第二章1:観測の果てに
≫観測ログ:接続異常
≫識別コード:SIG-EX-B28-01
≫追跡タグ:信号断絶/再接続試行中……
冷たい風が、断崖の外縁を舐めていた。
断崖と言っても、ここは旧世界の高層建築の成れの果てが林立する地区。危険な、数十種類に及ぶ敵性機械が跋扈する領域であった。
その場所は、≪静域≫の北東端、アドミ管理圏外の境界。既にその外側だ。
シーカーの役割とはそもそも、彼らの目を通して世界、つまりは観測可能領域を広げていくものだったのだが、これまでのアドミからの指示では到底配置されない区域。
ノアは林立する建物群、その中の一段高い屋上のその中央に立ち、静かに目を閉じていた。
体内の自己修復システムは、すでに損傷部位の補填を完了していた。義体右胸部は再構築を終え、出力比も限界値近くまで回復している。
これまでとは何かが違う感覚があった。
肉体の感覚ではなく、“制御”の感覚が。
ノアはその違和感を、淡々と受け入れていた。
彼は知っていた。この違和感は「進化」だと。
そして、進化は必ず孤独を連れてくる。
≪内部メモリ調整完了:義体制御レベル3→4に更新
≪補足:自己補正パラメータに未知数値を検出
≪起動可能機能:位相干渉スキャン(試験運用)
ノアは、指先を伸ばした。
視界の端に、神域から受信した“もうひとつの座標データ”が、微かに点滅している。
そこに“何か”がある──そう、彼の中の記憶ではなく、“記録されなかった直感”が告げていた。
「じゃあ、行こうか」
誰に向けるでもない声。
断崖の端を蹴って、高層建築の峰々を跳躍していく。
目指すはこの地区の中央に一際高くそびえる、旧電波塔とされる建造物だ。
◇◆◇
半崩落状態の通信塔。かつての情報拠点。
だが今は、アドミの記録すら存在しない。アクセス記録ゼロ。観測タグもなし。
すなわち──“誰も来ていない”場所。
ノアは静かに歩を進めた。
左目が、瞬時に周囲の構造をスキャンする。
……反応なし。
だが、内側では、レンズがわずかに脈動している。
異常光を捉えたあの、円環のときと同じ感触。
彼は、すでに知っている。“記録されない光”が、ここにもあることを。
≫レンズモード:干渉走査起動
≫照合対象:既存観測ログ──照合不可
≫補足:観測外構造体を検知
ノアの視界に、瓦礫の奥、朽ちかけた塔の下層へと続く隙間が浮かび上がる。
まるで、“ここに来ることが最初から決まっていた”かのように、自然な導線。
誰が設計したのか。
何のために残されていたのか。
それすらも、記録されていない。
──ただ、そこにあるだけだ。
ノアは迷わない。
光を追って、奥へと進む。
◇◆◇
ザインは、静かに端末を見つめていた。左手には、黒いレンズケース。
ノアの“左目”を預かっていたあのときの記憶が、脳裏をよぎる。
(……追跡信号が途絶えた。あの時とは違う。恐らく意図的に切られている)
レンズに仕込んでいた隠蔽タグ。常時ザインが受け取っていたその信号は、ノアをオルド・エニアに送り出してからしばらくの後に、急に途絶えていた。
──あの少年は、今、どこにもいない。
どの管理システムにも触れられない、”観測の外側”にいる。
「リードを外すところまでは想像していなかったな」
ふ、と口元が歪む。憤りではない。焦りとも違う。
それは、かすかな期待と、そして一抹の恐怖だった。
「しかし、まさか本当に、“神”の観測外に出るヤツになるとは」
彼の目に浮かぶ、円環の残像。
そして、遠い記憶の中にある、禁忌の存在。
エニア。
それは、かつてザイン自身が“最も触れてはならない”と誓った、沈黙の神。
だが──その神が、今、ノアに“何か”を託し始めているのだとしたら。
「お前がこれから何を見るのかは、俺も知っている必要がある。未だ世界が知らない何かを見つけたその時、俺がそこに居るために――」
ザインの視界の片隅には、≪観測可能範囲外≫の表示が瞬いていた。
◇◆◇
塔の最深部。
ノアの足元で、光が軋んだ。
レンズがわずかに熱を帯びる。左目の義眼は、記録されないまま、何かを見ている。
彼は、そこでようやく気づく。
──この目が、世界を映していないことに。
“記録のための観測”ではなく、“記憶のための観照”を続けていたことに。
記録されないものが、確かに存在する。
ノアは今、それを証明しようとしている。
彼は、奥の壁に手をかける。
そこには、封印のような機構があった。
レンズが反応する。
記録不能の信号が、彼の中に入り込む。
──そのとき、ノアは見た。
もうひとつの記憶が、自分の奥底から浮上するのを。
≪内部補記:対象個体が観測領域外に到達
≪管理接続:不能/座標ログ非対応
≪記録継続不可/視認対象を“記憶”へ切替中……