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婚約破棄は五度目ですが——今度こそ"あなたを選ばない未来"だけを選びます

作者: カルラ
掲載日:2026/05/06

 燭台の炎が揺れるたびに、水晶のシャンデリアが虹色の光を床に散らした。

 王都随一と謳われるアルディア宮殿の大広間には、王国の貴族たちが一堂に会していた。絹のドレス、宝石の首飾り、香水と蜜蝋と汗の混じった空気。エレノア・ヴァンドール公爵令嬢は、それらすべてを少し遠くから眺めるようにして、広間の中央に立っていた。

 向かいには、王太子ユリウスがいた。

 金の刺繍を施した白い礼服。整えられた栗色の髪。見目麗しい顔に浮かんだ表情は——これも見慣れたものだった。困惑と、決意と、どこか安堵の混じった、あの表情。

「エレノア」

 彼が口を開いた。広間が静まり返る。周囲の視線が集まるのを、肌で感じた。

「君との婚約を、破棄させていただきたい」

 どこかで誰かが息を呑んだ。扇が閉じられる乾いた音がした。

 エレノアは静かに、彼の顔を見た。

 ……ああ、これで五回目ね。

 心の中でそう呟いて、彼女はゆっくりと瞬きをした。怒りはなかった。悲しみもなかった。驚きは——とうの昔に、どこかへ消えてしまっていた。

 ユリウスは続ける。隣には、侯爵家の令嬢が寄り添っていた。薄紅色のドレス。潤んだ瞳。庇護を求めるように王太子の腕に触れるその手を、エレノアは一瞥して、視線を戻した。名前は知っている。顔も知っている。これで三度目に会う女だった。

「彼女を——アメリアを、愛している。君には申し訳ないと思っているが、偽りの婚姻は彼女にも君にも不幸だ。どうか、理解してほしい」

 よく練られた言葉だった。

 初めて聞いたときは、その言葉に胸を刺された。二度目は、怒りで頭が白くなった。三度目は、笑いが込み上げた。四度目は、ただ疲れた。

 そして今、五度目。

 エレノアの胸にあるのは、凪いだ湖面のような——何もなさだった。

 広間の視線が痛かった。憐れむものも、蔑むものも、面白がるものも、すべて混じって彼女に注がれている。公爵令嬢が王太子に婚約を破棄された。これ以上の見世物はない。

 エレノアは、一度だけ深く息を吸った。

 そして、何も言わなかった。


 最初のやり直しのことを、エレノアは今でも鮮明に覚えている。

 あの夜も今夜と同じ広間だった。同じ燭台、同じシャンデリア、同じユリウスの言葉。違ったのは、エレノアが泣き崩れたことだ。五年間の婚約。十二歳から積み重ねてきたすべてが、たった一文で終わった。広間の床に膝をついて、声を押し殺して、それでも涙が止まらなかった。

 その後、何が起きたか。

 彼女の家は風評に晒された。破棄された令嬢、と陰口を叩かれた。縁談は遠のき、父は老け込み、弟は肩身の狭い思いをした。エレノア自身は、自室に閉じこもって一年を過ごした。何もできないまま、ただ時間だけが流れて、それで終わった。

 二度目のやり直しは、傷つくまいと決めた。

 今度こそ完璧な令嬢になろうと思った。作法を磨いた。社交を極めた。ユリウスの好む話題を研究し、彼の周囲に目を配り、彼が必要とする場面で必要なことをした。国政の知識も身につけた。婚約者として申し分ない女になった——と、自分では思っていた。

 それでも、婚約は破棄された。

 同じ言葉で。同じ広間で。同じ女が隣に立って。

 三度目は、復讐を選んだ。

 アメリアの評判を落とした。ユリウスの側近に取り入った。宮廷の情報網を張り巡らせ、証拠を集め、二人の逢引きを公にした。醜聞は広がり、アメリアは社交界から姿を消した。ユリウスは彼女のもとに残った。

