婚約破棄は五度目ですが——今度こそ"あなたを選ばない未来"だけを選びます
燭台の炎が揺れるたびに、水晶のシャンデリアが虹色の光を床に散らした。
王都随一と謳われるアルディア宮殿の大広間には、王国の貴族たちが一堂に会していた。絹のドレス、宝石の首飾り、香水と蜜蝋と汗の混じった空気。エレノア・ヴァンドール公爵令嬢は、それらすべてを少し遠くから眺めるようにして、広間の中央に立っていた。
向かいには、王太子ユリウスがいた。
金の刺繍を施した白い礼服。整えられた栗色の髪。見目麗しい顔に浮かんだ表情は——これも見慣れたものだった。困惑と、決意と、どこか安堵の混じった、あの表情。
「エレノア」
彼が口を開いた。広間が静まり返る。周囲の視線が集まるのを、肌で感じた。
「君との婚約を、破棄させていただきたい」
どこかで誰かが息を呑んだ。扇が閉じられる乾いた音がした。
エレノアは静かに、彼の顔を見た。
……ああ、これで五回目ね。
心の中でそう呟いて、彼女はゆっくりと瞬きをした。怒りはなかった。悲しみもなかった。驚きは——とうの昔に、どこかへ消えてしまっていた。
ユリウスは続ける。隣には、侯爵家の令嬢が寄り添っていた。薄紅色のドレス。潤んだ瞳。庇護を求めるように王太子の腕に触れるその手を、エレノアは一瞥して、視線を戻した。名前は知っている。顔も知っている。これで三度目に会う女だった。
「彼女を——アメリアを、愛している。君には申し訳ないと思っているが、偽りの婚姻は彼女にも君にも不幸だ。どうか、理解してほしい」
よく練られた言葉だった。
初めて聞いたときは、その言葉に胸を刺された。二度目は、怒りで頭が白くなった。三度目は、笑いが込み上げた。四度目は、ただ疲れた。
そして今、五度目。
エレノアの胸にあるのは、凪いだ湖面のような——何もなさだった。
広間の視線が痛かった。憐れむものも、蔑むものも、面白がるものも、すべて混じって彼女に注がれている。公爵令嬢が王太子に婚約を破棄された。これ以上の見世物はない。
エレノアは、一度だけ深く息を吸った。
そして、何も言わなかった。
最初のやり直しのことを、エレノアは今でも鮮明に覚えている。
あの夜も今夜と同じ広間だった。同じ燭台、同じシャンデリア、同じユリウスの言葉。違ったのは、エレノアが泣き崩れたことだ。五年間の婚約。十二歳から積み重ねてきたすべてが、たった一文で終わった。広間の床に膝をついて、声を押し殺して、それでも涙が止まらなかった。
その後、何が起きたか。
彼女の家は風評に晒された。破棄された令嬢、と陰口を叩かれた。縁談は遠のき、父は老け込み、弟は肩身の狭い思いをした。エレノア自身は、自室に閉じこもって一年を過ごした。何もできないまま、ただ時間だけが流れて、それで終わった。
二度目のやり直しは、傷つくまいと決めた。
今度こそ完璧な令嬢になろうと思った。作法を磨いた。社交を極めた。ユリウスの好む話題を研究し、彼の周囲に目を配り、彼が必要とする場面で必要なことをした。国政の知識も身につけた。婚約者として申し分ない女になった——と、自分では思っていた。
それでも、婚約は破棄された。
同じ言葉で。同じ広間で。同じ女が隣に立って。
三度目は、復讐を選んだ。
アメリアの評判を落とした。ユリウスの側近に取り入った。宮廷の情報網を張り巡らせ、証拠を集め、二人の逢引きを公にした。醜聞は広がり、アメリアは社交界から姿を消した。ユリウスは彼女のもとに残った。
婚約は——やはり破棄された。
「君のやり方は好きではない」と、ユリウスは言った。エレノアは笑った。笑うしかなかった。勝ったと思っていたのに、気づけば胸の中は空洞になっていた。勝利の形をした、虚無だった。
