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II. 名もなき邂逅

 神様というものを恨んだことがないように、姉というものを恨んだことはない。



「ずっと……わかってたんだもの……」



 うなだれた拍子に流れ落ちた髪の毛に顔をうずめて、自嘲した。


 ほんの数日前のできごとを思い返す。あれは、たしか、父の書斎がある方向だ。けれど、気難しい父が、あんな奥まで人を通すのは珍しい……昔、たった一度だけ、見た。それ以来だった。





 黒い詰襟のロングコートを着た若い男と、避けようもない渡り通路の真ん中で出くわした。よく見れば、首の後ろにはフードが垂れていて、父の書斎を訪れるのにふさわしい装いとは言いがたい独特の形に違和感を覚えた。すぐさまとって返せばよかったのに、記憶の底に引っかかったものが気になって、ほんの一瞬ためらってしまった。


 男の唇が薄く開いた。



「――可愛らしいお嬢さんだ」



 目があった。

 それだけだった。

 それだけで、動けなくなった。


 接触したのがバレたら。最悪の想像が頭をよぎって、足が震えた。広がったドレスの裾が、都合よく動揺を隠してくれた。見つかってしまった手前、隠れるわけにもいかない。腹を決めて、姉の代役を務めていた格好のまま、すばやく意識を切り替えた。



「なにか、御用?」

「きみは……シイナマコトさん、かな」

「そうだとも言えるし、そうでないとも言えるわ。あなたがまことの名をご存知だというのなら」



 決まり口上を述べながら、底知れない男の眼を、じっと見返す。


 外の世界を詳しく知るわけではないけれど、この家が妙だということには気づいていた。


 書類上、椎名家には、ただ一人しか子供が生まれないことになっている。シイナマコト――私の父の名であり、兄の名であり、姉の名であり、そして私自身の名でもある。虚構の名。虚像の名。けれど真実だ。(マコト)は一人。ただ一人、存在を許された子供の名前。


 湧大(枉惑)希望(偽罔)天音(空音)

 ――兄と共に亡くなった(・・・・・)私は用済み。不必要な駒。


 濃密な死の気配を、感じつづけていた。


 天音あまねに相応しい最期は、ここだろうか。ひっそりと誰にも認知されぬまま闇に消える。空音そらおとのように。相応なようにも思えてきた。


 お父様は、初めから希望のぞみを選んでいた。彼女は違う。借り物の生、借り物の名前。私の手にあるものはすべて、いずれ彼女の手に落ちるもの。そう……最後に遺るのは希望だと、初めから決まっていた。私はそれを、わかっていた。


 だから恨むことなどないの。だから、そんな眼を私に向けないで。奥底を見透かそうとしたって、あなたの望む答えは沈んじゃいない。



「ちょうどいい。きみに会っておこうと思っていたんだ」

「申し訳ありませんが、心当たりがございません。あなたのお探しのまことは私ではないわ。そのままお引き取りください」

「いや、俺が用があるのは『きみ』だけだよ」



 フッと微笑んだ男の表情を見て、――ぞくりと、悪寒が走った。


 感情のない言葉は、まるで普遍の事実のようで、それが真実なのではないかと錯覚しそうになる。過信、というには、あまりにも強すぎる。味わったことのない感覚だ。こんな特徴的な『気』をまとう人間に会ったことなどない。ほんの一瞬前までは、ありふれた好青年に思えていたのに。



「それは……ありえない……」

「なぜ?」



 こぼれ落ちた独り言を拾い上げて、男が眉尻を下げる。どこまでが本心? それとも、すべて嘘? 疑心暗鬼に陥っていく。一見優しげな青年の、なにがここまで不安に駆らせるのだろう。



「すこし、話を聞かせてもらえるかな」

「……ご勝手に」

「俺が怖い?」

「わからないわ」

「死ぬのは恐ろしいと思う?」

「いいえ、……なにを聞きたいの?」



 男は答えずに、次が最後の質問だ、と告げる。薄く微笑んだまま。



「目の前に死の運命が迫ったとして、きみはどうする? 抗う気はない?」

「どうも、しない……受け入れるだけ。すべてを」

「そう」



 わ ら っ た ?


 無表情になった途端に、ただよう『気』が和らいだ。寒くもないのに身体が震える。なんて人だろう。いままでの表情は、すべてツクリモノ?


 フードに手を伸ばして、ゆっくりと頭部を覆っていく。その仕草に、やはり既視感を覚えた。ゆるい癖のついた黒髪がまず隠れて、端正な顔立ちの目元までもフードの奥に沈む。唯一のぞく唇が、わずかに綻んで――。



「きみはすべてを捨てるだろう。焦がれてやまない魁星ホシのために。けれど光はすり抜ける。――そのときに、もう一度会おう。きっと力になるよ」



 ――“椎名天音さん”。


 呼ばれるはずのない名に固まった私が、理由を問いただそうとしたときには、男の姿は闇に消えていた。





 ああ、そうだ。

 あのコート……黒いロングコートを、どこかで、見た?