 婚約は——やはり破棄された。

 「君のやり方は好きではない」と、ユリウスは言った。エレノアは笑った。笑うしかなかった。勝ったと思っていたのに、気づけば胸の中は空洞になっていた。勝利の形をした、虚無だった。

 四度目は、何も感じないようにした。

 感情を殺して、完璧な人形になった。令嬢として、婚約者として、一点の非もない振る舞いを続けた。怒らず、泣かず、乱れず。鉄の仮面を貼り付けて宮廷を歩いた。

 三年間、そうして過ごした。

 結末は、同じだった。

 ユリウスは同じ言葉を言った。エレノアは何も感じなかった。それで終わった。

 何をしても、この結末は変わらない。

 五度のやり直しを経て、エレノアが辿り着いた結論はそれだった。ユリウスはアメリアを選ぶ。それが、この世界の定められた形なのかもしれなかった。あるいは、彼がそういう人間なのかもしれなかった。理由はどうでも良かった。もう、考えることに疲れていた。


 「エレノア嬢」

 ユリウスの声が、また聞こえた。

 沈黙が長すぎたのだろう。王太子が眉をひそめている。周囲もざわめき始めていた。令嬢が倒れるのを待っているのか、泣くのを待っているのか、怒鳴り声を上げるのを期待しているのか。

 エレノアは静かに、裾を持ち上げてお辞儀をした。

「……承知いたしました」

 それだけ言った。

 弁明はしなかった。抵抗もしなかった。引き止めなかった。何か言おうとして口を開きかけたユリウスを、一度だけ見て——それから視線を外した。

 広間がしんと静まり返った。

 エレノアは背を向けて、歩き始めた。衣擦れの音だけが静寂に響いた。誰も、何も言わなかった。人の海が自然に割れて、道ができた。

 扉を抜け、廊下に出る。

 外の空気は冷たかった。夜の風が頬を撫でた。エレノアは立ち止まって、一度だけ空を見上げた。星が出ていた。よく晴れた夜だった。

 ユリウスが少し戸惑ったような顔をしていたのを、思い出した。

 今まで一度もなかった顔だった。泣かれることも、怒鳴られることも、無言で人形のように立ち尽くされることも、彼は経験していた。けれど、こんなふうにただ「承知しました」と言って去っていく婚約者を——彼はまだ、知らなかった。

 エレノアは小さく息を吐いた。

 白い吐息が、夜に溶けた。


 馬車には乗らなかった。

 屋敷に戻るつもりも、なかった。

 エレノアは宮殿の裏門を出て、そのまま王都の夜道を歩いた。豪奢なドレスで石畳の道を歩くのは馬鹿げていたが、どうでも良かった。侍女たちが後を追ってくる気配があったが、振り返らなかった。しばらくして、足音は消えた。

 歩きながら、考えた。

 屋敷に帰れば、父が待っている。弟が心配する。使用人たちが気を遣う。婚約破棄の後処理が始まる。縁談の話が持ち上がる。また「エレノアらしくあれ」という重力の中に戻っていく。

 ——それが、嫌だった。

 嫌、という感情が残っていたことに、エレノア自身が少し驚いた。摩耗しきったと思っていたのに、まだこんな気持ちが底の方に残っていたのか。

 ならば、使おう。

 翌朝、エレノアは王都を発った。

 父への書き置きは一枚だけ残した。しばらく旅をします、と。理由も、行先も、書かなかった。荷物は小さな鞄ひとつ。令嬢らしい衣装は脱いで、旅装に着替えた。宝石は外した。髪も簡単に結い上げた。

