IV. 大欲は無欲に似たり※
その女は静かに泣いていた。
喜んでいるのか悲しんでいるのかわからない微妙な表情のまま、流れ落ちた一筋の涙が月明かりを反射して輝く。
どんな言葉よりも雄弁に語る、熱を孕んだ瞳。そこに湛えられた――そしてとめどなく溢れつづけている――感情の強さにたじろいだ。
こんなものはしらない。
こんな人間はしらない。
これは、本当に人間か――?
くだらない疑問を抱く程度には混乱していた。語りかけられているのはわかっている。しかしそれは俺の理解しえない言語だった。意味がわからない。わからないのになぜか、おそろしいまでの熱量だけが伝わってくる。
「カイ」
女が微笑する。
「ねえ、カイ、でしょう?」
三たび呼びかけられて、ようやく記号のような音律がまぎれもなく俺を指していることを理解した。かい――KAI――ズキリ、と頭の中心が疼く。思い出したくもない白い夜、赤い雪、忌々しくも美しい女の口から零れおちた音。
「……んで、それを」
ひどく混乱している。思考がまとまらない。知られているはずのない名。あの女が遺した、果たしてそれは本当に名であったのかすら定かでない記号。それがなぜ、明確な意思の元に俺を指し示す? 知らない顔で、知らない声で。ありえない。それはおかしい、そんなことはあるはずがない。
おかしい? おかしいのは俺だ。
なぜ殺さない。なぜ振り払わない。
目の前の女の命は限りなく無価値――生にも死にも等しく価値を見出されなかった、哀れな羊だというのに。
好きにしろと言われた。殺しても殺さなくてもどちらでも構わないとザクロは言った。こんなことは初めてだった。標的として処理する必要も、対象として保護する必要もないという、ただの囮。あるいは捨て駒。名の知れた氏族の割には異様なまでに軽い命だと、違和感をまったく覚えなかったわけではないが、気にすることもないと切り捨てた。
俺が姿を見せる前であったならまだ他の道もあったかもしれない。だが、目撃者はすべて消すのが黒蝶の流儀だ。もはやこの女に生きる道はない。価値の無い死を遂げるのが、本当の標的より前であっても後であっても大した問題は無いはずだった。
いつでも殺せた。無防備に窓辺で物思いにふけっている間でも、奴らに先回りして室内に身を潜めていた間でも、まさに数瞬前、この女が俺の姿を目にするよりも早く処理する方法はいくらでもあった。
なぜ、そうしなかったのか。
できなかった?
……まさか。
温情をかけるような義理は無い。仮に義理があったとしても俺は殺す。殺すことに理由は必要無い。生かす理由が無いからだ。誰ひとりとして生を望まなかったから。死を望まれずとも生を終わらせるのに十分な理由だ。
だから殺す。殺すべきだ。
単純な論理。迷うはずのない選択。
――“べきだ”なんて中途半端な言葉がどうして出てくる?
「っ……」
ズキズキと頭の奥が痛む。
言い知れない気持ちの悪さが、胸の底からこみ上げてくる。
心地よいとは口が裂けても言えない。なのに、なぜ振り払えない?
恐怖でもなく畏怖でもなく、あの忌々しい信仰心とも似て非なる、底なしの沼のような、……沼、それも煮えたぎる灼熱の沼のような、……欲? 欲情しているのか? この俺に? ――いいや、そんな浅いものではない。この女の熱をまとった純粋なまでの欲は、まぎれもなく俺を欲している。俺の何を欲しているのかは知れないが。
「? ねぇ、大丈――」
「うるさい」
差し伸べられた手を振り払う。いつもそうしてきたように。ああ、簡単じゃないか。まだ俺は俺で居られる。なにもかも耳障りだと切り捨てて、奪い、壊し、静寂に沈む。簡単なことだろう。
女は一瞬、裏切られたかのような目をして、すぐにまた取り繕うように笑みを浮かべた。その目が気に入らない。端から信じなければ裏切られるなどという事象は生じえない。この女はなぜ、俺のような存在を信じようとする? 俺はなぜ、こんなつまらない問答を続けようとしている?
