第二章4: 観測不能領域
霧が、空を、地を、音を飲み込んでいた。
かすかな輪郭を探しながら歩く。足音はすぐに吸われて消える。だが、確かにこの足元には岩の感触がある。
風も、空気も、どこか重たい。密度が増している。
この先に、“何か”がある。
境界を越え、この領域に入ったときから、左目の奥が微かに熱を帯びている。
記録されない何かを、また捉えているのだろうか。
ここは地図にも記録にも載らない領域。
アドミのログには、この先の構造情報は一切存在しなていなかった。
誰も観測していないということは、ここにあるものがまだ“開かれていない”ということだ。
だからこそ、意味がある。
俺の中で未だに眠っている”記憶”のように、この世界の奥にもまた、“誰かの記憶”が眠っているかもしれない。その記憶に、俺の目が反応しているのだとしたら──それを、見つけ出す必要があるだろう。
◇◆◇
先程から、わずかに坂を登り始めていた。
だんだんと霧が薄れていき、代わりに“静けさ”が濃くなっていく。
音が、無い。
生き物の、気配も。
すべてが張り詰めていて、透明な膜の、その内側に閉じ込められているようだ。
やがて、霧の奥に、突如として岩肌の間から朽ちた人工構造が姿を現した。
相当に古い。
一部は崩壊が見て取れ、しかし、どこか意図的に隠されているような、不自然な埋まり方をしている。
半ば地中に沈みこんだそれは、建造物の一部か。何の施設だったのだろうか。
壁面には識別コードらしき文字列が残っていたが、すでに摩耗して読めない。そっと触れる。
左目に電流が走る。――いや、これは映像だ。
視界の奥に、古い記録の断片が流れ込んできた。
複数の人影。保護服を着た技術者たちのようだ。
手には端末。口元は動いているが、音声は再生されない。
その中央には、ポッドのようなものがある。中には──誰かが入っている。それは、どこか、自分に似ている気がした。
記録が、途切れた。
映像は静かに霧散し、左目の熱も消える。視界がもとに戻る。
何かの、或いは“誰か”の、痕跡。記録ではない。これは、きっと”記憶”だ。
立ち尽くす足元に、小さな震動が伝わる。
(……来る)
霧の奥から、わずかに音。これは、機械の駆動音だ。
霧の中から現れたそれは、以前見た壊れかけのものと、似て非なるものだった。
黒い。小型。見たことのない滑らかな動き。四足歩行。尾の部分が、意思を持っているかのようにゆらゆらと揺れている。
(しかもコレは、“生きている”――)
そう思うか思わないかの刹那。
考えるより早く、横へ跳んだ。
直後に地面が抉られ、礫が舞う。
ヤツの跳躍の瞬間は視えなかった。
感じた、としか言えない反応速度。自身の動きが、驚くほど最適化されているのが分かる。
がら空きの脇腹へ掌底。
当たる。
思ったよりも堅い。
互いに距離を取る。
また。前方へ転がる。
背後に衝撃音。
身を翻し。蹴り。
今度は躱される。
尾の薙ぎ。
これは視えた。間合い外へ下がる。
風切り音――。
互いに、決定打を欠いたまま、数十秒。
反応は出来ている。が、気を抜けばやられる。
多彩な動き。
前足の爪からは嫌な音が聞こえる。高周波。掠りでもすれば、すぱりと行くだろう。
尾の動きも読みづらい。
こいつ、俺の動きに慣れてきている。
やはり、ただの機械じゃない。
周囲の霧が、互いの熱で揺らでいる。
何度目かの尾の刺突。
このまま大きく避けていては――。
ギリギリを。
そのこちらの踏み込みを見てヤツが笑った。
背筋が凍る。
眼だ。光学兵器。
俺の死に体をしっかり見据え、エネルギーが集束。
射抜かれ――。
唐突に、視界にラインが流れ。
ヤツと繋がる。
情報が流れてくる。
≫Analysis:Done
≫Override
≫Terminate
瞬間、ヤツが硬直。寸でのところでエネルギーの集束が途切れ、停止。
辺りに静寂が戻った。
◇◆◇
(俺は今、何をした?制御。いや、命令を上書き……?)
あの時と似ている。オルド・エニアの地下で死にかけた時と。
左目の奥に、また何かが蓄積されたような感覚があった。
(これも、“かつての記憶”なのだろうか)
視界の端、霧の奥に、影がひとつ揺れた気がした。
だがそれもすぐに、周囲の霧に飲まれ、そして消える。
ダメージを確認する。大丈夫、かすり傷程度だ。
まだ、核心には触れていない。
消えた影の向こう側。更に先を目指して、歩を進めた。




