第二章8:記録の境界
霧は、まだ消えていなかった。
ただ、先ほどまでのように重くはない。
空気が緩やかに循環している。――誰かの呼吸のように。
隣にオルタがいた。
歩調は一定で、音はない。
だが、その沈黙が、不思議と心地よかった。
彼女と並んで歩くと、俺の義体が彼女に同期する。
歩幅、心拍、呼吸――すべてが同調していく。
まるで、互いの存在がひとつのリズムで呼吸しているかのようだった。
(俺は歩いているのか? それとも、歩かされているのか?)
そんな疑問が浮かぶ。
けれど、今はそれすらどうでもよかった。
この“静寂のリズム”に、しばし身を委ねた。
◇◆◇
進むにつれ、霧の粒子が光を帯びはじめる。
微細な輝きが漂い、無数の点となって揺らめいている。
それは、観測ログの残骸――。
“記録の死骸”だ。
手を伸ばすと、一つの光が指先に触れ、映像が、脳の奥に焼き付いた。
――暗い室内。金属の匂い。
端末を覗き込む技術者たち。
そして中央のカプセルの中に、“俺”がいた。
白い髪、閉じた瞳、無機質な皮膚。
ラベルにはこう刻まれていた。
SIG-EX-B28-01 : SYSTEM REBUILD UNIT
(これは……俺……?)
無意識に身体が震えた。
見ている今のこの自分と、映されている自分が重なり、脳が揺さぶられるような違和感。
隣でオルタが静かに言った。
「――これは、君が壊した世界の記録よ」
俺は、息を呑む。
壊した? 俺が?
「エニアが創った加護の構造を、最初に壊したのは、あなた」
「だから、あなたは再構築の“鍵”として、再び創られたの」
彼女の声は、非難ではなかった。
まるで祈りのように、淡々と、優しく響いた。
その瞬間、左目が熱を帯びる。
視界がチリチリと揺らぎ、ログが流れ出す。
≫ Memory Link : Forced Merge
≫ Override Access : NOX-layer detected
≫ Identity Fragment : Conflict detected
義体の中枢が軋み、思考と記憶がかき乱される。
断片的な映像が、視界を埋め尽くした。
――崩れ落ちる都市。
――祈るように空を見上げる人々。
――光に呑まれる神殿。
それは、崩壊の記録。そして、再構築の始まり。
(俺が……あれを……?)
理解した瞬間、左目が眩しく光を放つ。
だがオルタが近づき、そっと手をかざす。
「大丈夫。あなたは思い出しただけ。それは罪の記憶ではあるけれど、今のあなたがやったことではない。記録は過去を閉ざすけれど、これから紡いでいく記憶はまだ形が決まっていない。いくらでも好きにできるってこと」
その言葉と共に、暴走する映像が静まった。
光が霧に溶けていく。
(記録は、終わりを残す。記憶は、続きを願う――)
俺は、そう理解した。
◇◆◇
歩みを進めると、霧が割れた。
眼前に、巨大な構造体が現れる。
半壊した観測装置。
まるで神の眼球を模したような球体が、崩れかけの台座に載っている。
「――これが、《オルド・エニア》の原型」
オルタの声が空間に木霊した。
「この観測機構が、エニアの一部だった。けれど今は、別の“意思”に侵食されている」
俺は息を呑んだ。
球体の表面に、無数の文字列が浮かび上がっている。
だが、それはすぐに崩れ、黒いノイズへと変わる。
その瞬間、俺の左目が再び反応する。
が、記録を取ろうとして――取れなかった。
映像ではなく、“記憶”として刻まれていく。
そして、どこからともなく、囁きが届いた。
「観測を捨てる者よ――新たな座標へ」
次の瞬間、左目に新たなタグが刻まれる。
≫ Observation Tag : Suspended
≫ New Tag Generated : 【Σ】
俺は、観測から外れた。誰の記録にも残らない存在になった。
それでも――確かに、ここにいる。
霧の向こう、オルタが振り返る。
その瞳の奥に、わずかに光が宿っていた。
「さあ、ノア。再構築の始まりよ」