 馬車に揺られながら、エレノアは窓の外を眺めた。

 王都の尖塔が遠ざかっていく。金と石でできた、重い街。五回生きたその場所が、朝靄の中に沈んでいった。

 不思議と、涙は出なかった。

 悲しくも、悔しくも、なかった。ただ——軽かった。胸のどこかが、ふっと軽くなっていくような感覚があった。

 目的地は決めていなかった。

 ただ、王都から遠い場所へ。誰も自分を知らない場所へ。エレノア・ヴァンドール公爵令嬢として生きてきた二十年間とは関係のない場所へ。

 馬車が街道を走るにつれ、街の喧騒が消えていった。木々が増えた。鳥の声がした。風の匂いが変わった。

 エレノアは目を閉じた。

 眠くなったから、眠った。誰かに起こされる必要のない眠りだった。起きる時間は、自分で決める。

 それだけのことが——こんなにも、静かだった。


 辿り着いたのは、王都から馬車で三日ほどの小さな町だった。

 リンデンと呼ばれるその町は、地図に載っているかどうかも怪しいような場所だった。丘の麓に家々が寄り集まり、広場には古い噴水があり、週に二度だけ市が立つ。それだけの町だった。

 エレノアが馬車を降りたとき、御者が不思議そうな顔をした。

「こちらでよろしいので? お嬢さん、お知り合いでもいらっしゃいますか」

「いいえ」

 エレノアは鞄を持ち直した。「ただ、降りたくなっただけです」

 御者はしばらく彼女を見ていたが、やがて何も言わずに馬車を走らせた。

 残されたエレノアは、広場の噴水を眺めた。水が細く流れ落ちている。石の縁に鳥が一羽止まって、首を傾けてから飛び去った。

 宿を探した。

 町に宿屋はひとつだけあった。看板の文字が少し剥げていたが、中は清潔で、女主人は人のよさそうな中年の女だった。エレノアの格好を一瞥したが、余計なことは聞かなかった。

「朝食つきで銀貨二枚。長く泊まるなら少し安くするよ」

「では、ひと月ほどお願いします」

 女主人がまた一瞥した。それだけだった。

 部屋は狭かった。窓から見えるのは、隣家の石壁と、その向こうにわずかに覗く空だけだった。ベッドは堅かった。枕は少し黴臭かった。

 エレノアはベッドに腰を下ろして、部屋を見回した。

 公爵家の自室とは比べるべくもない。侍女も、化粧台も、天蓋も、暖炉の上の肖像画も、何もない。あるのは、ベッドと小さな机と、揺れる蝋燭だけだった。

 それで、十分だった。

 夜、エレノアは初めて、誰にも起こされずに眠った。朝、目が覚めたとき、窓の外は明るかった。時刻を知ろうとして——時計がないことに気づいた。

 しばらく、天井を見つめた。

 今何時だろう。分からなかった。分からなくて、良かった。


 最初の一週間は、ただ空虚だった。

 何をすればいいのか、分からなかった。令嬢として生きてきた二十年間、エレノアの時間はいつも誰かに設計されていた。作法の稽古、語学の勉強、社交の予定、婚約者との会合。すべてに意味があり、すべてに目的があり、すべてに評価がついてきた。

 ここには、何もなかった。

 朝食を食べた。女主人が出してくれたパンは少し焦げていて、スープは薄かった。悪くなかった。広場をぶらぶらと歩いた。誰もエレノアを見なかった。あるいは見たとしても、「旅人が一人いる」という程度のことで、すぐに視線を外した。

 公爵令嬢として生きていた頃は、どこへ行っても視線があった。値踏みする目、羨む目、媚びる目。それらすべてに対して、常に何かを返さなければならなかった。笑顔か、威厳か、愛嬌か。エレノアという役割を、演じ続けなければならなかった。

 ここでは、何も演じなくていい。

 誰も、何も、求めてこなかった。

 それが最初は怖かった。自分が消えてしまうような、奇妙な感覚があった。役割のない自分は、何者なのか。令嬢でもなく、婚約者でもなく、誰かの娘でも、誰かの姉でも、誰かの駒でもない自分は——いったい、何なのか。

