闇の同胞
――命は、金で買える。
黒檀のデスクに、月光が降りそそいでいた。なめらかな光沢を写した天板の上に、ばさりと一組の書類が投げだされる。一枚の顔写真の横には、一生分の軌跡が粛々とつづられていた。月明かりを背にした一人分の影に覆われた紙の上を、青黒いインクで記された文字列が蛇のように這っているのだ。
――人の生き死にを決めるのは、『神』であるとは限らない。
紙の束を無造作に放った手指は、そのまま自然な軌跡を描き、おもむろに紙面上の一点を指し示す。年齢を感じさせないほっそりとした指先は、巨額の数字が記されるべき欄を一閃した朱墨を、愛撫するようになぞっていく。
――人の生き死にはときとして、紙切れ一枚で取引される。
奪うための金額は、奪われるための金額へと堕ちていた。高値がつくのは常に『死』だ。すばらしい『生』に値はつかない。朱く裂かれた命の査定額はとてもわかりやすく、つまり値がつけられない。高価? いいや、無価値。査定すること自体ばかげてるってこと。
――吹いて飛ぶような『紙』に左右される命は、それよりもさらに軽い。
月を背にした女が笑う。肘をついた片手に頬をあずけながら、闇のような黒髪を机上にながして、うっそりと妖艶に口角を持ち上げる。幕板の奥に隠れた脚は、いつものように悠然と組まれ、洗練された曲線美をさらしていることだろう。
美しい女だった。
記憶にあるかぎりの昔から変わらず、美しい女だった。シワのひとつも刻まれていない顔立ちの艶は、母性にはほど遠く、四十ちかくを数えるであろう現在でさえも、まちがいなく彼女は『女』でありつづけていた。悪魔のように。
「――殺せ」
毒蛇のように絡みつき、ねっとりと染みこんでくる独特の声音が、広くはない室内に響く。月のみが照らし出す暗闇のなか、美しく整えられた爪先に弾かれた書面が、ふわりと泳いで、俺の足元に静止した。
「いらない」
拾い上げもせずに吐き捨てれば、女――柘榴は、わざとらしく眉を上げた。
「CodeName:イザ。階級は上、所属クラスはB、めぼしい実績は――」
「うるさいな、耳ざわり」
一方的に暗唱される情報をさえぎって、絨毯の上に鎮座する無帽正面の顔写真を踏みつける。昏くギラついた目つきは靴底に敷かれて、見慣れた黒いロングコートの襟元と、爛れた経歴だけが月のもとに晒されている。
心底どうでもいい。そのまま足首をひねって、告死の紙様を踏みにじった。いちいち顔を覚える必要もない。名前も、階級も、軽い命にくっついた軽い符合など、どうせ軽々と意味を失うのだから。
「また上級B? 最近、緩んでんじゃない」
「おや、記憶力の良いことだねぇ」
「ぜんぶあんたが回した案件だろう」
「さあ、どれのことやら」
「――狸が」
柘榴は、妖艶に笑みを深めた。
「簡単なことだ。緩んでいるならば、締めれば良い」
いやな声だ。深々と耳の奥に染みついて離れない、蛇のように這いずり、ねっとりとまとわりつく、いやな語り口。――カ――ゥナ、シ――フ。ずきり、と頭部が疼く。――ニナンテ、――レバ。うるさい。うるさい。うるさい。アヤマ――、――モノ。――エテオキナ――。ああ、耳ざわりだ……。
「キサヤ」
黒曜石のような瞳が、正面から俺を射抜いていた。月明かりになじむ銀の髪、白い肌、鏡のような青灰の瞳――いまわしい色彩が、漆黒の海のなかに映りこむ。
認識した途端に、無感動な能面が、キッと険を帯びたのがわかった。
いまわしい記憶を封じるように、そのまま目蓋を下ろす。――あの女はいない。もういない。鏡のなかに月のような色彩だけを遺して、緋い銀世界に散っていった。顔すらも覚えていない遠い日のこと……。
短く息を吐く。悟られれば面倒だ。柘榴はなんと言っていたか。――締める?
