第二章2:記憶の発芽
≫観測補記:個体SIG-EX-B28-01、記憶照合プロセス起動
≫識別コード:未登録記憶片/参照元不明
≫記録補正:観測範囲外──観照ログに切替中
重なった“声”の残響が、まだ内側で震えていた。
──見つけた、君を。
その言葉は、どこか懐かしく、そして決定的だった。呼びかけた“何か”は確かにノアを知っていた。それは、ノアという存在がこの世界で“名づけられる前”を知っている者の声だった。
視界には、光がまだ揺れている。
塔の最深部。封印のように隠された装置に接触した瞬間、左目が閃光を放ち、その奥で閉ざされていた“記憶の種子”が破裂した。まだ形は定かではない。ただ、そこに何かが“芽生えた”のは確かだった。
(……これは、俺の……?)
ノアは目を伏せる。光の粒が、意識の縁に絡みつく。それは映像ではない。記録とも違う。
呼ばれた記憶のない、しかし、確かにそれは、自分の名前を呼ぶ、その声を思い出す。なんと呼ばれているのか、まだ定かではなかった。
今の世界ではありえない、誰かの柔らかい声。
その響きの中に、自分の“最初の姿”がうっすらと浮かび上がっていた。
掌を見ると、義体の指がかすかに震えていた。
見慣れたその外装の下に、まったく別の存在が眠っている──そう思えるほど、違和感と、同時に親しさが同居していた。
“知っているはずのない記憶”が、“知らなかった自分”を映し出そうとしている。
≫記憶補記:該当個体、過去構成データとの共鳴反応を検出
≫一致率:82%/識別保留
塔の空間は静まり返っていた。だが、ノアはその静けさがただ無音なのではなく、“聴かれている沈黙”であることを感じ取っていた。
視線を巡らせる。左目が、ぼんやりと奥の壁に残留光を映し出す。
……誰かが、そこにいた痕跡。
今はもう、どこにもいない。
彼は静かに口を開いた。
「……ここに、いたんだな」
誰かが、かつてここに座っていた。誰かが、記憶を託した。
そして、その“誰か”は──たしかに彼、ノアの一部だった。
ノアはゆっくりとその場所に近づき、床に膝をつく。指先でなぞるように、冷たい石の感触を確かめる。
──その瞬間、
≫同期反応:義眼ユニットと記憶片が接続開始
≫内部照合データ解凍中:非公開モード適用
ふいに、視界が切り替わる。
それは、かつて夢の中で、見たことのある静かな草原の風景。
高く空が広がり、風がノアの髪を揺らしていた。
小高い丘に、一本の大木が植わっている。その木陰に、白い外套をまとった“誰か”が座っていた。フードを目深に被っていて、顔は見えない。だが、その背中には確かな温もりがあった。
(この記憶は……いつの……?)
いくら身のうちの記憶を探っても、答えは出てこない。
ただ、ノアの内側で何かが“再起動”していた。記憶ではなく、構造そのものが、違うものに“変わろうとしている”感覚。
──これは、思い出すというより、“再構築”だ。
「……僕は、誰なんだ……?」
はじめて、自分自身にそう問いかけた。
気づいたのは、その瞬間だった。
≫補記:対象個体の自己同一性に位相変動を検出
≫識別呼称:“ノア”/旧構成体名:不明
風景が、揺れる。
記憶はまだ不完全だ。けれど、そこに残されている“何か”は、これまでノアが理解している”自己の像”とは異なっていた。
彼は静かに立ち上がり。
光が消えた。
再び、現実の塔の奥へと意識が戻る。
(進まなければならない。思い出したい。すべてを)
左目が静かに輝く。
記録ではなく、記憶が未来を導こうとしている。
「僕は……俺は……どこから来た?」
答えは、まだ遠い。
≫観測補記:個体SIG-EX-B28-01、自己識別タグ【Σ】に変化兆候
≫記録対象:観照ログへの移行継続中
≫備考:観測者に対する同一性表示の不確定性、上昇中……