第二章7:二つの観測者
霧はまだ濃く、空気の層はゆるやかにねじれていた。
暴走と干渉の余韻は、いまも体内に微かな震えを残している。
それでも、今こうして前に進む勇気が持てているのは、共に歩く存在のお陰だ。
――オルタ。
体格はそれほど変わらないが、自然と彼女と歩幅を揃え、声を立てることもなく並んでいた。
不思議と、その沈黙は重荷ではない。むしろ、ひどく自然なことのように感じられた。
時折風に流されるのか霧が薄まり岩の稜線が見え隠れするが、風鳴りや歩を進める度に耳に届くはずの音が、剥がれ落ちていく感覚は続いている。
「……やけに静かだな」
自分でも驚くほど小さな声が出た。
オルタはほんの少しだけ横を向く。
その瞳が霧を透かしてこちらを見る気がした。
「音が消える場所は、空間に記憶が漂っている。
あなたの目が熱を帯びるのも、そのせい。
覚えはない? あなたのその左目は、記録ではなく記憶を溜めてゆく。
逆に此処は、記録されることを拒むの」
「記録を……拒む?」
「そう。記憶という、観測の系統に乗らないものがここには沈んでいる。
あなたは“記憶”を辿り、拾い集めることが出来る。
そして私は“記録から零れ落ちた枝”を辿れる。
私たち二人が並んで歩くときだけ、ようやく――、“観測ではない観照”が成立する」
彼女の声は霧に混じり、輪郭を持たないまま届く。
意味はすぐには掴めなかった。
けれど、直感的に理解する。
俺の異質さと、彼女の存在は、互いを補完し合う関係にあるんだと。
◇◆◇
やがて、地中に半ば埋もれた祠のような構造物が姿を現した。
オルタと顔を見合わせ、頷き合う。
長い時が過ぎ、今や岩と見紛う程に劣化していた遺構の裂け目を押し広げると、古びた内部に足を踏み入れることができた。
小さな空間。壁際には見慣れないが、過去の端末群と思われる遺物が並んでいた。
どれももちろん稼働はしていない。筐体に繋がる配線は既に腐り落ち、ノードの代わりに成りそうなモノも最早崩れ去って久しい。
ここに遠隔でアクセスすることは不可能だった。間違いなく、アドミの影響範囲外だ。
だが、入った瞬間、左目が再び熱を帯びた。
視界が揺らぐ。
――子供の笑い声。
――祈るような低い声。
――短い叫び。
どれも断片的で、次の瞬間には霧のように途切れる。
映像も、音声も、ログには残らない。
「聞こえる……?」
俺はつい隣を振り返る。
オルタは静かに目を閉じ、耳を澄ますようにしていた。
「ええ。……あなたと同じものを、私も感じている」
驚きと同時に、深い安堵があった。
自分だけではない。
この“記録されない声”を、彼女もまた受け取っている。
中央には、祭壇のような台座があった。
そこに触れた瞬間、空間全体が光を孕む。
≫同期試行:SIG-EX-B28-01 / SIG-ALT-03
≫観測外領域にて統合プロセス起動……
脳裏に走る閃光。
義眼が強制的に点滅し、オルタの外套からも薄い紋様が浮かび上がった。
「これは……!」
思わず息を呑む。
俺のログと、彼女の存在コードが“統合されかけている”。
融合というより、誰かが新しい観測者を“作ろう”としているかのように。
「駄目!」
オルタが俺の腕を強く掴む。
その瞬間、光が弾け、俺たちは祠の外へ押し出されていた。
背中にまだ熱が残っている。
だが空間は何事もなかったように沈黙を取り戻していた。
「……今のは?」
問いかける声は自分でも驚くほど震えていた。
オルタは答えず、霧の奥を見据える。
ただ、視線の先に微かな恐怖ではなく、確かな決意を宿して。
「俺たちは……並んで歩く存在、なのか?」
口に出したその言葉は、誰に向けたのかも分からなかった。
返事はない。
ただ霧が揺れ、遠くで残響のようなノイズが走る。
≫観測補記:対象二体による異常な並列観測を検出
≫タグ処理:未定義/保留
その記録はすぐに途絶えた。
ここにあるのは、記録ではない。
確かに刻まれる“記憶”だ。
そしてそれを共有する、もうひとりが隣にいた。




