V. living dead doll
「今宵の月は見事ですね。少女の命運が決まる、記念すべき夜にふさわしい」
戸口に立つ俺の姿を認めた途端、椎名氏は嫌そうに眉をひそめた。
「また、お前か……黒蝶は随分この件に入れ込んでいるようだな。それとも個人的な関心か?」
「先日も申し上げましたが、椎名様。此度の件には貴方の希望で不穏因子が関わっています。我々としてはどう転んでも不都合はございませんが、万が一の備えはあってしかるべきでしょう」
「まるで私にとって不都合があるような物言いだが」
「失敬、……しかしなぜ、今なんです?」
椎名氏は目を閉じ――「あれは壊れ始めていた」と唸るように呟いた。
「役を与えれば人らしく振る舞いはするが、内実は人形にも劣る空虚な娘だ。遅かれ早かれ切り捨てるならば、せめて人であるまま終わらせてやるのが情けというものだろう」
「人形、ね。なけなしの親心ですか――ご子息のように?」
タブーとされた事件にさらりと触れれば、椎名氏の動きが一瞬止まる。
「7年前、痛ましい事件でしたね」
このタイミングで踏み込んでも許されるのはわかっていた。
俺の知りえた情報では、7年前に椎名氏は息子の処分を認めている。認めさせられたのか、率先して求めたのかまではわからない。
一般人の始末に森を利用する手の込みようといい、派遣された処刑者といい、奇妙な点の多い事件だった。
何者であろうと目撃者は始末せよという指令が下されたのは、兄を追った次女が森に迷い込んだ報告が上がった後だ。次女の命は一度切り捨てられていた。しかし翌朝森の入り口で保護された次女は、肉塊と化した兄とは対照的に目立った外傷もない状態で眠っていたという。
「白々しい……すべて愚息の不始末だ。かたや決して触れてはならないものに手を出し、かたや決して魅入られてはならないものに魅入られた……娘の知らぬところで終わらせられたのは不幸中の幸いと言わざるをえまい」
この場合の娘とは長女のことだろう。決して触れてはならないもの――ここで回収できる唯一のキーワードを反芻する。徹底的に秘匿されている時点で彼絡みだとは予想できるが、詳細は未だわからない。
正規の依頼ではなく闇に葬るため。椎名氏にとっても、そしておそらく組織にとっても、事は秘密裏に運ぶ必要があった。確実に責務を果たし、秘密を守るという点において、他にうってつけの人材はいなかっただろう。
母殺しから3年。一時の残虐性は身を潜め、憎しみの行き場も生きる理由も無くしたであろう少年は当時、虚ろに、そして美しく、それ以上ない道具へと成長しつつあった。
機能性をつきつめた道具というものは、ある域を超えた途端に比類なき芸術性を感じさせるようになることがある。無機質なそれに、見るものは己の心を重ねる。そうとは知らず美しいものに映り込む美しい己の姿に酔う。そんなものに心など存在しないのに。
当時の少年にはまだ多少の人間味が残っていただろうか。それとも今以上に虚無的だった……?
「子供は良くも悪くも純粋ですからね。善悪の区別もなく、綺麗なものに惹かれ、いとも簡単に染まる。幼少期の刷込みは危険なものです」
どちらにしろ、あんな男に惚れ込むなど狂気の沙汰だ。
目線を左手の窓に流す。奥の別館――照明は落ちたまま、不気味な沈黙を保つ建物の中で、今まさに少女の命は天秤に乗せられようとしている。
心奪われたのも無理はない。盲目的にクロを慕うツチのように、自らの生の価値も定かでない日常の中、過去の幻想に取り返しがつかないほど深く囚われたとして、誰にも責められはしないだろう。ただ、哀れなほどに愚かしい。
「……俺も人のことを言えた身ではないが」
「なにか言ったか?」
「いえ」
しかし、なぜ少女は一夜を生き延びたのか。
かつてクロがツチを拾ったのは、気まぐれを起こすだけの利用価値があったからだ。自分の境遇に重ねたところも少なからずあったかもしれないが、そうでなければ一思いに殺していただろう。今でもクロは理由さえあれば簡単にツチを切り捨てるに違いない。
クロにできて、キサヤにできないはずがなかった。付き合いの深い椎名家のこと、兄を追って迷い込んだ娘が生きて戻れば直ぐにわかる。あえて見逃したことは明らかにも関わらず、その理由はどこにも記載されていなかった。なにより不可解なのは、それを組織が黙認したという事実だ。
