III. 胡蝶の独白※
毅然とした背中を見せつけ、振り返りもせずに歩いていった彼女を見送って、ため息を吐いた。――指の爪を、抉るほどに深く白い肌につきたてるのは、昔からの彼女の癖だ。
苦しませたいわけではない。
ただ、譲れないものがあるだけだった。
お互いに譲れずに、こんなところまで、堕ちてきた。
「なにしとんだか……」
ぽつり、と心のまま呟けば、イントネーションは迷子になる。無理やり形づくった訛りはいびつで、簡単に剥がれ落ちるわりに、後を引くから厄介だ。
それでも、仮面を剥ぐつもりにはならない。
彼女は知らなくていい。なにも知らずに、アキの背を追っていればいい。いつか丸ごと手に入れる。――それが叶わないのなら、いらない。なにも、いらない。
俺の思考は極端らしい。雛森――ヒナには、なんども釘を刺されている。土屋春――ツチに、あまり偏った思想を吹き込むなと。
素直に語っているだけなのに、まったく言いがかりもはなはだしい。なんて、さすがに白々しくて言えないな。一応、もうしわけ程度の自覚はある。だからなんだ、とも思ってるが。
まだ肌寒いくらいの、芽吹きの季節に拾ったから『春』と呼んだ。苗字は一応親からとった。名づけもせず、戸籍すら作らずに放置していた親でも、名前くらいは教えていたらしい。
無垢な子供は、とても染まりやすくて面白い。盲目的に俺を信じて、俺に依存している少女。薄っぺらい興味だが、まあ、面白いといえば面白い存在だった。嫌いじゃない。あの、極端な視野の狭さは、とても歪で心地いい。
「クロ?」
穏やかな声音に愛称を呼ばれて、探し人が向こうからやってきたことを知る。
詰襟のコートを首元までキッチリと閉めて、足音をまったく立てない優雅な所作で歩く男。もし大学の構内を歩いていたら、ひとりふたりの女性には声をかけられそうだ、という具合の、目立たない程度に整った印象を受ける好青年――に、見える。
しかし、彼が場に応じてあっさりと印象をくつがえすダークホースであることを知っている者からすれば、常時の印象の薄さは、ただただ不気味だ。
「なにやってんだ、お前」
あきれた声で笑う、俺よりも二つ年上の幼馴染は、やはり疲れた様子で目元にクマを作っていた。放っておけば延々と仕事をしようとする奴だから、めずらしいことではないが、……ここまで追い込まれるほどの仕事量というと、やはり噂は事実なのか。
「なにしとんのやろな。俺にもわからん」
また仮面を被りなおしながら、ようやくクズを足蹴にしていたことを思い出して、適当に隅へ蹴っておいた。
潰れた顔面が壁にぶつかる音を聞きながら、床に敷きつめられたカーペットで乱雑に靴底をぬぐう。シミになるかもしれないが、元々そのために内装が黒いのだから、想定された用途だろう。ぐちょりと嫌な感触がしたのは、気づかなかったふり。
「ハクは?」
「ボスんとこやないの? それよか、アキ。ちょいと確認したい話があんねやけど」
凍りついた首なし死体、さらに原型を留めていない頭部、なんていうB級ホラーな光景を見ても、眉ひとつ動かさないのが、うちのトップだ。ネジが外れてるのは、俺もアキも変わらない。ハクの方がまだ、多少の人間味を残しているだろう。それに意味があるのかといえば、ないだろうな。
やはり邪魔なので、身体の方も蹴り倒して脇に寄せておいた。多少バラした方がオカタヅケしやすいんだろうか。どのみち、ハクちゃんに叱られそうだからやめておくことにしよう。
「話? ここでか?」
「特別室で聞こか思うとったんやけどな」
「ああ……、ちょっと忙しくて。私室にこもってた」
「ちょうどええわ、――ここで答えろ」
三文芝居をつづけるのも面倒になって、なかば仮面を放棄する。
アキの前で、ごまかしは無意味だ。昔馴染みという意味でも、――【未来読み】能力者という意味でも。
「一応、口に出してくれないか?」
「どうせ知っとんのやろ。はよ言い」
「俺だって常に読んでるわけじゃないんだけど……」
「読んどるやろ。俺を信頼しとらへんもん」
「誤解だな。信頼はしてる。ただ、不確定要素としてマークしてるだけっていうかね」
ひょい、と肩をすくめたアキが、一瞬だけ瞳を紅く染めた。茶褐色の瞳が、カッと点滅して、またすぐに沈黙したような。俺の眼には発動の瞬間も捉えられるけど、よほど注意していなければ気づかないほどの、一瞬の発色。
「習慣づいてるんだよ」