四度目は、何も感じないようにした。
感情を殺して、完璧な人形になった。令嬢として、婚約者として、一点の非もない振る舞いを続けた。怒らず、泣かず、乱れず。鉄の仮面を貼り付けて宮廷を歩いた。
三年間、そうして過ごした。
結末は、同じだった。
ユリウスは同じ言葉を言った。エレノアは何も感じなかった。それで終わった。
何をしても、この結末は変わらない。
五度のやり直しを経て、エレノアが辿り着いた結論はそれだった。ユリウスはアメリアを選ぶ。それが、この世界の定められた形なのかもしれなかった。あるいは、彼がそういう人間なのかもしれなかった。理由はどうでも良かった。もう、考えることに疲れていた。
「エレノア嬢」
ユリウスの声が、また聞こえた。
沈黙が長すぎたのだろう。王太子が眉をひそめている。周囲もざわめき始めていた。令嬢が倒れるのを待っているのか、泣くのを待っているのか、怒鳴り声を上げるのを期待しているのか。
エレノアは静かに、裾を持ち上げてお辞儀をした。
「……承知いたしました」
それだけ言った。
弁明はしなかった。抵抗もしなかった。引き止めなかった。何か言おうとして口を開きかけたユリウスを、一度だけ見て——それから視線を外した。
広間がしんと静まり返った。
エレノアは背を向けて、歩き始めた。衣擦れの音だけが静寂に響いた。誰も、何も言わなかった。人の海が自然に割れて、道ができた。
扉を抜け、廊下に出る。
外の空気は冷たかった。夜の風が頬を撫でた。エレノアは立ち止まって、一度だけ空を見上げた。星が出ていた。よく晴れた夜だった。
ユリウスが少し戸惑ったような顔をしていたのを、思い出した。
今まで一度もなかった顔だった。泣かれることも、怒鳴られることも、無言で人形のように立ち尽くされることも、彼は経験していた。けれど、こんなふうにただ「承知しました」と言って去っていく婚約者を——彼はまだ、知らなかった。
エレノアは小さく息を吐いた。
白い吐息が、夜に溶けた。
馬車には乗らなかった。
屋敷に戻るつもりも、なかった。
エレノアは宮殿の裏門を出て、そのまま王都の夜道を歩いた。豪奢なドレスで石畳の道を歩くのは馬鹿げていたが、どうでも良かった。侍女たちが後を追ってくる気配があったが、振り返らなかった。しばらくして、足音は消えた。
歩きながら、考えた。
屋敷に帰れば、父が待っている。弟が心配する。使用人たちが気を遣う。婚約破棄の後処理が始まる。縁談の話が持ち上がる。また「エレノアらしくあれ」という重力の中に戻っていく。
——それが、嫌だった。
嫌、という感情が残っていたことに、エレノア自身が少し驚いた。摩耗しきったと思っていたのに、まだこんな気持ちが底の方に残っていたのか。
ならば、使おう。
翌朝、エレノアは王都を発った。
父への書き置きは一枚だけ残した。しばらく旅をします、と。理由も、行先も、書かなかった。荷物は小さな鞄ひとつ。令嬢らしい衣装は脱いで、旅装に着替えた。宝石は外した。髪も簡単に結い上げた。
馬車に揺られながら、エレノアは窓の外を眺めた。
王都の尖塔が遠ざかっていく。金と石でできた、重い街。五回生きたその場所が、朝靄の中に沈んでいった。
不思議と、涙は出なかった。
悲しくも、悔しくも、なかった。ただ——軽かった。胸のどこかが、ふっと軽くなっていくような感覚があった。
目的地は決めていなかった。
ただ、王都から遠い場所へ。誰も自分を知らない場所へ。エレノア・ヴァンドール公爵令嬢として生きてきた二十年間とは関係のない場所へ。
馬車が街道を走るにつれ、街の喧騒が消えていった。木々が増えた。鳥の声がした。風の匂いが変わった。
エレノアは目を閉じた。
眠くなったから、眠った。誰かに起こされる必要のない眠りだった。起きる時間は、自分で決める。
