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IX. 月の檻※

 窓の外に降る雨を数えて、延々と凍った時を過ごしていた。退屈まぎれに吐きかけた息は、その都度ガラスを真白く薄雲らせていく。指先で描くデタラメな軌跡に沿って流れ落ちた水滴が、窓枠に溜まる。この水はどこへ消えるのだろう。どこにも消えることなく、部屋の空気に解けていくの? あなたも私も不自由ね。それとも私を置いて、私から生まれた水分は、外の空気と馴れ合うの?



「きゅうくつな、檻……」



 外は寒いですからと言って、テラスに出る扉は固く閉ざされた。お嬢様に風邪を引かれては旦那様に申し訳が立ちません、なんて。笑わせる。


 私が倒れて困ることなんてないでしょう?

 私がいなくて困ることなんて。


 お父様は清々するでしょう。消すに消せず、いつまでも抱えつづけた負の遺産を葬れて。鳥籠というには広すぎる、贅沢な別館が私の世界。年々締めつけの増す鎖に囚われて、そろそろ呼吸も忘れそう。


 それでも、まだ、生きている。

 この鼓動は脈を打つ。白い肌に青く浮かんだ血管に、粛々と血液を送りつづける。

 酸素はまだ、潰えない。


 私の利用価値とリスクがつり合うのは、あと何年だろう。姉の古着を身にまとったまま、どれだけ生きればよいのだろう。


 死んだってよかった。殺してくれるなら。終わらせてくれるなら。それでよかった。


 なのに、どうして。



「月が……綺麗……」



 白銀の澄ました輝きを見るだけで、思い出す夜がある。

 思い出す瞳がある。


 闇に浮かんだ一対のブルーグレイ。月光を反射したシルバーブロンド。

 深い深い森の入り口で、ほんの一瞬見つめあった、少年の姿が忘れられない。


 遠い、記憶だ。


 ひとはそれを悪夢と呼ぶのかもしれない。いつまでも脳裏に焼きついて離れない光景。とても、残酷。そして、無慈悲な。


 けれど、彼はとても――美しかった。




  ◆




 抜き身の刀身に、光の波紋が広がる。


 目がくらむほどの赤を散らしながら、無造作に振り上げられた刃。闇に浮かぶそのコントラストが、思いのほか美しく見えたことを覚えている。


 月の光をまとった銀糸の髪を、風がさらっていく。瞳に映るすべてが、圧倒されるほどに綺麗だった。


 ――囚われた。


 凍てついたブルーグレイの瞳と視線が絡まった瞬間。もう逃れられない、と、それだけが頭をよぎった。


 遠い日。夢か現か。信じられないような非日常を、私はただ呆然と甘受した。衝撃と、感動。追いかけた兄はもういない。代わりに、美しい月の悪魔が、そこにいた。


 あれは、いつだったか。どこだったか。どうして、私はそこにいたのか。――わからない。


 穴だらけの記憶の中で、少年の姿だけが色鮮やかに思い浮かぶ。銀色の髪。ブルーグレイの瞳。感情の欠落した、圧倒的な美。


 それから、撒き散らされた、一面のアカ。


 物言わぬ骸と、血塗れの日本刀。深い深い森の奥地で、そこだけに、まるでスポットライトのように月光が降り注いで。


 赤い切っ先が振り向くのを、目を見開いたまま待っていた。声をあげることも忘れて。


 何も言わなかった。私も、彼も。二人がかりでだって手を回せないような巨木の幹に囲まれて、すこしだけ開けたその舞台を、静かに見つめていた。


 虚無な瞳に誘われるように、私は一歩踏み出した。ぐしゃり、嫌な音が鼓膜を打った。鮮血に染められた草が、靴の下で悲鳴をあげた。


 兄であったモノが、少年の足元に落ちていた。なんだか感覚が麻痺してしまっていて、私はたぶん、何も考えていなかった。


 ぞくり、と背筋が震えて、今さら立ちすくんだ私を、彼はやはり、凪いだ瞳で見つめていた。


 ブルーグレイの鏡面。底が見えない、淡い瞳。