 三日目の夕方、広場のベンチに座っていたら、子供が転んだ。

 石畳に膝を打ちつけて、わあっと泣き声を上げた。エレノアは反射的に立ち上がって、膝をついて、子供の顔を覗き込んだ。

「大丈夫? 見せて」

 膝は少し擦れていたが、大した怪我ではなかった。ハンカチを当てて、そっと押さえた。子供がぐずぐずと泣きながらエレノアを見た。五つか六つくらいの男の子だった。

「痛い?」

「……うん」

「もう少しで止まるから」

 しばらくそうしていたら、子供の泣き声が小さくなった。遠くから母親らしき女が駆けてきて、礼を言った。エレノアはただ首を横に振った。

 子供が去っていくのを見送ってから、ベンチに戻った。

 ハンカチを見た。少し汚れていた。

 何をしたわけでもない。ただ転んだ子供の膝を押さえただけだ。誰かに褒められるようなことでも、評価されるようなことでもない。令嬢としての務めでも、何かの目的のためでもない。

 ただ、目の前の子供が泣いていたから。それだけのことだった。

 エレノアは気づいた。自分が、少し笑っていることに。


 二週目になると、少しずつ町が見えてきた。

 朝、宿を出ると石畳の道に光が差している。パン屋が店を開ける頃に香ばしい匂いが漂ってきて、それが朝の合図だった。老爺が店の前を掃き、井戸端で女たちが話をして、子供たちが猫を追って路地を走る。

 エレノアは毎朝、パン屋に寄るようになった。

 主人は五十がらみの、太った気のいい男だった。最初は「お嬢さん、どちらから?」と聞いてきたが、エレノアが「旅の途中で」とだけ答えると、それ以上は聞かなかった。代わりに毎朝、「今日はライ麦が焼けたよ」とか「蜂蜜を入れたから試してみな」とか、そういうことを話してくれた。

 答えるうちに、エレノアは少しずつ言葉を取り戻していった。

 令嬢としての言葉ではない。計算されていない、ただの言葉を。「美味しいです」とか「少し酸っぱいですね」とか「明日も来ます」とか。そういう、何の意味もない言葉が、口から出るたびに、胸の何かが柔らかくなっていった。

 市が立つ日には、広場が賑わった。

 野菜、布、陶器、干した果物。色とりどりの品物が並んで、人々が行き交った。エレノアはとくに買うものもなく、ただ歩いた。立ち止まって、赤いリボンを眺めた。買わなかった。でも、きれいだと思った。

 きれいだと思う感情が、まだ自分の中にあった。

 それが、少しだけ嬉しかった。

 ある日の午後、噴水の縁に腰を下ろして空を見ていたら、隣に誰かが座った。

 若い男だった。エレノアより少し年上に見えた。日に焼けた肌と、作業着の袖。膝に何か木の板を置いて、ナイフで削っていた。

「邪魔?」

 エレノアは首を横に振った。

 男は何も言わずに、削り続けた。エレノアも黙って空を見た。しばらくそうしていて、男が言った。

「いい天気だね」

「そうですね」

 それだけだった。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。男はしばらく削って、やがて立ち上がって行ってしまった。

 エレノアは、その会話のことを夜になっても覚えていた。

 何でもない言葉だった。誰でも言えるような言葉だった。けれど、そこには何も隠されていなかった。値踏みも、計算も、目的も、何もなかった。ただ、晴れた空の話をしただけだった。

 役割のない自分でも、ここにいていい。

 そのことを、エレノアはゆっくりと、少しずつ、理解し始めていた。


 王都では、少しずつ何かが狂い始めていた。

 ユリウスがそれを感じ始めたのは、婚約破棄から一月ほど経った頃のことだ。

 まず、東部の貴族同士が揉めた。土地の境界を巡る争いで、以前なら当事者が直談判する前に誰かが間に入って収めていた——はずなのに、今回は誰も動かなかった。気づいたときには訴状が三通、王宮に届いていた。

 次に、財政の調整がうまくいかなくなった。

 祭の費用と軍の遠征費が重なって、国庫の配分に齟齬が出た。これも、例年ならば誰かが早い段階で調整していた。誰かが数字を確認して、誰かが根回しして、問題が問題になる前に消えていた。