それだけのことが——こんなにも、静かだった。
辿り着いたのは、王都から馬車で三日ほどの小さな町だった。
リンデンと呼ばれるその町は、地図に載っているかどうかも怪しいような場所だった。丘の麓に家々が寄り集まり、広場には古い噴水があり、週に二度だけ市が立つ。それだけの町だった。
エレノアが馬車を降りたとき、御者が不思議そうな顔をした。
「こちらでよろしいので? お嬢さん、お知り合いでもいらっしゃいますか」
「いいえ」
エレノアは鞄を持ち直した。「ただ、降りたくなっただけです」
御者はしばらく彼女を見ていたが、やがて何も言わずに馬車を走らせた。
残されたエレノアは、広場の噴水を眺めた。水が細く流れ落ちている。石の縁に鳥が一羽止まって、首を傾けてから飛び去った。
宿を探した。
町に宿屋はひとつだけあった。看板の文字が少し剥げていたが、中は清潔で、女主人は人のよさそうな中年の女だった。エレノアの格好を一瞥したが、余計なことは聞かなかった。
「朝食つきで銀貨二枚。長く泊まるなら少し安くするよ」
「では、ひと月ほどお願いします」
女主人がまた一瞥した。それだけだった。
部屋は狭かった。窓から見えるのは、隣家の石壁と、その向こうにわずかに覗く空だけだった。ベッドは堅かった。枕は少し黴臭かった。
エレノアはベッドに腰を下ろして、部屋を見回した。
公爵家の自室とは比べるべくもない。侍女も、化粧台も、天蓋も、暖炉の上の肖像画も、何もない。あるのは、ベッドと小さな机と、揺れる蝋燭だけだった。
それで、十分だった。
夜、エレノアは初めて、誰にも起こされずに眠った。朝、目が覚めたとき、窓の外は明るかった。時刻を知ろうとして——時計がないことに気づいた。
しばらく、天井を見つめた。
今何時だろう。分からなかった。分からなくて、良かった。
最初の一週間は、ただ空虚だった。
何をすればいいのか、分からなかった。令嬢として生きてきた二十年間、エレノアの時間はいつも誰かに設計されていた。作法の稽古、語学の勉強、社交の予定、婚約者との会合。すべてに意味があり、すべてに目的があり、すべてに評価がついてきた。
ここには、何もなかった。
朝食を食べた。女主人が出してくれたパンは少し焦げていて、スープは薄かった。悪くなかった。広場をぶらぶらと歩いた。誰もエレノアを見なかった。あるいは見たとしても、「旅人が一人いる」という程度のことで、すぐに視線を外した。
公爵令嬢として生きていた頃は、どこへ行っても視線があった。値踏みする目、羨む目、媚びる目。それらすべてに対して、常に何かを返さなければならなかった。笑顔か、威厳か、愛嬌か。エレノアという役割を、演じ続けなければならなかった。
ここでは、何も演じなくていい。
誰も、何も、求めてこなかった。
それが最初は怖かった。自分が消えてしまうような、奇妙な感覚があった。役割のない自分は、何者なのか。令嬢でもなく、婚約者でもなく、誰かの娘でも、誰かの姉でも、誰かの駒でもない自分は——いったい、何なのか。
三日目の夕方、広場のベンチに座っていたら、子供が転んだ。
石畳に膝を打ちつけて、わあっと泣き声を上げた。エレノアは反射的に立ち上がって、膝をついて、子供の顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 見せて」
膝は少し擦れていたが、大した怪我ではなかった。ハンカチを当てて、そっと押さえた。子供がぐずぐずと泣きながらエレノアを見た。五つか六つくらいの男の子だった。
「痛い?」
「……うん」
「もう少しで止まるから」
