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058_演習という名の一手>>

 机の向こうでクロノスは動かない。決断できないというより、選択肢が彼を縛っているように見えた。


 早く動けば市場が歪む。

 遅れれば街が壊れる。

 その二択のどちらにも彼はすでに辿り着いている。


(だがな、クロノス。その二択では答えは出ない)


 沈黙のまま、クロノスはしばらく動かなかった。やがて必然的に、結論ではなく問いを選ぶ。


「……お前なら、どうする」


 クロノスが視線を上げる。そこにあったのは、判断を放棄した目ではない。自分とは違う視点を求める視線だった。


 俺は一拍だけ置いて答える。


「動くべきです。今すぐ」


 言い切ると、クロノスの眉が動いた。


「なぜだ」


 想定どおりの問い。俺は理由を答える。


「魔王側は、すでに偵察フェーズに入っている可能性が高い。冒険者の消失は、恐らく偶然じゃない。地形、防衛体制、対応速度――こちらの状況を掴み始めていると考えます」


 ニックの顔が一瞬よぎる。だが、そこには踏み込まない。


「このまま静観すると主導権を渡したまま。すると次は“最適化された侵攻”が来ます。だから、こちらも動いて、揺さぶる必要があります」


「だが……軍を動かせば、市場が反応して混乱する」


 クロノスの声は静かだ。否定ではない。確認だ。


「ええ。だから、軍事行動としては動かしません」


 俺は続ける。


「名目は大規模演習。防衛網の確認、連携の点検、対応速度の確認。外から見れば、制度点検の延長です」


 クロノスが目を伏せた。考えている。


「演習であれば、市場は戦時と認識しない。だが、こちらは動くことができる」


「それだけじゃありません」


 俺は言葉を重ねる。


「演習と同時に、相手の想定や学習結果を撹乱します。彼らが想定する我々の対応を書き換える。『この国は、こう動く』という想定を混乱させる」


 俺は少しだけ続けた。


「部隊の展開速度、対応の順序、動線。どれも大きく変更はしない。ただ、意図的にずらしてください。それでも、相手の精度は一段落ちます」


 沈黙。クロノスの指が、机の上でわずかに動いた。


「……冒険者は?」


「偵察を強化します。魔王領側の動きは、軍だけでは拾いきれない。軍は面を押さえる力は強いですが、動いた瞬間に相手に観測されます。冒険者なら、より小さく、深く入り込める」


 俺は一度、言葉を切った。


「ただし、単独行動は禁止します。必ず複数で動く。ソロは狙われやすい。これは、もう分かっている」


 クロノスが静かに息を吐いた。否定はなかった。


「冒険者の運用については、ギルド長のベルザに俺から依頼します。彼女なら徹底できます」


 ベルザの名を出すと、クロノスの視線がこちらに戻った。


「……全部、織り込んでいるな」


「役割を分けるだけです」


 俺は淡々と続ける。


「商会は資源配分と兵站。ギルドは偵察。市場維持軍は防衛戦力を動かす。得意な領域で、それぞれが持っている長所を最大限発揮すればいい」


 クロノスはしばらく黙っていた。


「……分かった」


 短い言葉だった。


「演習として大規模に軍を動かす。市場への影響は、できるだけ抑える」


 クロノスはそう言って結論を置いた。全てを丸く収める最適解が存在しない中での現実的な一手だった。


 俺は一度だけ、深く息を吸った。


(これでいい)


 完璧を求めれば動けなくなる。動きながら最善に寄せればいい。

 軋んで止まりかけていた歯車が、再び回り始めていた。

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