぞる。
そもそも、はたして『名』であるのかも定かでない、ただの記号だ。しかし。
『KISAYA』――プレートに彫り込まれた飾り文字は、あの食えない養母の他に、誰も知らぬはず。黒蝶が唯一とりのがした、最悪の造反者が残していった、忘れ形見など。
「ボスから聞いてるんでしょ? きみは今日から」
少年の声が、わずかな興奮に揺れる。なにが愉しい? いや、……なにが、憎い?
「――僕らCLOWNの一員だ」
首だけを回して、狂った餓鬼を流し見る。
道化と、言ったか。そんなことだろうとは思っていた。
あの女が、“締めろ”と言ったのだ。お気に入りの道化たちではなく、俺に。その意味くらい、わかっていた。わかった上で頷いた。……どうせ、なにひとつ変わらない、と。
「そう。これできみも、僕とおなじ……闇のなかへと、堕ちていく……あっは! ははははは! 滑稽だね、ねぇ、キサヤ? 僕は最高に気分がいいんだ。なぜだかわかる? 僕は」
勢いよく空をふり仰ぎ、哄笑を響かせていた少年が、糸が切れたようにうなだれて沈黙する。一連の動作でフードは外れ、耳まで覆う外にハネた黒髪と、少女のようにあどけない顔が月明かりに晒されていた。
しかし、そんなものよりも、一際目を引いたのは――。
「お前だけは、ぜったいに許さない」
たっぷり十秒ちかくかけて俺を睨みあげた、青灰の澄みきった双眸――まるで鏡のような、俺自身や、そして彼女を見るような――嗚呼、まったく冗談じゃない。
そう。俺が憎い? それはよかった。
――俺も憎いよ、ぶっ壊したいほどに。
自分のなかに、これほど強い感情が宿る日がくるとは思ってもみなかった。彼女を殺した夜よりも、何十倍にも強く湧き上がってきた破壊衝動をもてあます。
「お前は、……」
無意識に口をついて出た言葉の先に、なにをつづけるつもりだったのか、わからない。
吐息だけをこぼして、憎しみから心をそらす。抱いたところでなんになる? お気に入りの道化を壊せば、柘榴がうるさい。殺せないのなら忘れるまでだ。一秒後に生を望まれるか死を望まれるか、命の査定額はそれできまる。――俺もこいつも、無価値。
なにも答えずに立ち去ろうとすると、少年の頬にカッと赤みがさした。
これはまた、ずいぶんと人間味のある殺戮者がいたものだ。さぞかし生きづらかろう。そっくりおなじ色の瞳で嘲笑して、こんどこそ罪深い森を離れた。
「待っ、――」
喜劇を演じる道化につきあってやる暇は、ない。