第二章5:記録されざる声
振り返っても足跡は残っていない。見えない、と言ったほうが正確か。
岩を踏んでも、砂を払っても、跡はすぐに霧に沈み、消えていく。
それでも、それは記録とは違って「歩いた理由」や「想い」を残すような、ただ事実のみではない、何か掛け替えのない痕跡のように思えた。
霧は相変わらず視界を侵食していたが、足元の岩盤はわずかに乾いている。
奥へ進むにつれ、音が剥がれ落ちていく感覚があった。
風もない。自分の呼吸音も、いつの間にか薄れていく。
やがて、岩壁の裂け目が開け、そこから入り込んだ先で――空気の質が変わった。
重たいのに、感触はない。まるで耳の奥を覆われたような、完全な“無音”。
眼前に壁が見えてきた。中央に黒く焼け焦げた痕のある壁面。手のひらほどの範囲に、何かが刻まれている。
文字か、模様か――視線を固定すると、形が変わる。
縦線が歪み、曲線がほつれ、幾何学的な構造に戻っていく。次の瞬間には、また異なる形になっていた。
無意識に手を伸ばした。
指先が触れる直前、左目が微かに熱を帯びる。
声が、届いた。
『……その目を使うな』
音ではない。
耳で聞いたわけではない。
それは意識の奥へと滑り込み、そこで形を持った。
響きは一瞬で終わった。
だが、確かに誰かが言った。性別も、年齢も分からない。
ただ、その声は“俺を知っている”響きを持っていた。
そして、目を使うな、という意味を俺は唐突に理解した。
無意識的に、左目の動作を切り離す。これで、スタンドアロンでの記録も、もう残さない。
ずっと視界に浮かんでいたUIも消え、地形計測データも集積しなくなるが、これでいい。
同時に、義体の座標データが消失している感覚。観測外領域に踏み込んだ時から在ったそれが、この瞬間本当に消えて無くなったように感じた。
今、俺は、世界のどこにも存在していない。
――違う。俺は確かに此処に居る。
観測されることで存在していたと思うことのほうが錯覚だったのだと、今はっきり分かった。
視界の隅に、白い影が立つ気配。
そちらへ目を向けると、ゆらりと霧の中に混じり、形を失う。やがて周囲の霧と同化して、濃淡があるだけになった。
(今のは……。あれは……誰だ?)
当たり前のように答えは何も返らない。
だが見間違いではない。確かに存在感があった。
そちらへ来い、ということか。
視線を戻すと、黒い壁面にはもう変形をやめた刻印だけが残っていた。
白い影が消えた方へ歩を進める。
ここからは、デバイスに頼らず、自分の中に記憶を残すのだ。
大丈夫、この歩みもちゃんと俺の中に残っていく。