 既視感の正体を悟ったとたんに、覚えのない気配が、三つ、四つ、……五つ? この部屋を囲んでいることに気づいた。扉の前にいたはずの世話役の気配は感じられない。強烈な『気』の発生源は、まちがいなく私を標的にしている。念には念を入れるにしたって、小娘ひとりに随分と大所帯じゃないのと、顔をうつむけたまま苦笑した。



「出てきなさいよ。逃げも隠れもしないから。どうせ、私、逃げ場なんて持ってない」



 こんどこそ、正真正銘、天音わたしの最期らしい――。


 十分に生きた、と言えるほどの歳は重ねていないけれど、もう十分だ、と思えるほどの生は重ねてきた。だからいい。無駄な抵抗をしようとも思わない。叶うならばあまり苦しまずに逝きたいものだけれど、殺されようとする身で贅沢な願いだろうか。


 なんでもいい。

 早く天音わたしを終わらせて。

 空虚な生のロスタイムから、この無価値な魂を解放して。


 誰にも迷惑をかけずに退場できるのなら、そんな素晴らしい幕切れはない。芝居を終えた役者が長々と舞台に居座ることに意味はないでしょう。だから、早く。


 けれどもしも、この期に及んで、たったひとつ後悔を絞り出すとしたのなら、思い浮かぶものといえば――。



「へぇ、やっと気づいたんだ」



 神楽鈴のように涼やかに鳴る、声。


 その声は、部屋の内側から聞こえてきた。補足していた『気』のどれでもなく、声を発された後でさえも存在を感じられない、――私の真後ろから。



「え……?」



 抗いがたい魔性の響きに吸い寄せられるように、私は振り向いた。その声は人の形をして佇んでいた。見覚えのある黒々としたロングコートに全身を包み、フードを目深にかぶったまま、わずかに覗く口元を歪めて微笑していた。


 ゾクリと、した。

 初めて私は身体の震えを感じた。


 そこにいるのに、いない。たしかに見えているのに、聞こえているのに、存在を感じられない。五感と第六感が矛盾を訴える。いないのに、いる? いる。間違いなく、いるのに。どうして。


 黒フードの人影が、おもむろに一歩つめ寄ってきた。月明りに照らされた口元は、驚くほどに端正な形をしていた。若い、おそらく、青年。骨張った首すじに、一筋の銀髪が垂れていた。透き通るように美しい、白銀の輝き。私は、この色を、知っている?



「つまらない方から片づけようかと思ってたけど、意外に面白そうだね、あんた。いまさら怯えるの?」



 淡白に響く声に、感情を匂わせるような抑揚は一切含まれていなかった。均一でいて美しく、およそ人間の発声だとは思えないような奇跡の調べ。その音に意識がさらわれ、語られる言葉の内容はまったく頭に入ってこなかった。


 “その声は本当に美しいのだろうか?”

 “美しい声とはどんなものだろうか?”


 疑念は浮かんだ端から吹き飛んでいった。美の概念そのものを塗り替えられてしまうような衝撃。けれど目の前の存在が美しいということは自明の理であって、私を支配した衝撃の根源はそんなものではなかった。


 理由を問われてもわからない。ただ全身が震えた。

 それはおそらく恐怖でもなくて、きっと――。


 震える両手をフードへ伸ばすと、青年は驚いたように身体を揺らした。


 視界の端で、青年の手が腰に下げた刀の柄を掴もうとしているのが見えた。


 不思議と恐怖心は湧かない。張り詰めてばかりで、とっくに糸が切れてしまっているのかもしれない。無造作に切り捨てられるのならばそれもいいとすら思えた。


 私の無意識は迷わなかった。


 刀を抜く時間は十分にあったはずなのに、ほんの一瞬、青年は対応を迷った。なぜだかはわからないけれど、私を切り捨てようとした手を止めて、後方に身を引くことを選んだようだった。だから、迷いのない鈍重な私の動きの方が、一瞬早く目的を達せられた。


 フードが、落ちる。

 遮るものがなくなった青年の顔が、驚愕に染まる。



「な――」



 彼自身もわかっていないのだろう。なぜ私を殺しそこねたのか。なぜ私がこんな行動にでたのか。私がなにを考えているのか。私にもわからない。


 見開かれたブルーグレイの瞳。

 月明かりを反射する銀糸の髪。


 なぜだかはわからない。

 なぜだかはわからないけれど、私は知っていた。

 この色を、この美しさを。

 知っていた。いいえ、覚えていた。


 生まれたての雛が親を初めて目にした瞬間の刷り込みのように、かぎりなく本能に近い奥深くに根付いて消えなかった残影が、確かな輪郭をともなって、今、目の前に存在している。幻ではない現実として。


 もしもこれが私の無意識が見せた泡沫の夢なのだとしても、きっと私は泣いて喜んだだろう。けれどこの胸の……言葉にならない、胸の底から熱く湧き上がるような、全身を震えさせる熱量が、理屈ではなく突きつけてくる。夢のような現実感。


 この衝動にきっと名前はない。



「カイ――?」



 確かめるように口にした途端、とうとう私の中の熱は雫となって流れ落ちていった。

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