不憫な男と沼のマダム
フランス中部の片田舎、ロワール川の支流沿いにある小さな村。
パリからやってきた若き民俗学者エミールは、地元に伝わる奇妙な言い伝えに心を奪われていた。
「沼には“マダム”が棲んでいる。美しく、気まぐれで、とんでもなくおしゃべり。」
観光協会のパンフレットにも書かれていないが、村人たちは皆、口を揃えてそう言った。
「マダムに気に入られたら、毎晩夢に出てくるぞ」と笑う老人すらいる。
当然、エミールは「与太話」と一蹴し、民俗伝承として記録しながら、半信半疑だった。
だが、彼がその古い沼辺の屋敷に泊まり始めてから、事態は変わった。
最初の夜、彼は奇妙な水音で目を覚ました。
「ぽちゃん……ぽちゃん……」と、まるで誰かが足で水面をたたくような音。
時計は午前3時ちょうど。窓の外には誰もいない。…いや、いる。
窓の向こうに、帽子をかぶった女性の影。
「ごきげんよう、エミールさん」
くぐもった、どこか鼻にかかったような声。
エミールは思わずのけぞった。
だが次の瞬間、影は沼に沈み、跡形もなくなっていた。
翌朝、村のパン屋でその話をすると、誰も驚かない。
「マダムだよ。歓迎されたんだ。よかったな」
「オレのときなんか、パンツ盗まれたぞ」
…この村、ちょっと感覚がおかしい。
数日後、エミールの夢にまたマダムが現れた。
今度は帽子を取り、ふわふわの金髪と、驚くほどごてごてしたメイクを披露してきた。
「どうかしら、あなた好み?」
「……舞台女優みたいですね」
「まあ失礼!」
夢の中なのに、彼女のカツラが飛んだ音がやけにリアルだった。
それからというもの、毎晩のようにマダムが現れ、エミールに妙な質問を投げかけてくる。
「あなた、恋人はいるの?」
「都会の水より田舎の水の方がおいしいと思わない?」
「白ワインと赤ワイン、どっちが罪深いと思う?」
答えを間違えると夢の中で水に引きずり込まれ、正解でも延々とフランス演劇の独り芝居を見せられる。
もちろんマダムが主役、観客、脚本、演出すべてを担当しているようだった。
連日のことで疲労困憊してしまう。
ある晩、限界を迎えたエミールは叫んだ。
「お願いですから静かにして寝かせてください!」
その瞬間、マダムの顔がブワッと膨れ、沼水が噴き出すように彼を包んだ。
――目覚めると、ベッドの上に水たまり。
天井から、水がぽた、ぽた……
彼女の演出、どうやら物理に干渉するようになってきた。
エミールは逃げるように屋敷を後にし、村長の家に駆け込んだ。
「あの女、本物ですよ! 夢に! 水に! 現実にまで!」
すると村長はにやりと笑い、ぽんと肩を叩いた。
「つまり……気に入られたんだな。正式な“恋人候補”ってやつさ」
その日の夜、村人総出でエミールの仮装婚約式が開催された。
祭壇代わりのボートには、沼のマダムに似せた人形が据えられ、
「彼女に永遠の忠誠を誓いますか?」との問いに、エミールは泣きながらうなずいた。
そうでないと、無事では済まなそうだった。
――それから数ヶ月後。
エミールはパリに戻ったが、彼の研究室には常に湿気がこもるようになった。
学生が言うには、誰もいないはずの深夜に、女の声でこう囁くのが聞こえるらしい。
「エミール、また脚本ができたの。今夜も、演じてちょうだい?」
…そのたび、彼は静かに、涙をこらえながら窓を閉める。