 ユリウスは側近に聞いた。「誰がやっていたんだ」

 側近は少し考えて、言った。「エレノア嬢が、把握しておられたかと」

 ユリウスは黙った。

 それだけではなかった。侯爵夫人への定期的な文と、北部の視察の日程調整と、王妃の茶会への出席者の取りまとめ——気づけば、エレノアがやっていたことの跡が、至る所に残っていた。彼女がいた間は何も問題にならなかったから、ユリウスは彼女が何をしているかを見ていなかった。

 なぜ上手くいかない、という焦りが、じわじわと積み重なっていった。

 アメリアは優しかった。ユリウスを責めなかった。ただ困ったような顔で、「私では分からないことばかりで……」と言った。それは本当のことだった。アメリアが悪いのではない。ユリウスも、そのことは分かっていた。

 ただ——エレノアがいた頃は、分からないことが問題になる前に、誰かが分かっていた。

 初めて、ユリウスはその事実を意識した。

 彼女はどこへ行ったのか。屋敷に問い合わせると、父親も行先を知らないと言った。旅に出た、とだけ書き残して消えた、と。

 ユリウスは窓の外を眺めた。

 なぜか、胸のどこかに引っかかるものがあった。うまく名前のつけられない、小さな不快感だった。


 リンデンに来て、二月が過ぎた頃。

 エレノアは宿の部屋の窓から、夕暮れの空を眺めていた。橙色と紫が混じった色が、丘の向こうに広がっていた。こんなに夕焼けをゆっくり見たのは、いつ振りだろうと思った。

 あるいは、初めてかもしれなかった。

 噴水の男——セオというらしかった——とは、時々話をするようになっていた。彼は家具職人で、町の外れに工房を持っていた。口数が少なく、余計なことを聞かなかった。エレノアが何者かを知らなかったし、知ろうともしなかった。

 ある日、市で迷子になった先ほどの男の子——名前はルカといった——がエレノアの服の裾を引っ張ってきて、「おねえさん、あっちに面白いものがある」と言った。ついて行くと、路地裏の石垣に花が咲いていた。雑草の白い小さな花だった。ルカは誇らしげに胸を張った。エレノアは膝をついて、ちゃんと見た。

 確かに、きれいだった。

 そういう日々が積み重なっていた。誰かに評価されない日常が、誰かの役に立つための行動ではない時間が、何の意味もない会話が。それらが少しずつ、エレノアの中の空洞を埋めていった。

 完全には埋まらなかった。

 五度の記憶は消えない。傷は残っている。ただ、痛みの種類が変わっていた。疼くような慢性の痛みから、たまに思い出す古い傷のような——それくらいになっていた。

 そんな昼下がりに、広場に見覚えのある馬車が入ってきた。

 王家の紋章が、幌の端に刻まれていた。


 エレノアは逃げなかった。

 逃げる理由がなかった。この町を去る理由も、なかった。

 噴水の縁に腰を下ろして、本を読んでいた。宿の女主人から借りた、少し頁の黄ばんだ旅行記だった。足音が近づいてきて、止まった。

「……エレノア」

 顔を上げた。

 ユリウスが立っていた。

 随分と、疲れた顔をしていた。礼服ではなく旅装だったが、それでも品のある立ち姿だった。ただ、目の下に影があって、髪が少し乱れていた。整えられていない頬が、彼を普通の人間のように見せていた。

 エレノアは本を閉じた。

「王太子殿下」

「そんな呼び方はしなくていい」

「では、なんとお呼びすれば」

 ユリウスは答えなかった。視線が彷徨った。エレノアの格好を見た。飾りのない服、簡単に結った髪、膝の上の古い本。それから広場を、噴水を、この小さな町を、順番に眺めた。