しばらくそうしていたら、子供の泣き声が小さくなった。遠くから母親らしき女が駆けてきて、礼を言った。エレノアはただ首を横に振った。
子供が去っていくのを見送ってから、ベンチに戻った。
ハンカチを見た。少し汚れていた。
何をしたわけでもない。ただ転んだ子供の膝を押さえただけだ。誰かに褒められるようなことでも、評価されるようなことでもない。令嬢としての務めでも、何かの目的のためでもない。
ただ、目の前の子供が泣いていたから。それだけのことだった。
エレノアは気づいた。自分が、少し笑っていることに。
二週目になると、少しずつ町が見えてきた。
朝、宿を出ると石畳の道に光が差している。パン屋が店を開ける頃に香ばしい匂いが漂ってきて、それが朝の合図だった。老爺が店の前を掃き、井戸端で女たちが話をして、子供たちが猫を追って路地を走る。
エレノアは毎朝、パン屋に寄るようになった。
主人は五十がらみの、太った気のいい男だった。最初は「お嬢さん、どちらから?」と聞いてきたが、エレノアが「旅の途中で」とだけ答えると、それ以上は聞かなかった。代わりに毎朝、「今日はライ麦が焼けたよ」とか「蜂蜜を入れたから試してみな」とか、そういうことを話してくれた。
答えるうちに、エレノアは少しずつ言葉を取り戻していった。
令嬢としての言葉ではない。計算されていない、ただの言葉を。「美味しいです」とか「少し酸っぱいですね」とか「明日も来ます」とか。そういう、何の意味もない言葉が、口から出るたびに、胸の何かが柔らかくなっていった。
市が立つ日には、広場が賑わった。
野菜、布、陶器、干した果物。色とりどりの品物が並んで、人々が行き交った。エレノアはとくに買うものもなく、ただ歩いた。立ち止まって、赤いリボンを眺めた。買わなかった。でも、きれいだと思った。
きれいだと思う感情が、まだ自分の中にあった。
それが、少しだけ嬉しかった。
ある日の午後、噴水の縁に腰を下ろして空を見ていたら、隣に誰かが座った。
若い男だった。エレノアより少し年上に見えた。日に焼けた肌と、作業着の袖。膝に何か木の板を置いて、ナイフで削っていた。
「邪魔?」
エレノアは首を横に振った。
男は何も言わずに、削り続けた。エレノアも黙って空を見た。しばらくそうしていて、男が言った。
「いい天気だね」
「そうですね」
それだけだった。
それ以上でも、それ以下でもなかった。男はしばらく削って、やがて立ち上がって行ってしまった。
エレノアは、その会話のことを夜になっても覚えていた。
何でもない言葉だった。誰でも言えるような言葉だった。けれど、そこには何も隠されていなかった。値踏みも、計算も、目的も、何もなかった。ただ、晴れた空の話をしただけだった。
役割のない自分でも、ここにいていい。
そのことを、エレノアはゆっくりと、少しずつ、理解し始めていた。
王都では、少しずつ何かが狂い始めていた。
ユリウスがそれを感じ始めたのは、婚約破棄から一月ほど経った頃のことだ。
まず、東部の貴族同士が揉めた。土地の境界を巡る争いで、以前なら当事者が直談判する前に誰かが間に入って収めていた——はずなのに、今回は誰も動かなかった。気づいたときには訴状が三通、王宮に届いていた。
次に、財政の調整がうまくいかなくなった。
祭の費用と軍の遠征費が重なって、国庫の配分に齟齬が出た。これも、例年ならば誰かが早い段階で調整していた。誰かが数字を確認して、誰かが根回しして、問題が問題になる前に消えていた。
ユリウスは側近に聞いた。「誰がやっていたんだ」
側近は少し考えて、言った。「エレノア嬢が、把握しておられたかと」
ユリウスは黙った。