「“俺”が?」
「ああ、もちろん。――仕事だよ」
「……。OK,boss.」
すべてを見透かしたような眼をして、ただ笑みを深める食えない女に、了承の言葉を返す。
逆らうことは無意味だと知っている。どうせ俺にも『値札』はない。朱墨に染められた履歴書とおなじ、考えるまでもなく値がつかない特価品。高価か無価値かは紙一重。いまさら咎がひとつ増えたところで、俺の世界は変わらない。
また、蛇が口を開く。赤い口紅の奥に、赤い口内が見える。赤い、赤い、赤い。聞こえてくる声まで血糊をかぶっているようだ。赤い。赤黒い。――死の色。
「わかっているだろうね? “裏切り者には――”」
「“最大限の苦痛と絶望を以って死を与えん”、でしょ」
決して変わりはしない。
いまさら堕ちる先など、ありはしないのだから。
スゥ――と細まっていく黒々とした瞳のなかで、銀色の悪魔が嗤っていた。俺を飼うこの女も、首輪をかけられた俺自身も、しょせんは闇の同胞。陽のもとでは生きられない、おなじ穴の狢ということか。
「そうさ……それでこそ、私の愛すべき道化だよ」
満足げに喉をならす柘榴を一瞥して、ねばついた声音を振り払うように踵をかえした。無口な日本刀を、左手に握りしめたまま。
嗚呼。
まったく、――くだらない、夜だ。
◆
月明かりは等しく降り注ぐ。
「おや、お前からくるとはめずらしい」
「あの秘蔵っ子、とうとうお披露目することにしたんですか」
「なんの話だい?」
「茶番ですね。俺が“読ん”でること、気づかれているでしょう。……なぜ、いまになって彼を堕とそうと?」
「愚問だね。とうに知っているだろう? あれは、本来お前たちとおなじモノ。どちらが上か下かなど、さしたる意味もない。道化の管理は、お前に任せるよ――赤き道化」
「yes, your majesty.――あなたの心のままに」
「千歳。私が憎いかい?」
「まさか。それこそ、馬鹿な質問だ――貴女は俺が殺しますよ。かならずね」
月明かりは等しく暴きだす。
「ツキ。彼を迎えにいってくれないか」
「僕が?」
「柘榴が決めたことだ、――唯十」
「ふぅん……、仕事、なんだ」
「ああ。気をつけて。寄り道せずに帰ってこいよ」
「アキは、僕をなんだと思ってるの」
「一番の放蕩息子、かな。不満?」
「……。いってくる、けど、うっかり殺したらごめんね? アキ」
「安心しろ、お前は殺さない。――そうでなきゃ、俺が行かせるはずないだろ?」
「いやなチカラ……未来が正直だなんて、だれが決めたの」
「正直者なわけがないさ。嘘か本当かの二分ですべて片づくのなら、俺たちはきっといらなくなる」
「どうせ、馬鹿なだれかが拾いたがるよ。人間は、欲深いイキモノだから。僕らの『鎖』を引く権利は、とんでもない高値で取引されてるんでしょ?」
「そのときは、鎖を引きちぎりにいってみてもおもしろいかもな」
「アキは、よくわからないね」
「そう?」
「心にもないことしか言わないでしょ。……あんたが鎖を捨てるときがくるとしたら、それはあの女の喉を食い破るときだけじゃん」
月明かりは等しく飾りたてる。
「――もう、もどらへんのやろな」
「クロ?」
「言うてみただけや。意味はない」
「……いまさら、でしょう」
「ともにここまで堕ちた……か。いうても、俺ら、引きずりこまれたんとちゃうよ。望んで飛び込んだやないの」
「だからこそ、――つまらない感傷は、お門違い」
「こわいこわい。さっすが【氷帝】サマやわ。耳もとで空気がピシピシ悲鳴あげとる」
「ふざけないで。あなたも【揚羽】なら、『使役』してあげましょうか? つまらない考えを抱かないように」
「――それこそ、いまさらだな」
「あなた、なに考えてるの」
「ハクちゃんには関係ない話やろ? ほな、道化は道化らしゅう踊らしてもらいます」
「ッ――閃!」
「瑠香と千歳、――のことだけ考えとるよ。俺の一番は、ハクでも、アキでも、ないねん」
月明かりは等しく奪い去る。
「おわったよ。ヒナ姉」
「そうね、……帰りましょうか」
「もう一個、いいの?」
「だめよ、ツチ。生きていても死んでいても、人を数えるのに『個』は使わないの」
「ただのモノなのに? 変なの」
「言葉は人間のものだから、人間が特別なのはあたりまえのことなのよ」
「ふぅん、じゃ、『もう一人』終わらしていこうよ。あたし、まだやれるよ? それで、クロ兄に褒めてもらうんだ――!」
「ねぇ、ツチ。……あなた、考えたことはない?」
「なにを?」
「どうして人は生きるのか。どうして人は死ぬのか。――どうして、殺すのか」
「なにそれ。私は生きてて、生きてるから殺すし、生きてるから死ぬんでしょ?」
「死ぬの?」
「まだ死なない。死んでもいいけど生きてるから殺すの。クロ兄が生きてるから生きるの。クロ兄に言われたから生きてるの。よくわかんないよ、むずかしいことは」
「クロは、生きてなんかないわよ。彼は、ふらふら飛びまわっている標本みたいな人だもの……きっとサナギのなかに、なにもかも置いてきたんでしょうね」
「呼吸してれば生きてるんだって。生きとるか死んどるかわからんようなったら、生きとるっちゅうことやからとりあえず息吸っとけって」
「クロが?」
「そう。いつ死んでもええけど、いま死ぬん? って笑ってたんだ。人間なん、無価値のまま死ぬか、金産んで死ぬか、金払って死ぬか、そんくらいしかないって、クロ兄言ってたよ」
「そうでしょうね、彼なら」
「……?」
「なんでもないわ、いきましょうか。【烈姫】」
月明かりは等しく狂いたてる。
◆
「あんたがイザ? ――それじゃ、つまらないアソビを始めようか」
深い深い森の奥。闇に覆われた世界に、ぽつりと取り残された月光の舞台で、道化の舞踏を始めよう。撒き散らす血しぶきに、遠い記憶が浮かんでは消える。不快。くだらない。なにもかも。――ねぇ、あんたも道化なら。
せいぜい愉しませてよ、この俺を。
道化の鎮魂歌
――Clown's Requiem――
無意識に伸ばした指先は、つめたい窓ガラスに隔てられて、銀色の輝きをまとう月には届かない。あんなニセモノにすら焦がれてやまないなんて、もう。
「惹かれている、どころじゃないね」
――その存在に、溺レている。
抱えた膝に頭を埋めて、くるはずもない救いを待って、……馬鹿みたい。それでも神との縁より、悪魔との縁を望むだなんて、私は本当に救いようもない馬鹿だ――。