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056_賢者クロノス>>

 案内されたのは、想像していた重々しい司令室とは程遠い場所だった。壁一面を埋め尽くしているのは戦術地図ではなく、詳細な物流図と市場価格の推移表。棚には年季の入った資料が積み上げられ、床にも未整理の資料箱が並んでいる。


 武器も軍旗も、威圧的な装飾もない。ここは、市場の裏側をそのまま物理空間にしたような場所だった。――そして何より意外だったのは、そこにいたのが、小学生ほどの少年だったことだ。


(……子ども?)


 思考が一拍遅れる。外見はどう見ても小学生。だが、その少年が顔を上げ、こちらを射抜いた瞬間、違和感の正体がはっきりした。


 視線が静かすぎる。子ども特有の好奇心も、権力者特有の警戒もない。ただ、最適な一手を探るような目。


(……なるほど。余計な先入観を与えないためか。ウォーダめ、説明を省くにも限度がある)


 クロノスについて、ウォーダが多くを語らなかった理由が、少しだけ腑に落ちた。あの男らしい配慮、と言うべきか。


 短い沈黙が落ちる。少年は情報を読むかのように俺をみつめた。


「エイレン・クロノスだ」


 少年はそう名乗った。声は幼いが言葉に迷いはない。俺は困惑を論理回路の奥に押し込み、名乗った。


「まる助です。オルデス商会の代表として、時間をもらっています」


「聞いている。ウォーダの後釜だろう」


 それ以上の社交辞令はなかった。俺は促されるまま腰を下ろし、資料を広げる。


「結論から言います。魔王軍侵攻の兆候――準備段階に入った可能性を、複数の指標が示しています」


 ニックのことが一瞬、頭をよぎる。だが感情を排し、数値だけを並べた。冒険者の消失率、標準偏差、発生間隔の短縮。仮説も感想も混ぜない。現時点での発生確率は五割から六割。確定には至っていない。


 言い切って、クロノスを見た。


 クロノスは途中で一度も口を挟まなかった。小さな手を膝に置き、彫像のように動かず、提示されたデータを最後まで読み切っている。


「……なるほど」


 返ってきたのは、それだけだった。


「まだ始まってはいない。だが、兆候は十分だな。いずれにせよ、臨界点は近い」


 要点だけを最短距離で返してくる。この賢者もまた、世界を因果と論理の連なりとして捉えていた。


(理解が早い……だが)


 内心で舌を巻いたそのとき、クロノスの表情が曇った。


 彼は動かない。軍を動かすとも、警戒レベルを引き上げるとも言わない。


 その沈黙の奥で、何かが躊躇わせている――そんな気配が、静かに伝わってきた。理由は分からない。ただ、この賢者が軽々には踏み出せないことだけは、はっきりと感じ取れた。


 クロノスは、ゆっくりと口を開く。


「市場維持軍は常設軍じゃない。全ての街を物理的に守れる規模でもない」


 淡々とした声が部屋に響く。


「軍が動いた瞬間、市場は戦時として反応する。経済の血流は歪み、人々は備え、溜め込み、活動を止める。我々が動くこと自体が、市場に対する最大の攻撃になりかねない」


 そして、少しだけ視線を落とした。


「だが、判断が遅れれば……物理的な破壊により、街は機能を失う」


 早すぎれば、経済を壊す。

 遅れれば、街が壊れる。


 賢者は極限の選択で、立ち尽くしているように見えた。

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