I. svilre※
異様な気配に、身がすくんだ。
――ここはどこだ? なぜ、こんな場所にいる?
逃げていた。長い長い道のりを、駆けて、駆けて、駆けて――。足がつけば終わりだ。“B-Bに逆らうなんて、愚かな”――蛇のような女の声を振り払うように、闇の中を身一つでさまよい、もう幾晩になるだろう。
――おかしい。
足を踏み出すたびに、香る、濃密すぎる『血』の芳香。
――おかしい。
こんなはずではなかった。いまごろ国外に逃げて、あの女の手が届かない場所に飛び込む算段だった。なぜ。
なぜ、俺はまだ、こんな森に囚われているのだろう――。
「ようやくお目覚め?」
鈴を鳴らしたような、……あるいは、研ぎ澄まされた金属を打ち鳴らしたような、冷ややかな声が聞こえる。
「残念だけど、悪夢はまだまだこれから」
どこだ? どこにいる?
一面に立ち並ぶ、巨木。見渡しても、なにひとつ変わらない景色。
そもそも、ここはどこだ?
「あんたの夢は覚めない。永遠にね」
ここは、――。
「まずは、おはよう。イザ。『俺』に見覚えは?」
風が吹いた。
落ち葉が舞って、梢がうねり、ざわめいた森の中心に、月光が集う。
スポットライトのように降り注ぐ月明かりを、一身に浴びて、真っ黒な人影が立っていた。
決して背は高くない。
体格が良いわけでもない。
それなのに、なぜ、こんなにも足が震えるのか。
勝てるはずがないと、確信してしまったのか。
「道化、か……?」
半信半疑のまま、問う。
闇に溶け込むロングコートにも、目深にかぶったフードにも、嫌になるほど見覚えがある。
同胞だ。
黒き二枚翅――国外にまで名を轟かせる老舗の闇組織で、それなりの地位にいるものは、みな同じコートをまとって狩りをする。
そうか、ここは、道化の舞台。化け物たちの狩場だ。
覚悟していなかったと言えば嘘になる。だが、いよいよ、あの女を本気で怒らせたらしいと悟って、背筋が凍った。
実在していたのか……。
幻の最上位クラス。たった6名で構成され、つねに単独行動で任務にあたる、人の域を越えたモノたち。あの女のお気に入りであり、法外な金が付属しなければ動かない。
裏切り者を抹消する、という、例外事項をのぞいては。
「クラウン?」
フードをかぶった人影が嘲笑する。
高めの声だが、おそらく男。そして若い。十代後半、あるいは二十代前半か。clownのメンバーのなかで該当するのは――。
「あんなのと一緒にしないでくれる?」
首筋に、冷たい感触。ツゥ――と流れだす血の感覚に、ようやく鋭利な刃物が突きつけられていることに気づいた。
日本刀?
まて、clownのなかに、特定の得物を使う人間はいたか。【華月】はナイフ使い。【妖妃】は優秀なスナイパーだったが、単独で動くことはない。【烈姫】は【妖妃】としか動かない。【紅炎】や【氷帝】は実戦に出ないという。【揚羽】か? いや、【揚羽】は長身の男のはず――。
「あいにく、俺に名乗れる『名』はない。様式美を守れなくてわるいね」
声。
美しすぎるほどに、澄んだ声。
日本刀。
月の明かりを反射して広がる、銀の波紋。
「どうでもいいか、死ぬんだし」
フードの奥で、淡い色の瞳が細められた。
記憶がつながる。clownではない。俺が持ち出した情報のなかに、一致する人物はいない。てっきり『裏切り者処理班』が動くとばかり思っていたが、よりにもよってあの女は、もうひとつの『別格』を動かしたのか。
「銀の悪魔――」
つぶやいた瞬間に、突風がフードをさらっていった。
あざやかな銀髪が月光にさらされる。
称えられ、畏れられ、闇の同胞にあってさえも別格としてみなされる、美しき殺戮者。
――最恐最美の悪魔。
clownが幻の最上位クラスというのなら、svilreの存在は神話級だ。序列外して規格外。ボスの勅令しか聞かないという、血濡れた青年を、直に知る者はほとんどいない。
ただ、冗談のように美しいという、噂だけが広まっている――。
「もういちど聞こうか。『俺』に見覚えは?」
鏡のようなブルーグレイの瞳が、いかなる感情も映さないまま、静かに俺を捉えていた。銀色の髪を風になびかせ、彫像のように固めた無表情で、口元だけを持ち上げる、美しすぎる青年。
見覚え、など。
一目見たら忘れようがない。
月の化身のような色をまとった、美しく冷酷な悪魔のことを、いつしか誰かがsvilreと呼んだ。隠語はやがて呼称となり、かつて銀狼と呼ばれていた少年は、銀の悪魔に姿を変えた。
序列外に君臨しつづけてきた生粋の殺戮者を前に、どんな理屈が通じるだろう?
