ぬくもりの風
父の日の記念に書いたものです。
恥ずかしくて父には見せることができませんが、精一杯の感謝をこめて。
ビールでも買おう、そう思ってたまたま店に行っただけだったのだ。
ちょうど俺の目の前に掲げられた、“父の日”の旗。そこに書かれていた日付は明日だった。
いつから、俺は親父に父の日を祝わなくなったか。
最近は祝って貰ってばかりだ。今年も、妻と一人娘が父の日を覚えていれば、の話だが。
去年は確か、妥当な柄のネクタイだったか。明日、着けたら妻は喜ぶだろうか。
そんなことを考えながら第三のビールを手に取る。暑い日はいくらでも飲みたくなるが今日は何となく一本に抑える。
レジを通り、外に出ると梅雨独特のむっとした暑さが体にまとわりついてきた。
そうか。もう、六月になったのか。
毎日の仕事に追われ、気がつけばだんだんと季節の感覚がなくなってきている。それとも、もう俺もだいぶ歳をとったからか。
家に帰ると、妻が玄関まで出迎えてくれた。
いつものことだが、今日はえらくありがたく思える。
「ありがとう」
驚いたあとに、妻ははにかんだように笑った。こんな笑顔、見たのはいつ以来だろう。そういえば俺が惹かれたのはこういう笑顔だったことを思い出した。
もっと普段から気持ちを伝えるべきかもしれんな。とも思ったが、あいにく自分はそんなに器用じゃなかったことに気がついた。
心の中でもう一度ありがとう、そしてすまんとこっそり謝って見る。
そのことがなんだか面白くて笑うと、妻が心配そうな顔をしてこっちを見ていた。
酔っているか、だって? 失礼な。一滴たりとも飲んでないのに酔うわけがないだろう。
そう言ったら、余計に心配そうな顔をされた。
なかなか動かない親の様子を見に来た娘もこちらを見てくる。一体なんなんだ。俺は別人と入れ替わったりしてないぞ。
久々に素直になったとたんこれだ。
さっき心の中ででも謝るんじゃなかった、なんて大人げないことを考える。
まぁ、いいか。
今日は怒る気分ではない。それに、妻のいい笑顔を何年かぶりに見られたのだ。少しは妥協することにしよう。
結局、驚いたままの妻の横をすり抜け、台所へと向かう。
目的は、冷蔵庫だ。
お風呂に入る前に入れておかないと、風呂上がりの幸せがなくなってしまう。
風呂上がりで火照る体にしみわたるビールの感覚を思うと、年甲斐もなく嬉しくなるのだ。
台所での目的を果たすと、いそいそとお風呂へと向かった。
怪しいことこの上ないが、これは毎日のことなので妻ももう何も言わない。
俺は幸福の時間を味わった後、深い眠りへとついた。
珍しく、朝早くに目が覚めた。テレビからはまだおなじみの戦隊物の音楽が聞こえてくる。
誰も見ていないのに、何故か画面の中のヒーローは必死で悪と戦っていた。
「あら、おはよう。今日は早いのね」
俺の存在に気がついた妻が声をかけてくる。そしてもうすぐで朝ごはんできるから、と言い置いてまた台所へと戻っていった。
「今日は、少し出かけてくる」
朝ごはんを食べている途中に、そう伝えた。妻はどこに行くの? と聞いてきたが、適当にはぐらかしておく。
今日行くところは、一人で行きたかった。
「気をつけてね。いってらっしゃい」
結局行き先を告げることはしなかったが、妻はいつも通り見送ってくれた。
いや、いつもと違うことは「今日は早く帰ってきてね」と言ったことか。
最近の俺は仕事の関係で日付が変わってから帰ることが多かった。
今日くらいは、一緒に晩御飯を食べたいのだろう。
そうして、俺は買ってから十年目の付き合いとなる愛車をゆっくりと発進させた。
やって来たのは、とある山の中腹。
そこそこに見晴らしのいい場所は、しかし静かな雰囲気を漂わせていた。
聞こえる音は、自分の傘に雨粒があたる音だけ。
今日の天気は梅雨の名に恥じない降りっぷりの雨だった。携帯の天気予報を見ても、今日は一日中ふり続けるらしい。
……逆に、好都合かもな。
さらに目的の場所へと歩く。
それは、すぐに見つかった。
「……親父」
目の前にある墓石に、そっと手のひらを乗せる。
しっとりと湿った石は、俺の手に吸いついてくるようだった。なかなか離すことが出来ない。
いや、自分では分かっている。俺がこの手を離したくないだけなのだということを。
「久しぶり、だな」
もう六年も前のことだ。
親父が心筋梗塞で倒れた。
慌てて救急車を呼んだが、間に合わなかったらしい。俺は、親父を自分で看取ることが出来なかった。
あの悔しさは、忘れていない。でも、後悔もしていない。
俺は、親父から継いだ大事なもの、親父の会社を守っていたのだから。
「なぁ。あれから、俺は成長したか?」
まだ、あの頃は後を継いだばかりで、毎日叱られているばかりだった。
いつか、褒めさせてやる、と。それを目標にしていた。
ずっと、目標にしていたかった。
今も、目標にしている。
「いつになったら、褒めてくれるんだ」
そっと一人、墓石に語りかける。
もちろん返事はない。
諦めて手を離し、その近くへと腰をおろす。そして手に持っていたビニールから缶ビールを取りだした。
親父は、酒が大好きだったから。
一緒に買った紙コップを二個取り出し、注ぎわける。
雨の中、無人の墓場でそっと乾杯をして、ゆっくりと味わった。
昨日と同じ味のはずなのに、今日のコレは心に染みわたっていった。
自分のがなくなると、親父のコップの中身を墓石にかけて空にする。そしてまた注いで飲んだ。
何度か繰り返すうちに、缶の中身がなくなる。
いつの間にか雨脚は弱まっていた。
そろそろ帰るか。
時計の針は、ここに来てからだいぶ時間がたったことを告げていた。
立ち上がり、親父に背を向ける。
そのとき、風が吹いた。
梅雨特有の生温かい湿った風。
しかし、それが自分の髪を撫でるようにして通りすぎたときにはっとした。
何十年も昔、唯一親父が俺の頭を掻きまわして褒めたときの感覚を思い出した。
あんなにも嬉しそうな顔をしたのはあれきりだったか。
もしかしたら、今も近くで笑ってるのか。
「……まさかな」
自分でもありえないと思いながら、それでもどこかで信じたいと思う自分も居て。
「ありがとう」
ありったけの思いを込めて、言う。
傘に守られて濡れるはずのない頬に一滴の水が伝って、地面に落ちた。
また風が吹いて、今度は濡れた頬を撫でていく。
「ありがとう」
絞り出したその声は、雨の中へと吸い込まれ、風に包まれて消えた。
読んでいただいてありがとうございます。
感謝の気持ちが少しでも伝わればなぁ、と思います。
初投稿ですので至らない点はたくさんあると思います。
誤字、脱字含め感想等ありましたら連絡お願いします。
では、本当にありがとうございました。