 なにか言いかけて、やめた。

 エレノアは待った。

「……戻ってきてくれ」

 予想していた言葉だった。それでも、少し奇妙な感じがした。過去四度のやり直しで、ユリウスはこんなことを言いに来たことはなかった。

「どうして?」

 エレノアは静かに聞いた。責めているわけではなかった。ただ、純粋に分からなかった。

「色々と……上手くいっていない。君がいた頃は、問題にならなかったことが」

「それは、私ではなく優秀な官僚を雇えば解決します」

「そういうことじゃない」

「では、どういうことですか」

 ユリウスは黙った。長い沈黙だった。広場では子供たちが走り回っていた。パン屋から焼ける匂いがした。風が吹いて、エレノアの髪を揺らした。

「君のことが……気になって、仕方がなかった」

 その言葉の意味を、エレノアはゆっくりと受け取った。

 五度目にして、初めての言葉だった。

 かつての自分なら——一度目や二度目の自分なら、この言葉に震えただろう。三度目の自分なら、嘲笑っただろう。四度目の自分なら、何も感じなかっただろう。

 五度目の自分は、ただ静かに、それを聞いた。

「……ユリウス様」

 エレノアは立ち上がった。

「あなたは、私が"いなくなってから"気になったんですよ」

 ユリウスが顔を上げた。

「いる間は、見ていなかった。私が何をしているか、何を考えているか、何が好きで、何が辛くて、どんな夢を持っているか——一度も、聞いてくれなかった」

 声は穏やかだった。怒りはなかった。ただ、それが事実だった。

「私は、あなたがいない方が幸せなの」

 言葉は静かに、広場の空気に溶けた。

 ユリウスが、息を呑んだ。何かが崩れるような顔だった。エレノアは初めて、彼がそんな顔をするのを見た。

 疲弊していた。焦っていた。そしてその奥に——何かを喪ったような、取り返しのつかないものに触れたような顔があった。

 エレノアには、その顔が気の毒に思えた。

 憎くはなかった。恨んでもいなかった。ただ、少し気の毒だと思った。彼はこの五回で初めて、本当の意味で何かを失ったのだと理解したのだと、エレノアには分かった。

「お帰りください」

 それだけ言って、エレノアは本を持って広場を歩き出した。

 振り返らなかった。

 ユリウスが何か言ったかもしれない。立ち尽くしていたかもしれない。でも、もう関係がなかった。


 王太子は、一人で帰った。

 随行の馬車が町を出るのを、宿の窓からエレノアはぼんやりと眺めた。

 これは罰ではない、とエレノアは思った。ユリウスを苦しめてやろうとも、思っていなかった。ただ、彼の世界でのことが、自分の世界とは関係なくなった、それだけだった。

 彼が正しく王太子でいられるかどうかは、彼の問題だ。

 それを支えることは、エレノアの仕事ではない。

 もう、誰かの役割の中で生きなくていい。


 翌朝、エレノアはいつも通りパン屋に行った。

「今日は何が焼けましたか」

「くるみ入りのを試作したんだが、食べてみるかい」

 一口食べた。香ばしくて、少し甘かった。

「美味しいです」

 主人が嬉しそうに笑った。

 広場に出ると、ルカが駆けてきた。「おねえさん、今日は市で面白いものがある」

「昨日も同じことを言っていたわよ」

「今日は本当だよ!」

 笑いながら、手を引かれて歩いた。

 昼過ぎに噴水のそばを通ると、セオが木を削っていた。目が合って、軽く頷いた。エレノアも頷いた。それだけだった。それで、十分だった。

 夕方、宿に戻って窓を開けた。丘の向こうに夕焼けが広がっていた。昨日と同じ色で、昨日と同じように美しかった。

 エレノアは窓枠に頬杖をついて、それをながめた。

 五度のやり直しで、何を手に入れたのかと聞かれれば、うまく答えられない。失ったものの方が、多いかもしれない。感情は摩耗して、信じる力は削れて、夢は何度も砕けた。

 でも——今、この窓の外の景色は、自分だけのものだ。

 誰に評価されなくても、誰に認められなくても、ここに在る。

 朝に起きる時間を自分で決めて、誰かのためではなく自分の腹が空いたからパンを食べて、転んだ子供の膝を押さえて、木を削る男と空の話をして、それだけの一日が、また始まる。

 エレノアは静かに息を吸った。

 私はようやく、"誰も選ばない自由"を手に入れた。

 夕焼けが、丘の向こうに沈んでいった。


終幕


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