どこまで本音で、どこまで建前か。アキの言葉はわからない。俺たちよりも5年早く引き込まれ、柘榴の右腕になるために育てられてきた彼のたどった経過は、後から追ってきた者の想像が及ばない世界だ。アキは語ろうとせず、俺たちも尋ねようとしない。
「……ああ、やっぱりsvilreの件か」
「シヴィルア?」
「銀の悪魔って呼んだ方が通りがいいかもな。古い呼び名だと銀狼……彼を畏れる者たちの間で、非公式に使われてきた隠語がsvilreだ」
「アナグラムやな」
「そう。silverを並び替えただけの安直な暗号。それが、あの子の実質的なコードネームになっている」
アキの視線が、床に転がる亡骸に移った。確実に息をしていないことだけを確認して、あっさりと俺にもどってくる。
「クロが俺に尋ねるはずだったclownに加入するメンバーってのが、svilreだよ」
「『序列外』が、堕ちてくるん?」
「堕ちると見るか、昇ると見るか……どの道、clownの殺しはやってもらうことになるな」
アキが歩きだしたので、俺も従うことにする。死体は置き去りのまま。ゴミ掃除は俺たちの仕事に含まれていない。
おそらく香月――ツキがいれば簡単に終わるだろうが、能力の汎用性が高すぎるあの少年には、かなり重い制約がかかっているらしい。ボスから一日一度まで、と制限されている一度を、まさかお片づけに使うことはないだろう。
どうでもいいことを考えながら、ポツリとつぶやいた。
「殺すだけやろ。なんもかわらん」
「お前は、つくづく道化に向いてるよ」
ななめ前を歩くアキが、くつくつと喉を鳴らした。
道化――最上位クラスがそう呼ばれるようになったのは、アキが統括するようになってからだという。その前は、死神と呼ばれていたらしい。当時を知るメンバーは、どこにもいない。
黒蝶の歴史は古く、その創立当時からずっと、特別クラスの存在自体はあった。異能者だけを集めた、チームとは名ばかりの管理体制……なんのために存在しているのかは知らない。ただ、存在しつづけている、という事実だけを知っている。
俺は、狙撃手から発掘されたヒナとはちがって、下層の世界を知らない。ハクとともに、はじめからアキの直下につけられた。――なぜか? はじめから俺たちが、そのために用意された『道化』だったからだ。
前任者が誰ひとりいないという異常事態に、思うところがないわけでもないが、俺には関係のない話。秘匿されたブラックボックスに首を突っ込むメリットはない。
幹部だなどと名ばかり。基本的に俺たちは特別な戦闘員――つまり道化にすぎない。すくなくとも現在の組織は、柘榴の独裁政権で成り立っていた。……もしくは、その右腕とも呼ばれる、アキの。
「――千歳」
アキの足が止まる。
彼が、はっきりと本名・コードネーム・愛称を呼びわけていることも、その理由も、すべて知った上で踏みこんだ。だから当然、こうして無言の威圧を受けることも覚悟していた。ピリリと震えた空気を感じても、口は止まらない。
「あきらめたわけやないで」
忘れたわけではない。しまいこんだだけだ。
アキは、『赤木千歳』を捨てていない。
俺が『黒瀧閃』を抱えたまま生きているように。
ハクが『白澤瑠香』を押し殺しているように。
気まずい沈黙のなかに、ため息が落ちた。
「……俺を裏切ったのは、お前らの方だろ」
振り向いたアキが、冷たく俺を見返す。とっくに身長は追いつき、追いこしたというのに、こうして視線が交われば、彼を見上げ、追いつこうと必死になっていた幼き日の感覚を思いだす。
「俺は、もうお前らの兄貴じゃない」
アキの顔から笑みが消えていた。それだけで、優男然とした雰囲気が霧散する。見てくれだけなら、背後に転がっている死体も似たようなものだった。ついさっきまでは。――だが、いまはちがう。
ああ、まったく、笑えてくるな。
「そんなにあの女が大事なん?」
「大事? 気持ちわるいこと言うなよ。……そんなもんじゃない」
ほら、見ろ。
どこが好青年だ。
一瞬で狂気を表出させるダークホースには、俺ですら敵わないと思う。昔からずっと、いまでさえも、敵わない。
「――殺したいんだよ、俺は」
千歳。俺は、そういうお前を越えたいし、手に入れたいよ。この闇が、お前のいるべき場所だと知りながら、それでも引きはがしてやりたい。
闇においては闇に、光においては光に染まる、柔軟な幼馴染。
闇においても闇に染まりきらない、もう一人の幼馴染と並べて、光のなかに立たせてみたい。
その他大勢の端役のことは、どうなろうが知ったことではない。
――俺自身さえも。