X. 雪血花※
緋い雪景色というものを、初めてみた。
白く、白く、白く、……どこまでも白く広がった雪景色の上に踊る『緋』のコントラストが、鮮烈に目を引いた。木々も、土も、舞い落ちる葉の一枚ですらも白く凍えた異空間のなかで、その緋は、あまりにも異様な点だった。
そっと、吐きだす息すらも、白い。
なのに、目の前に広がるのは、まぎれもない緋。
――ぶちまけたのは、自ら放った銃弾。
波打つように散らばった長い黒髪も、瞳孔を開いたまま固まったブルーグレイの瞳も、満月に照らし出されたすべてが不気味なほどに美しかった。細い肢体は、なかば雪に埋れて、その中心を穿った穴から零れだす鮮血も、とっくに勢いを失っている。その一角だけが時を止め、先鋭芸術の傑作として枠に収められていたとしても違和感を覚えはしなかっただろう。生きているときから美しい女だったが、まるで完成された芸術品のように、彼女は眠っていた。
美しすぎる死に様だけを、覚えている。
ゆっくりと染み渡っていく真紅の液体から、熱は感じられなかった。それでも、なぜか。流れだす血液の軌道や、雪を染め上げていく速さまで細やかに覚えているというのに、寒さにふるえた記憶は残っていない。
いまいましい記憶であるべきなのに、いつまでも、このひとつだけを、捨て去ることができないまま抱えつづけている。
――だれよりも美しく、だれよりも賢く、だれよりも愚かな女が、氷雪に散った夜のことを。
◆
「ひさしぶりね」
風にふくらんだ黒髪を、耳の後ろに撫でつけて、ミカゲは笑っていた。
「……だろうね」
「何年ぶり?」
「おぼえてると思ってるの」
「いつから仕事してるの?」
「さあ……考えてみれば、うまれたときから、だったのかもね」
ブルーグレイの瞳が、鏡のように僕を映した。
「――じゃ、その銃をはじめて握ったのは、いつだった?」
引き金を引く。
咆哮。
【BR】が震える。
着弾した地点の雪が、不自然に焼けて削がれた。
常にない反動を受けた腕が痺れている。
無機物では『喰らい』足りなかったのか。
相棒は不満を訴えている。
どうしようもなく貪欲な薔薇は、標的を仕留めそこねた所有者を、その茨で容赦なく締めつけてきた。
早くしろと、急かされている。
おなじように、早くしろと、耳奥で囁く奴もいる。
なにもかもがうるさい。
「――いま、どうして外したの?」
「つぎは当てるよ?」
ブルーグレイの鏡に、銃口が映る。
ミカゲはなにも言わない。
【BR】を胸の前で構えたまま、じっと標的の眼を見る。
自分の姿など碌に見たことはないけれど、彼女の瞳のなかに移った無表情な少年は、彼女自身によく似ていた。そっくりおなじ色の瞳をして。
――やれよ、と奴がわめく。
急かすように相棒もカタカタと揺れる。
そのつもりだからだまってろよ。
いっそお前が代わればいい、と思うのに、奴は鼻で笑って引っこんだ。
どいつもこいつも勝手だ。
手の中で【BR】はまだ震えている。
そんなに喰らいたいのか、馬鹿な女の命を。
「ばかだね……どうしてB-Bを出たの? こうなるって、わかってたんでしょ?」
「銃口を向ける我が子? ……それも悪くないよ」
「あんたを親だと思ったことはない」
「そうだろうね」
ミカゲは落ち着いていた。
上級Aクラス――まともな人間のなかでは、最上級に位置する一団をまとめていた女だ。
この期におよんで、まだ平然と立っている。
月光を集めて立つような、凛とした佇まいに、募るのは憎悪ばかりだった。いまいましい、と睨みつければ、ミカゲはゆるりと口角を上げる。
「殺すなら早くしな。うちの奴らと鉢合わせたら面倒くさいよ」
「いいよ。じゃまするなら、まとめてやる」
「手をかけなくていいものにまで手をかけるんだね」
「だからなに」
「いいや、好きにすればいいさ」
落ち着きすぎた口調に、気色のわるさを覚えた。
なんで喚かない。なんで暴れない。
だれもかれも死の淵に立てば、みっともなく這いずりまわるのに。
なんで。
「……なんで、にげないの?」
「譲れないもののために死ぬのは、仕方ないことだよ……お前にはわからないだろうね。これは人の性。人の弱さ。人の強さ。お前たちには、わからない」
ミカゲは、ふと声を沈めて、言った。
「――大切なモノをみつけたとき、人は守りたいと願う」
とつぜんの語りに、銃口が揺らいだ。引き金にかけた指が、蒼白に凍えたまま、固まる。
