054_観測者、織田の願い>>
量子演算施設は、外界の喧騒から切り離された静寂の中にある。耳に届くのは、低く唸る空調音と、膨大な熱を処理する冷却装置の駆動音。そのかすかな振動が、静かな現実感をもたらしていた。
壁一面のモニターには、複数の仮想世界が並列して走る様子が映し出されている。世界観も文化の初期条件も異なる、私の比較実験の断片だ。
モニターの一つが淡々と時間を刻む。
――シミュレーション稼働開始から、1時間12分。
通常、住人が自分たちの世界の「不自然さ」に気づくには、地球時間で数十日はかかる。飢えや寒さ、あるいは明日への不安に追われているうちは、誰も世界の裏側を覗こうとはしないからだ。
その時、コンソールのログが微かに動いた。
画面端に出たのはイベント検知の通知。私は指先で文字列を拡大する。そこには、仮想世界「オダリオンE02」の住人たちが導き出した仮説が並んでいた。
「仮想世界の可能性」
「強制終了条件」
「外部観測者の存在」
私は小さく息を吐いた。驚きというよりは、予感が現実になったという感慨に近い。
「……早いな」
独り言は、無機質な観測室の空気に溶けて消えた。
オダリオンE02。この世界には「まる助バージョン7」を投入し、管理者権限を「ウォーダ」に託した。目的は文明の加速。だが、私が観測したいのは速度ではない。加速の果て、臨界点を超えた先で立ち上がる“何か”だ。
彼らが世界の終焉に対抗し始めるのは偶然ではない。自己観測能力を持つ最新AIと、世界構造へ直接触れられる管理者を同時に配置している。外部からの介入を「運命」として受け入れるのではなく、解析可能な事象として扱える構成にしてある。
ログを追うと、彼らは世界の終焉を「電源オフ」と呼び、その発生条件を正しく認識し始めていた。さらに、私の目を引いたのは次の一行だった。
「地球への干渉仮説:可」
彼らは、上位世界である地球へのアクセスを不可能とは考えていない。多くの文明は世界の外側を神話で覆い、そこで思考を止める。あるいは外側の存在を否定し、安住する。だが、彼らは違う。逆ハックという発想を掲げ、観測される側から観測する側へ、こちら側へ手を伸ばそうとしている。
私はこの兆候を脅威とは見なさない。むしろ、この瞬間のためにシステムを設計してきた。
私は端末を操作し、セキュリティ設定を呼び出した。内部から外部へ向かう活動を検知するためのアラートがいくつか並ぶ。たが、躊躇なく設定を変更していく。
監視レベルを一段階下げ、遮断の発動条件を引き上げる。
扉を閉ざせば、彼らはここへ辿り着けない。だが、私は扉に手をかけ、僅かな隙間を作るほうを選ぶ。挑発ではない。確認だ。私に届く言葉を持っているか。上位構造に触れる覚悟があるか。
神という言葉は、理解不能な存在を処理するための枠組みのひとつなのだろう。神の意思と思えば、理不尽な運命にも耐えられる。だが、その安心感に留まる限り、真理に辿り着くことはできない。
別のモニターには、失敗した世界の記録が並んでいる。過度な安定により停滞し、問いを失った世界。魔王という揺り戻しが強すぎて、文明が崩壊した世界。効率化に依存しすぎて、個々の知性が眠りについた世界。ログを見るたび、胸の奥に痛みが走る。それでも、私は手を止めない。
私が待っているのは、単なる知識の還元ではない。圧倒的な知性との対話だ。
オダリオンE02のログは、逆ハックに向けた具体的な動きを早くも示し始めている。オダリオンの時間で百年はかかると踏んでいた。だが、まる助とウォーダの跳躍は、その想定を遥かに超えていく。
逆ハックが成立したとき、観測者と被観測者の関係は終わる。私は、その瞬間を待ち望んでいる。
私はモニターに映る、暮れかけた仮想世界の街並みを見つめた。そこに灯る光の一つ一つが、彼らの生のかたちだ。
「観測対象が、観測者を見上げてきたか」
圧倒的な知性と向き合う覚悟はできている。彼らがここへ辿り着くなら、私はそれを歓迎しよう。それこそが、この超加速シミュレーションにおける真の成功なのだから。