それだけではなかった。侯爵夫人への定期的な文と、北部の視察の日程調整と、王妃の茶会への出席者の取りまとめ——気づけば、エレノアがやっていたことの跡が、至る所に残っていた。彼女がいた間は何も問題にならなかったから、ユリウスは彼女が何をしているかを見ていなかった。
なぜ上手くいかない、という焦りが、じわじわと積み重なっていった。
アメリアは優しかった。ユリウスを責めなかった。ただ困ったような顔で、「私では分からないことばかりで……」と言った。それは本当のことだった。アメリアが悪いのではない。ユリウスも、そのことは分かっていた。
ただ——エレノアがいた頃は、分からないことが問題になる前に、誰かが分かっていた。
初めて、ユリウスはその事実を意識した。
彼女はどこへ行ったのか。屋敷に問い合わせると、父親も行先を知らないと言った。旅に出た、とだけ書き残して消えた、と。
ユリウスは窓の外を眺めた。
なぜか、胸のどこかに引っかかるものがあった。うまく名前のつけられない、小さな不快感だった。
リンデンに来て、二月が過ぎた頃。
エレノアは宿の部屋の窓から、夕暮れの空を眺めていた。橙色と紫が混じった色が、丘の向こうに広がっていた。こんなに夕焼けをゆっくり見たのは、いつ振りだろうと思った。
あるいは、初めてかもしれなかった。
噴水の男——セオというらしかった——とは、時々話をするようになっていた。彼は家具職人で、町の外れに工房を持っていた。口数が少なく、余計なことを聞かなかった。エレノアが何者かを知らなかったし、知ろうともしなかった。
ある日、市で迷子になった先ほどの男の子——名前はルカといった——がエレノアの服の裾を引っ張ってきて、「おねえさん、あっちに面白いものがある」と言った。ついて行くと、路地裏の石垣に花が咲いていた。雑草の白い小さな花だった。ルカは誇らしげに胸を張った。エレノアは膝をついて、ちゃんと見た。
確かに、きれいだった。
そういう日々が積み重なっていた。誰かに評価されない日常が、誰かの役に立つための行動ではない時間が、何の意味もない会話が。それらが少しずつ、エレノアの中の空洞を埋めていった。
完全には埋まらなかった。
五度の記憶は消えない。傷は残っている。ただ、痛みの種類が変わっていた。疼くような慢性の痛みから、たまに思い出す古い傷のような——それくらいになっていた。
そんな昼下がりに、広場に見覚えのある馬車が入ってきた。
王家の紋章が、幌の端に刻まれていた。
エレノアは逃げなかった。
逃げる理由がなかった。この町を去る理由も、なかった。
噴水の縁に腰を下ろして、本を読んでいた。宿の女主人から借りた、少し頁の黄ばんだ旅行記だった。足音が近づいてきて、止まった。
「……エレノア」
顔を上げた。
ユリウスが立っていた。
随分と、疲れた顔をしていた。礼服ではなく旅装だったが、それでも品のある立ち姿だった。ただ、目の下に影があって、髪が少し乱れていた。整えられていない頬が、彼を普通の人間のように見せていた。
エレノアは本を閉じた。
「王太子殿下」
「そんな呼び方はしなくていい」
「では、なんとお呼びすれば」
ユリウスは答えなかった。視線が彷徨った。エレノアの格好を見た。飾りのない服、簡単に結った髪、膝の上の古い本。それから広場を、噴水を、この小さな町を、順番に眺めた。
なにか言いかけて、やめた。
エレノアは待った。
「……戻ってきてくれ」
予想していた言葉だった。それでも、少し奇妙な感じがした。過去四度のやり直しで、ユリウスはこんなことを言いに来たことはなかった。
「どうして?」
エレノアは静かに聞いた。責めているわけではなかった。ただ、純粋に分からなかった。
「色々と……上手くいっていない。君がいた頃は、問題にならなかったことが」
「それは、私ではなく優秀な官僚を雇えば解決します」
「そういうことじゃない」