「そのためなら、どこまでだって愚かになる。……いいや、そもそも人間なんて愚かなものだけどね。あたしだって、その一人だった……それだけだよ」
「あんたの、たいせつなモノ?」
「そう。あたしは大切なモノが多すぎた。結局、なにもかも失ってしまうほどにね……お前は無いのかい?」
「…………」
「いつかお前も大切な人を見つけるだろう。そのときには、わかるかもしれないね」
勝手な、ことを。
よりにもよって、あんたが、それを言うのか。
堪えきれない笑いが、喉の奥から溢れてくる。
「わからないよ……わかるはずもない。たいせつなヒト? ……まさか、たいせつなモノすらもないのに」
なにも持っていなかった。
名前も居場所も生きる意味も。
ようやく連れだされた光ある場所で、与えられたのは、無差別に命を喰らう化け物じみた『薔薇』一輪。
奪うことだけを、許された。
望まれた。
だから奪った。
奪いつづけた。
なにひとつ手に入れはしないまま。
「――そうしたのは、あんただ」
考えるのはつかれる。考えるほどに絶望するのなら、いっそすべて投げだしてしまった方が楽だ。身を任せてしまった方が楽だ。
憎しみに溺れたんだよ、もうね。
しっかりと身体の中心に【BR】を構えなおせば、ミカゲが笑う。切望するような瞳をして、笑う。
「かわいそうなsilver-wolf。【銀の鍵】になんて生まれなければよかったねぇ……。謝ってなんてあげない。悪いとも思っていないもの。でもねぇ、カイ。覚えておきなさい。人間なんて脆いものよ。人の心なんて……」
ああ、まったく。
耳障りだ。
「バイバイ、――『母さん』」
牙を剥いた薔薇のトゲは容赦無く、美しい女を貫いた。
身体の中央、やや左。
左心室を捉えた弾が、向こう側に抜けてすぐに消える。
衝撃はほとんど返らなかった。おそろしく強靭な意識に支えられた身体が、大きく揺れて、うめき声ひとつ漏らさないまま崩れ落ちた。――その一連すらも、冗談のように美しい。
【Bloody-Rose】は震えない。
満足げに沈黙した悪食な悪魔を、そっと下ろす。
「……KAI?」
聞き覚えのない音律を、ぽつりとくりかえす。
緋い雪の上に眠ったミカゲは、なにも答えない。
答えは二度と戻らない。
どうして最期に、母と呼びかけたのかさえ、わからない。
立ち尽くした雪の上。
――はやく堕ちてきなよ、と、奴が笑った。
◆
いつのまにか窓ガラスを叩きはじめた雨粒を、ぼんやりと見つめていた。自室の出窓に腰を落ちつけてから、どれだけの間そうしていたのか。流れていく。ガラス戸を伝い、蛇行しながら、いくつもの筋が流れていく。内側から指を添えようとした刹那、その一粒一粒が緋く染まって見えて、ためらった。
雨粒の軌跡をなぞることは辞め、刃を清めた【scar】を胸に抱きなおすと、額をガラスに預けた。冷たい夜空を背景に浮き上がる異彩――あの女に連なる、忌々しい青灰の瞳。こんなものが映り込んでいたから、見たくもない夢が蘇ったのだろう。
そうだ……あれは亡骸さえも美しい女だった。顔の造作など記憶にないのに、ただ美しいと感じたことだけを覚えている。美しくも愚かな、まとわりつくような声音をした――、不快な像を断ち切るように瞼を下ろし、雨音だけに耳を澄ませる。
静かな夜だった。街角の喧騒は、この階までは届かない。おなじ世にありながら、空高く隔離された箱のなか。降り注ぐ雨だけが、天地を結ぶ。厚い雲に覆われた空は、夜気に包まれた地上よりも深い――底なしの闇のように思えた。
あれも、夢だろうか。雲間から顔を出した月の光が、この部屋に差し込んだ一瞬に。
名を――呼ばれたような気が、した。
ありえない、と呟いて、肩の力を抜く。もしもこの身を手招くとしたら、それは闇の深淵だろう。業にとらわれて落ちるばかりの、底なしの縦穴こそが相応しい。俗世の欲にふりまわされて中途半端に繋がれるより、いっそ鎖すら届かない場所に囚われていたかった。地上で踊る道化に混ざるよりも。
青灰の残像に、敵意に満ちた少年の声が重なって響く。
――きみは今日から僕たち道化の一員だ。
まったく、耳障りでたまらない。
奪うこと。壊すこと。くりかえし重ねつづける罪に理由を問われたら、他になにがあるのかと問い返すだろう。淡々と作業をくりかえす。生みの母を殺めた、あの夜から、変わらぬ日常を機械のように。
「なにもかも……くだらない……」
見下ろす手の内に、遺るものなど。
なにも。




