序章1:非観測個体 SIG-EX-B28-01
≫観測ログ No.017-α
≫被観測体名:ノア
≫識別コード:SIG-EX-B28-01
≫観測開始時刻:06:02
≫観測地点:静域第三区・居住ユニット No.28-B
≫記録者:配信中継端末経由ログ
≫モニター権限:一般公開レベル2(観測対象開示範囲準拠)
──彼は、目覚めた。
義体と生体組織の接合部に微かな起動反応。
眼球ユニットの焦点調整は、わずかに遅延を伴っていた。
視界の端に残るノイズと、記録されなかった夢の断片が、沈殿した空気のようにその意識の底に漂っている。
ログによると、彼は起床時にこう呟いた。
「……また、同じ夢だ」
発話記録は残っている。
しかし、夢の内容は《観測不能》と記録されている。
意図的な秘匿、あるいは構造上の干渉によって、視覚ログも思考スキャンも破片すら抽出できない状態。
それは今月に入って七度目の《同一表現反復》。
夢とされるものの実体は不明である。
ただ、その直後、彼の神経伝達速度にわずかな乱れが観測されている。
ノアは静かに身体を起こし、室内を見回した。
壁際の無機質な棚。防塵仕様の記録端末。
人工植物の葉先には、三日前に降った微細な砂塵がそのまま残っていた。
この居住ユニットには、過剰な装飾も、生活の痕跡も、個人の色も存在しない。
彼はそれを選んだ。
そして、それに疑問を抱いていない。
鏡台の前に立ったノアは、いつもより2.3秒長く静止していた。
だが、観測値は別の動きを記録していた。
ノアの右目が一瞬、スキャンモードへと切り替わる。
焦点が合っていたのは、鏡の中の自分——ではない。
眼球ユニットには、内部記録素子が組み込まれている。
日々の視覚情報は、指定容量まで自動保存され、任務終了後にアドミへとアップロードされる仕組みだ。
だがその日、ログには“判別不能なフレーム”がひとつだけ残されていた。
焦点不明・映像ブレ・記録タグなし。
それは明らかに、“記録されない何か”の存在を示していた。
それでも彼は何も言わず、検査を終え、予定通りの時間に部屋を出た。
アドミからの任務通知はまだ届いていない。
だが、彼は既に行動を開始していた。
過去三十日の観測記録において、ノアは平均2分早く“出発”している。
その習慣は、特に合理的な理由を持たない。
ただ、“何かを避けているように”すら見えるという分析結果がある。
避けているのは遅延か、予測か、それとも——。
◇◆◇
ノアは歩く。
靴底が床に触れるたび、規定ノイズ範囲内の音を立てて記録されていく。
居住区から出てすぐ、彼の網膜に周辺環境のデータがオーバーレイ表示された。
だが、その情報はしばらくの間、更新されていない。
本来であれば、この時点でアドミからの任務通知が届いているはずだった。
今日だけでなく、ここ数日間、通知の“遅れ”は続いている。
アドミ側に障害報告はなく、配信精度も正常範囲。
にもかかわらず、ノアは常に“通知前”に任務行動を開始していた。
――観測者がいれば、こう記録しただろう。
――「彼は、知っている。まだ知らされていない情報を」
ノアは端末を確認することなく、区域04の路地へと歩を進める。
移動ルートは不自然なほど最短で、通行記録が存在しない分岐点をいくつか経由していた。
そのうちの一つは、地図上では“封鎖中”とされている廃線だった。
ログ上は、それが初めての通行であるように見える。
だが、彼の足取りは迷いがなく、目線も段差も、まるで“既知の場所”であるかのように処理されていた。
区域AX。
かつて工業層の補給ノードとして運用されていたが、今では不明な理由で封鎖。
再編対象からも除外され、“記録上は存在するが機能上は失われた空間”とされている。
アドミはここを任務対象に含めた記録を一切残していない。
それでも、ノアは迷いなくその門を開けた。
鋼鉄製の搬入口——手動で開閉されるタイプのもの。
通常はシーカー階級の者でも単独アクセスが許可されない区域。
だが、ロックはなかった。
扉が開く直前、彼の端末が反応した。
アドミからの任務通知が届いたのだ。
≫任務コード:AX-0179-s
≫任務内容:区域内残留反応の確認
≫優先度:Cクラス以下
≫記録設定:自動配信ON/観測ログ開示レベル1
≫注意事項:当該区域は一部観測不能領域を含みます。補助端末の使用は任意。
──すでに扉は、開きかけていた。
「……おや。ずいぶん早かったな」
その声は、内部から届いた。
記録上、反応音も識別タグも存在しない。
だが、音声波形は明らかにそこに居たことを証明している。
ノアは扉を押し開け、中に入る。
散らばる工具。解体された旧型端末。
天井の照明は半壊しており、光は断続的に明滅していた。
その中心に、油と埃にまみれた作業着の男が立っていた。
ザラついた声で、彼は笑った。
「何だ、また変な夢でも見たか?」
ザイン。
整備士。非登録者。観測記録上は“存在しない”男。
彼の居住データは破棄され、出入域ログも検出されない。
だが、何度もノアの前に姿を現している。
この存在に関して、アドミは黙認を続けている。
ノアは、答えない。
視線が一瞬だけ、わずかに揺れた。
その動きに、記録上の異常値は存在しない。
だが、その0.4秒の沈黙の中で、彼の心拍がわずかに上昇した記録が残されている。
その理由は、記録されていない。
≫【観測ログ:続行中】