序章2:任務前逸脱ログ・整備室接触記録
≫観測ログ No.017-β
≫被観測体名:ノア
≫識別コード:SIG-EX-B28-01
≫観測時刻:07:23〜
≫観測地点:静域区域AX内・旧機構整備室
≫モニター権限:一般公開レベル2
≫補足:該当区域には観測不能領域が含まれており、一部記録が断絶・欠落している可能性があります。
──声は、記録には残っていない。
ザインの発話は、ノアの網膜記録にはあるが、アドミの正式ログ上には存在しない。
音声波形は残る。だが発話主タグは付与されない。
観測可能でありながら、観測不能と定義される——それがザインという存在だ。
「……また変な夢でも見たか?」
室内は、整然としていない。
床にはケーブルと基板。
壁際には旧型義肢と義眼の部品。
整備用のエネルギーチューブが中空で垂れ下がり、規格外の圧縮ポンプが異音を立てていた。
ノアは足元の部品を避けながら、部屋の中央まで進む。
「何も……覚えていない」
それが、彼の返答だった。
記録上、これは“今月初の夢への言及”である。
だがザインのログによれば、先月も、彼は同じことを言ったという。
ザインは溜息のように息を吐いた。
「そうか。なら、今日は違う話をしようか」
作業台の脇には、古い情報集積型の眼球ユニットがいくつか積まれていた。
その中のひとつは、記録用コアが抜かれ、ただの“外殻”だけになっている。
ザインはそれを手に取り、無言で指先を滑らせた。
まるで、その中にまだ“記録されなかった何か”が宿っているかのように。
彼は破損したインターフェースユニットを拾い上げると、かつてそれが「何をつなげていたのか」を語り始めた。
「人間は、記録に頼りすぎた。
でもな、記録ってのは、観たままの“皮”みたいなもんだ。
本当の中身は、残らない。
……だから、夢はまだマシなんだよ。中身が滲んでるからな」
ノアは、それを聞いていた。
返答はしない。表情も変えない。
ただ、視線だけが微かに動く。
それは興味ではなく——記憶を探るような動きだった。
ノアのまばたきが、平均値より0.6秒遅れた。
観測AIが「外部刺激反応の軽微な鈍化」として自動分類するレベル。
だが、ザインはそれを見逃さなかった。
「なあ、お前、ほんとは覚えてんじゃねえのか?
見たこと、あるんだろ。あの円環の壁も、光の柱も、
その手で触れたことがあるんじゃないのか?」
ノアは口を閉じたまま、ザインの手元を見ていた。
その指先が握っているのは、半壊した眼球のパーツ。
センサー類の代わりに、そこには“何も映さない空白のレンズ”が組み込まれていた。
ザインはそれを、ノアに手渡す。
「記録装置ってのはな、必ずしも全てを残すわけじゃない。
これは設計的に“映らない”。
見えないんじゃない。映さない。
……お前の中にも、そういう領域があるように思える」
ノアはそれを受け取った。
手の中で、レンズは静かだった。無反応のレンズが静かに光を跳ね返す。
だが、その瞬間、観測ログに微細な干渉が生じた。まるでそこに何かの“残響”が潜んでいるかのように、義手の感覚センサーが一瞬だけ微細な揺らぎを感知した。
映像の一部が不連続に揺れ、音声波形に0.4秒の欠落が発生。
その空白の直後、ノアはようやく口を開いた。
「これは……俺のものじゃない」
「そうだな」と、ザインは笑った。
「でも、お前が持ってる。
なら、きっと“そういうこと”なんだろうよ」
会話はそれで終わった。
ノアはレンズを胸ポケットにしまい、静かに背を向けた。
出口へと歩きながら、一度だけ振り返る。
ザインは工具の山の中で、黙々と何かを修理し始めていた。
その後ろ姿には、何も語らせない重さがあった。
扉を出る直前、ノアの端末が震えた。
アドミからの追加通知——
≫【補足任務】:区域AX内の旧規格端末を所定位置に廃棄
≫自律判断:可
≫配信映像:自動録画中
ノアはその文面を読み返すことなく、
ただ、小さく息を吐いて歩き出した。
≫【観測ログ:続行中】