 心が打ち震えた。背筋をはい上がる、この感情は。恐怖と似ていて、でも、違う。本能に刻み込まれるような、……畏怖だ。


 ブルーグレイの鏡の中で、幼い私が笑う。


 無邪気に。


 わかっていた。これから自分が、地に伏せる兄と同じ肉塊になるだろうことは。


 それでもいいと思った。最期を看取るのが、この美麗な月だというなら。それは、とても贅沢なことに思えた。


 すこしだけ、彼の表情が動いた。突きつけられた刃が、震える。


 やがて、無言のまま、彼は切っ先をおろした。


 お人形よりも綺麗に整った顔が、複雑にゆがんで、私との間の、わずかな距離を一瞬でつめた。



「きて」



 涼やかな声が響いて、二の腕が、ぐっと引かれた。


 わけがわからないまま、少年に腕を引かれて、木立の間を駆け抜けた。見たことのない早さで景色が流れ、ときおり、つんのめる私を、迷惑そうにブルーグレイの鏡が映した。


 永遠のようでいて、一瞬のような、時間。いつの間にかたどり着いた森の出口へ向けて、私を突き飛ばすと、彼はすぐに踵を返した。



「わたし、あまね。あなたは?」



 一拍おいて、ひとり言のような微かな答えを、風が運んできた。



「カイ」



 シンプルな黒いコートが、風をはらんで膨らむ。


 一度、まばたきをすると、月光に煌めく銀髪がフードの中に消えた。


 次に、まぶたを下ろせば、カサリ、と乾いた音がして。――目を開けたときには、もう、ひとの気配は消えていた。


 おどろおどろしく口を開ける深森を見つめながら、地面に座りこんで、そっと、彼の名を呟いた。



「かい……」



 とても綺麗で残酷な、月の悪魔。兄を殺して、私を見逃した。私は、彼に――生かされた。


 早鐘を打つ心臓に、後戻りのできない深みへと落ちつつある感情を、悟らされた。

 囚われた。あの夜に、あの月に。私のすべてを、銀色の悪魔がさらっていったのだ。




  ◆




天音あまねさま……」



 あきれ声で窘められて、ふと意識が浮上した。部屋の入り口には、長い付き合いの老婆が立っている。うそ、扉を開かれるまで気づかないなんて。……あまりにも恋しい悪夢だから、ずっと沈んでいたかったのかもしれない。


 窓枠にもたれかかったまま眠ってしまっていたらしい。ガラスに触れていた頬は氷のように冷えきって、膝の上にそろえた手指はすっかり色を失くしている。


 身体を起こすと、無理な体勢で椅子に座りつづけた腰は、いやな軋み方をする。足元に流れたロングドレスの裾は、結露した雫に濡れていた。


 私が気づくよりも早く見咎めた老婆は、澄まし顔を崩さないまま、穏やかな口調で釘を刺す。



「本日は大切なお役目があると、私はたしかに申し上げましたよ」

「お姉様の代役でしょう……覚えています」



 どこか納得していない様子で、それでも身振りだけは完璧な儀礼をつらぬいて頭を下げる老婆に、ヒラヒラと手を振る。



「時になれば参ります。迎えは不要」



 居丈高な姉の口ぶりを真似て告げると、老婆が眉を顰めた。



「天音さま」

「アマネ? どなたかとお間違えではないかしら」



 ああ、なんて茶番だろう。

 私は私の存在を否定する。私の言葉で。



椎名しいな家にそのような者はおりませんわ」



 姉にそっくり似せた笑みを貼りつけながら、たとえようのない虚しさに浸った。


 神様なんて信じてない。欲しいものなんてなにもない。理由も目的もない日々は、生きれば生きるほど虚しくて、だけど虚しさを埋めたいわけじゃないの。姉になりたいと思ったことはない。もしもひとつ、願うならば。


 ――ただ、兄になりたかった(悪魔に会いたかった)

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