苛立ちまぎれに舌打ちする。治まらない頭痛が思考を鈍らせる。思考? なぜ思考する必要がある? そんなものはとうの昔に捨てたはずではないか。
「ハッ……あんたさ……状況、見てわからない?」
意識的に口角を引き上げる。嗤え、せいぜい皮肉に映るように。挑発的に、威圧的に、突き放せばいい。いつものパターンに嵌めてしまえばただの流れ作業だ。一仕事余分に残ってはいるが……くだらない問答を続けていれば、さすがに異変に感づかれる。せっかく誘い出した獲物に逃げられたら、囮の意味もない。そうだ、まとめて片付けよう。こんな夜は、さっさと始末して帰るのがいい。なにも考えずに泥のように眠って、次に呼び出される日まで、機械的な日常をくりかえす。それでいい。それが俺に求められる価値のすべてなのだから。
「いいの」
「なにが、いいって?」
剣呑な目を向けた自覚がある。大抵の人間はこれで黙った――あるいはそれ以前に黙らせていた。温度がない。なにを考えているのかわからない。そういう眼に射抜かれるのは、正常な人間にとって大層落ち着かないものらしい。
「いいのよ、もう。ぜんぶ」
それでも女は笑っていた。
「死にたくない――って、思ってた。あなたに会うまではね。だからいいの。もう、いい。私にとっては今この瞬間が奇跡みたいなものだから」
狂っている、と、思った。
どうしてそんな思考になる。こいつは俺にどんな価値を見いだしている。……価値? 他人が査定した己の価値などというくだらないものに興味はなかったはずだ。
自ら殺されたがった人間は初めてじゃない。死の間際にクソみたいな理想を押しつけてくる奴らの腐った眼差しにはヘドが出る。どれだけ相対しても慣れない不快感が、今は湧いてこない。それはなぜ。こいつからは、なにも望まれていないからだ。俺の存在を切望しながら、なにひとつ乞おうとはしていないからだ。
「覚えてないならそれでいいの。でも私、人を見分けることには自信があるのよ」
「ああ――くそ面倒くさい」
申し訳程度に隠していた気配をさらけ出す。これで気づかないほど落ちぶれちゃいないだろう標的は、案の定あっさりと仕掛けてきた。
暗がりの中、死角からほんのわずかな風切り音を立てて飛んでくる暗器を、ろくに見もせずに鞘で弾き、そのまま刀身を抜き放つ。飛び込んできた一人目の喉元を鞘で突き、踏み込みながら横薙ぎに一振り――二人目の喉を割きながら三人目の足を払う――つまらない流れだ――動く気配がなかった四人目が制止の声を上げる――簡単に殺しすぎてはまずいらしいことを思い出し、三人目の胸を踏み砕きつつ喘ぐ口内を貫こうとして、ようやく襟元の階級章が眼に入った。ほとんど同時に、相手方の動きが止まる。
「はっ……よりにもよって」
嫌な意匠だ。思い出したくもない女の最期を想起させる、四角い檻に囚われた闇色の青海波――只人の頂点がこの程度だとは笑わせる。
「銀の悪魔――なぜ貴方が」
動きを止めた俺に、戸口に立ったままの四人目が問う。かすかに聞き覚えのある女の声だった。
中途半端に鋒を咥える形になった男は、ヒクヒクと口元を痙攣させて固まっていた。無言でそのまま突き刺し、舌ごと食道を切り裂いてから無造作に引き抜く。脱力した肢体を戸口めがけて蹴ると、思いの外派手に血が舞った。
背後で息を呑む気配がしたが、知ったことではない。
ポツリと、刃先から滴り落ちる血液が上等な敷物を濡らす。べつに汚すなとも隠密にしろとも言われていないのだから問題はないだろう。
「悪いね。あんたんとこのだって知ってたら、もっと丁重に遊んであげたんだけど……つまらなそうだったから」
「なぜ、貴方がここにいるのです」
声も、表情も、全く揺らがない。鉄面皮の女をどこでみたのか、思い出すのに時間はかからなかった。……血塗れた雪の夜だ。
――殺すなら早くしな。うちの奴らと鉢合わせたら面倒くさいよ。
一人残らず殺すつもりだった。庇い立てる者があれば始末してよいと言われていた。ミカゲの亡骸を見つめ、白い静寂に埋もれながら、俺は次の獲物を待っていた。ミカゲを特別慕う直属の部下が現れるのを待つつもりだった。
なぜ、忘れていたのか。
なぜ、今になって思い出したのか。
「……エヴィ」
あの夜には続きがあった――。
「質問に答えなさい。これは我々の仕事の――」
「答える理由がない」
お望み通り間髪入れずに答えてやれば、女は不機嫌に眉を寄せた。
「ああ、野良猫が一匹サーカスに放り込まれたとの噂がありましたね。【紅炎】の差し金ですか」
「コウエン?」
「退いてください。道化の気まぐれに付き合っている暇はない。この件は明確な妨害行為として柘榴様に報告し、然るべき処分を」
「ははっ! 勘違いしてるようだけど、階級も所属も関係ない。奴らの思惑なんて俺の知ったことじゃない。あの夜から変わらず、この身を動かすのはただ一人の意思だ」
「っなにを……」
あれから何年経ったと思っているのか。くだらない。心底くだらない。あんな一夜、あんな女一人に囚われる、俺もこいつらも。
「滑稽だね」
嗤うと同時に、背後の窓が破られる。
「あんたの言うサーカスの団長は『待て』ができる優秀な犬だけど、ザクロに輪をかけて性悪だって知ってた? あんた今まで泳がされてたんだよ」
面白くもないのに笑いが止まらない。張りついた笑みはさぞかし不気味なものだろう。
「冥土の土産に教えてやる――ミカゲを殺ったのは俺だけど、あんたのお仲間を殺したのは俺じゃない――ま、どっちでも同じだろうけど」
外にもう一人いるのはわかっていた――わかった上で放置していた。
痺れを切らして飛び込んできた羽虫は、手近な標的を狙う。これが罠だとしたら仕掛け人は人質となりうる。俺の独断だとしたら任務を遂行次第帰還すればいい。そう考えたのだろう。
無駄な足掻きだ。追い立てたところで憂さ晴らしにもならないだろうが、逃げるなら逃げればいいと思っていた。どうせお前たちは夜を越えられない。あの男が動くとは即ちそういうことだ。奴の望んだ結果に至るように、あらゆる手が打たれているに違いないのだから。
なあ、赤木。お前が望んだのはこんな喜劇か? 多少不愉快ではあるが、関心を寄せる価値もない。手間をかけて踏み潰す必要性など感じない。その千里眼が見通したのは、こんなくだらないものではないだろう。
――シイナアマネ。
自らを狙う凶刃を前にしてさえ、その女は毅然と顔を上げていた。この異様な状況下、悲鳴ひとつ上げず、ただ一点を見据えつづける精神力は不気味でさえある。死を受け入れているのか生を諦めているのかも定かではない凪いだ瞳は、俺の姿を映した途端にまた不可解な熱をもった。
――面白い、と思った。
この夜の他の何よりも、純粋に。