第二章3:境界に触れる時
≫観測ログ:個体SIG-EX-B28-01
≫記録対象:静域外縁・不規則地帯/識別境界エリア
≫観測状態:視認記録断続/タグ付け遅延中
≫観照ログ優先適用中
ノアは頬に感じる風の、その向こうを見つめていた。
足元の岩肌には刻まれたような断層が走り、その先は厚い霧に沈んでいる。
地図にすら載らない境界――。ここでも、かつて誰かが踏み入れた記録は、どこにも残されていない。
背負っていた小型パックを降ろし、中から黒く無機質な端末を取り出す。これまで任務に必要な情報の送受信に用いられてきた、アドミの観測網に繋がる“眼”であるオラクルだ。
ノアは静かにその端末を見下ろしふと、手元を緩めた。音も立てずにオラクルが手から滑り落ち、やがて見えなくなった。
≫備考:SIG-EX-B28-01、自己観測ログに端末切断記録を検出
≫タグ処理:破棄/再接続不可能
もうアレは必要ない。命令に従うための端末であり、同時に記録のための道具だった。
だが今の自分にとって、命令も記録も、すでに意味を持たないから。もともと意味なんてなかったようにも思う。
それでも、形として手放してみると、いっそ清々しい気分だった。
◇◆◇
オルド・エニアでは、いくつかの座標を受け取っている。
先の電波塔で起きた事象からすると、今では忘れてしまっている”過去の記憶”が、これから向かう先々に散りばめられているのだろうか。
もしもそうだとすると、すべての記憶を集め終えた時、俺は俺ではなくなるのだろうか。
俺の身体は他のみんなとは違うと、ザインは言っていた。機械の身体が居ない訳では無いが、俺ほどに機械が敷き詰められている身体は居ないのだと。
明確に身体の”進化”を感じている今、心の方にも何らかの変化が起こり始めているように思う。
あの電波塔で見た”記憶”のことを考えながら歩く。
あれは間違いなく俺自身の”記憶”だった。あの記憶について思い出している今も、身体の奥の方から『懐かしい』という感覚が湧き上がっている。
けれど、全てを思い出したわけではないことも分かっている。≪聖域≫での任務をする前のことは、何も覚えていないのだ。
何れにしろ、これから向かう先にそのヒントの一つがあるはずだ――。
霧の中をしばらく歩いていると、これまでの雰囲気とは明確に違う、層のようなものに近づいていることを感じた。
「ここだ」
視覚情報としては、ここまでずっと視界を覆っていた霧と違うところは見受けられない。ただ、手で触れてみると、弾力こそ感じないが若干の抵抗がある。
今更躊躇することも意味はない。圧を押しのけるように、一歩踏み出す。
その瞬間、周囲の空間が変質する。
風の音が止み、世界の輪郭が歪む。
霧が、空間そのものを切り替える境界として機能しているのだ。
(やはり、ここから先は異次元だ)
言葉ではなく、感覚として理解した。この霧の向こうは、既知の構造ではない。
座標を超えた先。記録が届かない場所。
ふと、足音が響いた。後方、霧の奥から微かな気配。
反射的に振り返る。左目が少し熱を帯び始めた。
そこにいたのは――白い外套の人物。既視感。これは、あの記憶の?
ゆっくりと歩み寄るその姿には、迷いも警戒もなかった。フードの奥、目元だけが闇に浮かぶ。
「……また、会ったわね」
女性の声。かすかに微笑が混じるような、けれどどこか透明な声音。
それは確かに、どこかで聞いたことがある声だ、記憶が言っている。
「私のこと、覚えてる?」
ただ、記憶を探ってみるが、明確には思い出せなかった。だけど。
「……いや、けど……知っている気がする」
「それで今は十分」
手の届く範囲の、ギリギリ外側に立ったところで、彼女は止まった。
その視線は、俺の左目に注がれているようだった。
「そこに、焼き付いているはず」
彼女が現れたと同時に左目が反応していることは事実。
「あなたは、もうこちら側に来ている。けれど、完全には渡っていない。境界の“こちら側”に踏み出すには、もう一つだけ、鍵がいるわ」
「鍵……? いや、それよりも、君は、誰だ」
その問いに、彼女は数瞬おいて、応えた。
「私は“オルタ”。あなたが記録しないものを見るために、必要とされる存在。あなたが選ばなかったもうひとつの回路、もうひとりの“観測者”よ」
観測者。もう一人の?選ばなかった、とは一体。
だが。……そうか、俺は今、観測者になっているのか。
霧の奥、誰も踏み入れていないその地平へ視線を向けた。
何かが、始まろうとしている。
俺という存在を超えて、世界の“観測の輪郭”そのものが、変わろうとしている。
もう一歩、霧の奥へと進み出る。
彼女の視線を、背中に感じながら。