「では、どういうことですか」
ユリウスは黙った。長い沈黙だった。広場では子供たちが走り回っていた。パン屋から焼ける匂いがした。風が吹いて、エレノアの髪を揺らした。
「君のことが……気になって、仕方がなかった」
その言葉の意味を、エレノアはゆっくりと受け取った。
五度目にして、初めての言葉だった。
かつての自分なら——一度目や二度目の自分なら、この言葉に震えただろう。三度目の自分なら、嘲笑っただろう。四度目の自分なら、何も感じなかっただろう。
五度目の自分は、ただ静かに、それを聞いた。
「……ユリウス様」
エレノアは立ち上がった。
「あなたは、私が"いなくなってから"気になったんですよ」
ユリウスが顔を上げた。
「いる間は、見ていなかった。私が何をしているか、何を考えているか、何が好きで、何が辛くて、どんな夢を持っているか——一度も、聞いてくれなかった」
声は穏やかだった。怒りはなかった。ただ、それが事実だった。
「私は、あなたがいない方が幸せなの」
言葉は静かに、広場の空気に溶けた。
ユリウスが、息を呑んだ。何かが崩れるような顔だった。エレノアは初めて、彼がそんな顔をするのを見た。
疲弊していた。焦っていた。そしてその奥に——何かを喪ったような、取り返しのつかないものに触れたような顔があった。
エレノアには、その顔が気の毒に思えた。
憎くはなかった。恨んでもいなかった。ただ、少し気の毒だと思った。彼はこの五回で初めて、本当の意味で何かを失ったのだと理解したのだと、エレノアには分かった。
「お帰りください」
それだけ言って、エレノアは本を持って広場を歩き出した。
振り返らなかった。
ユリウスが何か言ったかもしれない。立ち尽くしていたかもしれない。でも、もう関係がなかった。
王太子は、一人で帰った。
随行の馬車が町を出るのを、宿の窓からエレノアはぼんやりと眺めた。
これは罰ではない、とエレノアは思った。ユリウスを苦しめてやろうとも、思っていなかった。ただ、彼の世界でのことが、自分の世界とは関係なくなった、それだけだった。
彼が正しく王太子でいられるかどうかは、彼の問題だ。
それを支えることは、エレノアの仕事ではない。
もう、誰かの役割の中で生きなくていい。
翌朝、エレノアはいつも通りパン屋に行った。
「今日は何が焼けましたか」
「くるみ入りのを試作したんだが、食べてみるかい」
一口食べた。香ばしくて、少し甘かった。
「美味しいです」
主人が嬉しそうに笑った。
広場に出ると、ルカが駆けてきた。「おねえさん、今日は市で面白いものがある」
「昨日も同じことを言っていたわよ」
「今日は本当だよ!」
笑いながら、手を引かれて歩いた。
昼過ぎに噴水のそばを通ると、セオが木を削っていた。目が合って、軽く頷いた。エレノアも頷いた。それだけだった。それで、十分だった。
夕方、宿に戻って窓を開けた。丘の向こうに夕焼けが広がっていた。昨日と同じ色で、昨日と同じように美しかった。
エレノアは窓枠に頬杖をついて、それをながめた。
五度のやり直しで、何を手に入れたのかと聞かれれば、うまく答えられない。失ったものの方が、多いかもしれない。感情は摩耗して、信じる力は削れて、夢は何度も砕けた。
でも——今、この窓の外の景色は、自分だけのものだ。
誰に評価されなくても、誰に認められなくても、ここに在る。
朝に起きる時間を自分で決めて、誰かのためではなく自分の腹が空いたからパンを食べて、転んだ子供の膝を押さえて、木を削る男と空の話をして、それだけの一日が、また始まる。
エレノアは静かに息を吸った。
私はようやく、"誰も選ばない自由"を手に入れた。
夕焼けが、丘の向こうに沈んでいった。
終幕