「くそ……」
無意識に引いた足が、落ち葉に覆われた土を散らす。それだけで、またむわりと香りたつような、異様な血臭が、この森には染み込んでいる。
道化の舞台。
死神の胎。
呼び名はちがえど、実態はおなじ。
確実に屠るために用意された、広大な罠だ。
おびき寄せられた時点で、獲物の死は運命づけられている――。
殺すか、殺されるか。
いちど森に足を踏み入れたのなら、ほかに道はない。
わかっている。かつては、おなじ組織に属した身だ。わかってはいるが。
「だんまり?」
悪魔が冷笑する。
ほかに道がないとわかっていても、ほかの道を探らずにはいられない。ここで死ぬわけにはいかないのだ。俺には、この森から出て、呪わしき化け物の正体をあばく義務が――。
「……っ」
さらに一歩引こうとした足の甲を、鋭利な刀身が貫いた。
押し殺した悲鳴が、喉に絡む。
「答えろよ、なあ? 俺だって、あんたみたいな小物にかまってたくないんだけどね」
一瞬で距離を詰めた悪魔が、くつくつと嗤う。
美しすぎる顔をゆがめて、日本刀の柄を捻る。
「っぁ、……知、るか」
流れだす血が、草を、葉を、土を、濡らしていく。
「ふぅん。こそこそ嗅ぎ回ってたわりには、残念な情報収集能力だね」
「ぃ……」
「上級クラス、それもBまでいけば、アクセスできる情報量はそれなりにあるんじゃないの?」
「……っお前に、話す、ことは」
「まぁ、どうでもいいんだけど」
風穴を残して、あっさりと引き抜かれた日本刀に、つかの間、頭が真っ白になる。痛覚を断ち切ったところで、この足で、まともに走れるだろうか。万全のコンディションであったとしても、おそらく逃げ切ることは叶わないだろうが。逃げたところで勝算はかぎりなく薄い、しかし、この青年がsvilreだというのなら、歯向かったところで――。
「まだ生きること考えてるの? しぶといね。頭ん中、お花畑? それとも、――異能者じゃなければだし抜けるとでも思ってる?」
異能。あっさりと口にした。
やはり、知っているのだ。黒蝶がひた隠しにするものの正体を、一握りの上層部だけが知っている。
「残念だったね」
ブルーグレイの瞳が、暗く陰る。
「……俺も、あれらと変わらない」
――くる。
なんとか見えたのは、銀の反射光だけ。無造作に振り抜かれた刀身を脊髄反射にまかせて避けた瞬間、ガラ空きになった腹にブーツの靴底がねじ込まれた。
予備動作もなにもない。
生身の肉体とは、とても思えない衝撃が襲う。
なにも考えられないあいだに身体が飛んで、気づいたときには背中から大木の幹に打ちつけられていた。
ブレた視界が整わぬうちに、つぎの斬撃。なんとか横に転がろうとした、その先に刃がある。――速すぎる。
二の腕に深々と埋まった白刃を見つめる。一瞬おくれて、熱と痛み。切り捨てる暇もなく、また太刀が降ってくる。必死で身をかわせば、薄くすくように、主要な血管を選んで切り裂いていく。
遊ばれていることに気づいたのは、全身にくまなく刻まれた傷に、血濡れていない箇所を見つける方が難しくなってからだ。
「なんで、黒蝶を裏切ったの? そこまでして、あんたはなにが欲しかったの?」
常識では考えられない身のこなし。やはり、そう、か……彼も、また。
「正義感? くだらない。山ほど殺してきて、いまさらご高説垂れるなよ。金? そんなもの握ったところで、なんになるの。名声? まさかね、表舞台に立てるわけないよなぁ、いまさら」
かすんだ視界のなかに、悪魔のように美しい青年の姿だけが映っている。透きとおった声で語られる言葉は、その内容ですらも澄んでいるような錯覚を覚えさせる。
「――答えろよ」
幾度目かもわからない衝撃が襲う。全身の出血が勢いを増して、鉄錆の香りに包まれる。
ごぽり、とせり上がった血塊を吐く。
「――ぃ、ぉ……ゲホッ」
「なに言ってんのかわからない」
「ぅ、くぃ……」
「はっきり言ってみなよ、ほら」
出血量が限界に近い。やはり、この森から出ることは叶わないらしい。ならばせめて、彼に伝えておこうか。
「……ぃる、ぁ」
なぜだろう。いま、俺の命を奪い去ろうとしている美しい悪魔を、恨む心は湧かぬのだ。常人とは次元のちがう生き物にしか見えない、冷酷な青年。生まれついての暗殺者。善悪という概念すらも知らぬだろう、別次元の高みに立つモノ。
svilre。
「――救いを」
はっきりと口にした瞬間、人形のように凍っていた青年の表情が、大きくゆがんだ。