057_クロノスの止まった時間>>
ここは、オダリオン市場維持軍・最高司令官の執務室。だが、武器も軍旗などの威圧的な装飾も置いていない。威圧は判断を速くするが、正しくはしない。
今日はオルデス商会の会長と会う予定だ。名は、まる助。一風変わった名前だが、あのウォーダが後を託した男。
どんな人物か。ウォーダは多くを語らなかった。その沈黙自体が評価であることは確かだが、それが肯定か否定かは、まだ判断できない。
ほどなくして扉が開いた。案内され、男が入ってくる。オルデス商会の代表、まる助だ。男の視線が、一瞬だけ揺れた。
(……外見で測るな)
私の姿を見て、そう自分に言い聞かせたのだろう。小学生の外観。街にいれば、ただの子どもに紛れる。この反応は想定内だ。私は何も言わず、ただ視線を返した。
だが、彼はすぐに気づいた。視線が合った瞬間、評価の基準を切り替えたのが分かる。好奇心でも警戒でもない。感情を排した、純粋な評価の目。
(……これでいい)
短い沈黙のあと、私は名乗った。
「エイレン・クロノスだ」
幼い声が響く。だが、言葉に迷いはない。必要な情報だけを出す。
小学生の外観。不便ではあるが問題はない。過去の市場崩壊事件で、時間圧縮魔術の事故に巻き込まれ、肉体は成長を止めた。だが、判断に必要なのは肉体ではなく、論理と経験の積み重ねだ。
彼も名乗った。まる助。肩書きと要件を簡潔に述べる。余計な感情は挟まない。
「聞いている。ウォーダの後釜だろう」
それで十分だった。社交は不要。彼は腰を下ろし、資料を広げた。
「結論から言います。魔王軍侵攻の兆候――準備段階に入った可能性を、複数の指標が示しています」
報告は整理されていた。感情は抑制され、数値だけが並ぶ。冒険者の消失率、標準偏差、発生間隔の短縮。仮説と感想は切り離されている。
「魔王軍の侵攻が発生する確率、五割から六割。確定条件には未達です」
(……信用できる言葉だ)
私は途中で口を挟まない。最後まで彼の論理を読み切る。沈黙は、思考のために使う。
「……なるほど」
返す言葉は、それで足りた。
「まだ始まってはいない。だが、兆候は十分だ。いずれにせよ、臨界点は近い」
結論を最短距離で返す。彼の報告と、私の認識は一致している。
――いや、それ以上だ。論理の組み立て、変数の選び方、確率の置き方。そのすべてが、私の思考より深く、しかも数歩先を捉えている。知識量の差だけではない。世界の構造そのものを理解している。彼は、私より数段高い場所から、この世界を俯瞰している。
だが――私は動けない。
軍を動かすとも、警戒レベルを引き上げるとも言えない。
過去の早すぎた判断が脳裏をよぎる。危機を察知し、早めに介入した。結果として、市場は過剰に反応して流れが止まり、被害はかえって拡大した。
理由は単純だ。軍が動いた瞬間、市場はそれを戦時と解釈する。
私は、ゆっくりと口を開いた。
「市場維持軍は常設軍じゃない。全ての街を物理的に守れる規模でもない」
淡々と告げる。
「軍が動いた瞬間、市場は戦時として反応する。経済の血流は歪み、人々は備え、溜め込み、活動を止める。我々が動くこと自体が、市場に対する最大の攻撃になりかねない」
わずかに視線を落とす。
「だが、判断が遅れれば……物理的な破壊により、街は機能を失う」
早すぎれば、経済を壊す。
遅れれば、街が壊れる。
私は判断を決めることができないまま、時間の中で立ち止まっていた。