「7年前の暗殺者、いまは銀の悪魔と呼ばれることが増えましたが、彼はすこしばかり特殊な立場でしてね。本来はボスの勅命しか聞かないんですよ。普段は息をひそめ幽閉さながらの生活を送っている。それが全てだと思っている。そのことに不自由も不満も感じていない」
「回りくどい言い方はよせ。あの女を思い出して不愉快だ」
「我が主はお嫌いですか。――貴方の娘が魅入られた相手は、一度飛び込めば決して陽の下には出られない闇の住人です。その最果てと言ってもいい」
アレは虚ろであるがゆえに美しいヒトガタだ。不安定な心に満たされれば芸術性は損なわれ、完全なものを求めれば求めるほど手に入らなくなる。幼気な少女が恋い焦がれるには相手が悪い。
そも、満たされてることはあってはならない。
あの器は空でなければならない――。
「……で、あろうな」
「よろしいのですか?」
「人は欲には勝てんよ」
諦めたように息を吐く椎名氏は、頑なに窓を見ようとはしなかった。
「あれは、我が子ながら強慾に過ぎる」
死に取り憑かれた娘――彼女には何かがある。直接会って確かめた日の通りならば、彼女には無数の死の運命の他に、生き延びて再び俺に会う未来があった。
可能性は高くない。だが、この夜をもし彼女が生き延びたのならば、この先の俺にとって強力なカードとなり得る。そのための手間ならば、惜しむつもりはない。
打てる手は打ち尽くした――後はただ、芝居が跳ねるのを待つのみ。
「私はあなたの判断を支持しますよ」
手に入らないものを、手に入らないと知りながら、飽くことなく求めつづけられる貪欲さを持った少女。一つのものだけを強く欲するあまり、そのひたむきさは無欲にも映る。
あの気難しい青年は、かつて彼女にどんな価値を見出したのか――確かめる機会がくることを祈り、待ち望むばかりだった。さしたる興味もないままに。
◆
「報告の一つも入らないようだが、滞りなく進んでいるのか」
「ええ、万事つつがなく。そろそろ状況が――ああ動きますね」
瞬間的に能力を解放して、現在の一手先を読む。
闇に浮かぶ異質な真紅の瞳に椎名氏が眉をひそめた。
「薄気味悪いものだ」
「すみません、視認するには厳しい距離なもので。あまり気づかれたくないんですよ。私は彼に好かれていませんから」
「過ぎたる力は身を滅ぼすぞ、若造」
「お褒めに預かり光栄です」
そうは言うが、俺はクロほどには夜目がきかない――ありのままの現在を正確に切り取ることにかけて、今代の能力者で彼の右に出るものはいないだろう――【未来読み】の内容と擦り合わせ、死角となる部分を適宜補いながら観察を続ける。
明かりの落ちた室内の詳細まではわからないが、闇の中を白銀の反射光――頭髪と刀剣が舞うように動く様子は見てとれた。身体さばきは見事なものだが、常になく荒い。7年ぶりの再会はよほど心を乱したのか。
あれは……1人、逃した? 予定にはない逃走者の影を見つけ、別棟の側で待機していたであろうクロを探せば、指示するまでもなく追討に動き出していた。本気で追えば瞬く間に捕らえられるものを、わざと泳がせていたぶるつもりだろう。黒揚羽の狩は趣味が悪い。
そこで銀色の方から一瞥、殺気のこもった睨みをいただいた。この距離でも俺に気づくか。まさか見えているわけではなかろうに、よほど感覚が鋭いらしい。
「まもなく終わりますよ。標的は粗方捕らえた模様です。後始末は別の者を手配させていただきますが……ご息女の確認はいかがされますか?」
「いや、いい」
「もしかすると、もしかするかもしれませんよ」
「存在しないものを確認しろとは妙なことを言う」
「可愛らしいお嬢さんではないですか。最期の姿くらい一目ご覧になられたら」
心にもなく言い募る俺の言葉を、椎名氏は鼻で笑った。
「なんだ、あれに会ったのか」
「先日、少しばかりお話を」
「屍のような娘だろう」
予想外の言葉に、思わず窓から視線を外し、椎名氏を見る。
「とうに生きてなどいなかった。7年前には既に――どうかしたか、千里眼?」
まったく、これだから鍵の家系は。
こうして簡単に読みを覆される。俺自身にはできないことを、その重みも知らず容易くやってのける。
特にキサヤ、ボスの一番のお気に入りは、形だけの反抗を見せながら根は従順に飼い慣らされたツキとは違う。従順であるように見えてそうではない。あの浮世離れした青年は本当の意味で従っているのではなく、ただ反抗を知らない。その意味を持たない。
だからこそ、俺にとって意味がある。
「失礼、このあたりで私は下がらせていただきます。いずれ再びお会いする機会がないことを祈って……お互いの幸いのために」